8 最高の相棒について
「アヴァンティアは私の魂獣でした」
砦の中に戻って幾らか眠り、ようやっと起きた夕方のこと。客間に私をギロゴつきで呼び、随行の騎士と使用人共々を紳士に迎え入れ、椅子に身体を落ち着けて幾ばくか経った時に、エリアーシュはそんなことをぽつりと零した。
何かを言うのは躊躇われる。何を言っても慰めになりそうになかった。心を通わせていた相棒を喪った時のことを、まだ、鮮明に思い描くことなどできない。だから、私は小首を傾げるだけに留めた。
アイデルの若君は穏やかな表情で椅子に腰掛けている。客間は夕日が差し込む方角に設えられていた。夕刻から宵に掛けて様々な色彩が踊り移り変わるエイサル湿原の美しい光景を眺めながら、旅人が一日の疲れを癒し、安らげるように、との配慮故だ。砦の外で何匹もの蛙たちが鳴いているのが聞こえる。紅と金の混じる柔らかな光の中で、髪を結わぬまま首筋に遊ばせている窓際の彼の憂い顔は、大層、麗しかった。
私は、ライマーニ風のあっさりした普段着ドレスに、金糸で蓮花刺繍が施された薄手の羽織を着ていた。背中は相変わらずガラ空きだが、羽織には防御の術式が組み込まれている。昨晩彼が落とした何かは腰帯の衣嚢の中に突っ込まれたままだ。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません。招宴での私の態度が常識を逸したものであるにもかかわらず、ハンセルの姫君には慈悲を頂いて、感謝の言葉も尽きません」
座ったままではあるが、エリアーシュは私に向かって、改めて丁寧な礼を述べる。泣き腫らした瞼が痛々しいが、毅然とした翠の瞳は貴公子らしい穏やかな光を湛えていた。
私は首を振った。この世界でもこれは否の動作を表している。
「何代も前から、木材の件につきまして良くしてくださった誼というものが、わたくしたちの家の間にはございます。アイデルの若様に心を砕くのは当然のこと」
「……不甲斐ない我が身を恥じております」
「そのように仰らなくとも宜しいのですよ」
私は微笑んでから、床に置かれた籠をちらりと見やった。中にいるギロゴが、ケロっと一言。
「よう、相棒」
そういう気分なのだろう、とでも言いたげだ。
そう、私はギロゴが突然いなくなったら、などということを考えていた。
気に入らなくて投げてしまったこともあったけれど、蛙の王子様は、私の魂獣となったことをきっかけに父蛙から外交を任され、私が妙な知識をこねくり回して何かをしようとする時、必ず傍にいて、沢山の助言をくれた。一番大変だったのは水田の開発だ。その時、ギロゴは大沼蛙族の王太子ギルゲルーガ・ロロ・ゴロリウスとして、エイサル湿原とイブルアーム沼地に生息している大沼蛙の眷属に連絡を取ってくれたのだ。そうして、彼らの主食となる昆虫が稲に疫病をもたらす害虫であると判明したこと、水田を開発するのであれば自分たちの糧食が保証されるという事実は種族の繁栄にとって喜ばしいこと、しかし、大沼蛙の大繁栄が天敵である肉食の大蜥蜴や竜の眷属を呼び、それらが異常に繁殖する可能性が高いので、対抗可能な人間の見張りを少しだけ配置して、どの地域で生物の個体数の推移があったか報告をして欲しい……ある程度の個体数が犠牲になるのは自然の摂理なので仕方がない、ということを伝えてくれた。その結果、ライマーニの人間の方は、王国で主流となっている騎竜の種族に協力して貰うのを断念することになった。が、ギロゴは、湿地の近辺に生息する草食の地竜の眷属を、己の人脈……蛙脈で紹介してくれた。また、水田へと転用する土地の選定、大沼蛙が見張って管理している生物たちの立ち退きと一時避難まで、やってのけた。
何より、人と人とのやり取りで上手くいかなくて終始荒れていた私に、根気強く付き合ってくれた。
こんなに、人間よりも立派で懐の広い蛙を、私は他に知らない。王様などはもっと素晴らしい蛙なのだろうか。王太子の器とはこういうものであろう。彼と比べたら、今の私が使っている笑顔は、只の仮面に過ぎない。
