7 慟哭
「――どうしてそう思うのです」
エリアーシュの右手が理性を以て、私の肩を掴む。強い力だ。見開かれた目に力が入った。睫毛が長い。
私は答えた。
「街道で、あなた様を、翼の下に隠して、守っておりました」
「……アヴァンティア」
何かを思い出したのだろうか、その唇をわななかせて、彼はその名だけを震える息に乗せた。
「知っているのですね、アヴァンティアが、何処にいるのか」
「……ええ」
……嘘は言っていない。ただ、本当のことも言っていない。
私たちの胸の間に挟まれていたエリアーシュの左手が動いた。滑らかではあるが男らしい拳は私の胸を押しながら肉と脂肪の束縛より逃れ、首筋に触れてくる……乾燥した地域出身の者らしい、少しかさついた皮膚の感触が擽ったい。思わず首を竦めれば、親指と人差し指だけが伸ばされ、留め具のところで引きちぎれてしまったドレスの紐を摘まんだのが視界の端に映る。もう一方の手も、垂れ下がっていたもう片方の紐に伸びるのが見えた。
「……申し訳ありませんでした」
しなやかな胸板が私から離れていった。器用な指は私の首の後ろであっという間に紐を蝶結びにして、少しだけ名残惜しそうに首筋を撫でてから離れていく。それからエリアーシュは片膝を折り、私の足元に跪いた。
首筋で切り揃えられた柔らかな金髪がぱらぱらと肩から滑り落ちて、さらさらと宙に揺れる。それを、ただ、ひたすらに美しいと思った。
「……私を保護し、この身を清めて頂いたにも拘らず……ハンセルの姫君に対するこの度の私の非礼、心よりお詫び申し上げます。どのようなことでも、私に可能なことならば償うつもりでございます故、何なりとお申し付けくださいませ」
私は、彼が下を向いている隙に胸元を整えた。ポロリ回避である。よく頑張った。後ろの扉の向こうから、蛙の鳴き声と共に、スエゼンクワヌハオトコノハジだよ、という念話が飛んできたが、気にしない。
「ゼルクト、ファルニウス、扉を開けて頂けませんか」
「姫様!」
叫んだのはゼルクトの声。扉はすぐさま開けられた。振り返れば、焦った表情の二人が私を心配そうに見つめ、跪くエリアーシュに気付いて、疑いの視線を向けた。気遣いをくれるのはファルニウス。
「大事ないですか」
「大丈夫ですわよ」
私は微笑んで、エリアーシュに向き直る。そのまま彼と同じように膝を折って、俯いていた彼の右手をそっと取った。弾かれたように上げられた顔は驚きを隠していない。その左手はまだ握られたままだ。
少し妙だ、と思った。竜に会えばわかるのだろうか。
そして、これから直面する現実を、彼はどう思うだろうか。いたたまれない気持ちになりながらも、私はいつもの癖で、微笑んだ。
「謝礼はお受け致しますが、償いは必要ございません。その代わりになるかどうかはわかりませんが……ご案内を致しますわ。もう夜も遅いですが、こういうことはなるべく早い方がよいものですから」
護衛の騎士をもう一人増やし、ギロゴの籠を兵士の一人に持たせ、玄関でブーツを履いて、外に出た。
穏やかな夜の微風が髪と頬を撫でていく。シャクリアの花が足元を柔らかく照らし、無数の星々は頭上で命の大河となって煌めいていた。しかし、夜の美しいエイサル湿原の姿も、今のエリアーシュには見えていなかった。彼は急いた様子で私の顔だけを視界に入れている。
「アヴァンティアはどこに、ハンセルの姫君」
「……こちらになりますわ」
……いつの日か、彼の心に余裕が生まれた時に、この美しい光景に気付いて貰えればいい。私はそう思いながら、人をぞろぞろと引き連れて砦の裏に回った。
巨大な冷蔵倉庫は屋外にある。冷却する装置は外側に設置されていて、心ここにあらずといった様子のエリアーシュも、その存在にしっかり気付いたようだ。貴族の子息らしくなく、息を呑む音が聞こえた。
「まさか」
「……お会いしたいですか?」
振り返れば、星空とシャクリアの光に挟まれているのは、悲しみに襲われるのを認めたくなくて、でも、それと向き合わねばならぬことを悟った、まだ年若い男の子の顔。十六歳といえば地球だと高校一年生だ……と言っても、育ちや文化によって十六歳がどういう発達を遂げているかは異なってくるはずだから、年若いからと言って甘やかしていいわけでもない。
それでも、男の子なのだ。幾ら貴族でも、幾ら辺境伯爵の息子でも、幾ら十六歳が成人として扱われる年齢でも。人前で繕うこともせずに嫌悪を顔に出してしまう、正直な男の子。私がちょっと身体を押し付けただけで真っ赤になるような、でも、礼儀を以て取り繕うことも覚え始めた、純粋な男の子。
大人の入り口に立っている男の子は、奥歯を強く噛み締めて、頷いた。
「参ります」
私は自らの手で、冷蔵倉庫の扉を開け放った。
死臭と冷気が、辺りを包み込む。そんなにしょっちゅう使うわけでもない砦だ。巨大な冷蔵倉庫は有事を想定して作られたのだが、食材は隅の方に少しだけ、纏めて置いてある程度。故に、広々とした空間が残っていた。使用人と騎士たちは力を合わせて、可能な限り清めた竜の遺体をしっかりとそこへ運び入れてくれていた。
「……アヴァンティア」
間違いございませんか、と訊こうとしたけれど、やめた。
名を呼んだ彼の左手が開かれ、何かがポロリと零れ落ちて、倉庫の石床に当たり、キン、と涼しい音を立てた。それを見逃してやるような私ではない。腰帯の衣嚢に入れていた手巾を取り出し、布越しにさっと拾い上げ、そのまま衣嚢に突っ込む。
エリアーシュは、ふらふらと冷蔵倉庫の中に入っていった。私は、冷蔵倉庫内での作業を行う時に着る厚手の羽織を騎士の手からひったくり、彼の後を追う。
「アヴァンティア」
彼は、倒れ込むように、竜の巨体に寄り掛かった。翼に手を当て、胸元に手を当て、脚に手を当て、角に手を当て、腹に手を当て、尾に手を当て、閉じられた目に手を当て、その感触をしっかりと確かめ、まるで何かを刻み付けるかのように、触れていく。
どれだけ大切な存在であったかが、痛い程、わかった。理解ではない。わかってしまった。
「アヴァンティア」
彼は力なく開けられた竜の頬と顎に手を当てて、優しく、悲しくなるくらいに優しく、慈しみと愛おしさを以て、その鱗をゆっくり、ゆっくりと撫でた。ぽたり、ぽたりと、眦から涙の滴が落ちていく。しなやかな腕が鱗に覆われた首を抱き締めた。
私は、エリアーシュの背から、抱き締めるように、羽織を掛ける。震える声ごと、両の肩を抱いた。
「アヴァンティア」
騎士の一人が、私にも羽織を掛けてくれた。臣下として当然の気遣いが悲しくて、温かかった。
慟哭が夜露を呼ぶ。エリアーシュは私の腕の中で声を上げて泣いた。
「アヴァンティア」
霧に包まれた柔らかな朝が訪れるまで、私たちはそこにいた。
ギロゴはずっと黙っていた。
【ネタメモ】
冷蔵倉庫は、