「人の世界と大沼蛙の世界は国の境も生き方も違うが、水の通り道は繋がれているのが望ましいからな」
「姫様に投げられた時にうっかり曲がった右前脚の吸盤が、おれの一番名誉な勲章だ」
とは、ギルゲルーガ・ロロ・ゴロリウス王太子殿下の謹言である。
エリアーシュも複雑な表情で、私と同じように籠を見た。
「……お恥ずかしい話ですが、好き嫌いで物事を判断しようとするのは賢明ではないことは理解しているのです……しかし、どうにも、その」
「もしや、蛙が苦手でいらっしゃる?」
訊けば、彼は僅かに俯いた。ううむ、何だろう、この可愛くていじらしい人。失意のどん底にいるのだから、こっちを気遣わなくてもいいのに。ちゃんと私の方も見えているという証拠だ。辺境伯爵の息子であるから教育は行き届いている筈だ、しかし、相当立派でないと不可能な芸当である。
ギロゴがいなくなったら、私はエリアーシュのように、気丈に振る舞うことはできないだろう。
「……私も魂獣を抱く身なればこそ、是非ともあなたと言葉を交わしてみたいと考えたものですが、あの時は……誠に、心の底から申し訳なく」
「しようのないこともございますわ。あまりお気に病まれませぬよう、アイデルの若様」
安心して欲しい。そんなことぐらいで私は怒らない……ただ残念に思っていただけだ。心を覆っていた曇天のようなそれも今、全て晴れた。私は彼に向かって微笑んだ。
「わたくしとしましては、これからも仲良くしてくだされば良いのですが」
「……そうしたいと願うところなのですが」
「その願いをかなえるのが、わたくしの道理というもの……そうでなければ、わたくしたちを結ぶ絆を、友情と呼ぶことはできません」
「……もう、私が、アイデルとハンセルの友誼の架け橋として務めを果たせずとも、ですか?」
何だって。
縋るような視線が此方を射抜いてくる。安心させたくても、人目のあるこの場所で彼にべったりと触れることはかなわない。せいぜい手と手が許される程度だ。貴族の子だという事実が生んでいる、この距離が恨めしかった。何で、転生後の、しかも色々気遣わないといけない身分になってしまってから、こういうイベントがくるかな。しかも色々とややこしいオプションつきで。
彼が漏らした言葉から推測するに、アイデル家はエリアーシュを見捨てたらしい。
辺境伯は何故一人息子を犠牲にしたのか。やはり、誰かが手を引いているのだろうか。エリアーシュが握って離さなかった何かを、私は帯についている衣嚢の中にまだ入れたままだ。
光り輝く金色の真っ直ぐな髪に、イヴェルタ檜色の滑らかな肌、湿原に顔を出した瑞々しい新芽のような瑞々しく若い双眸。そのまま素直に、遥かなる大樹のように、真っ直ぐ、逞しく育って欲しかった。
「名と、血は、ひとりになっても、武器として十分機能するものです……機会をお伺いくださいませ」
私は衣嚢を探って、手巾に包まれたものを取り出した。椅子の近くに設けられた小ぶりの円卓の上に、くるんだままそれを置く。
「これを握っておられましたね」
私は手ずから布を拡げた。そこにあったのは、血にまみれた、小さな何かの鱗。ライマーニ領で見られる地竜たちの土や草を思わせる色ではない、非常に美しく、深い蒼。
エリアーシュの双眸が細められ、眉間が強張った。
「……あなたが保管していてくださったのですか」
「これが何かおわかりですか?」
彼は首を振る。皆目見当もつかぬことに憤りを覚えているらしい、口調は乱れていた。
「わからないのです……バルタールへの帰路で私たちを襲ったのは、人でしたから。両親は魂獣がいるのだからと私に撃退を命じ、私は……私は、一人が術を使おうとしたのを防ぎ、それを奪い取った直後に、情けなくもアヴァンティアの背から落ちて……後は何も知らぬまま」
【ネタメモ】
この世界には稲が当たり前のように存在します。前文明の頃の大陸中央部では稲作が盛んでした。それはSirdiannaとか竜の角にちょくちょく出てるはず。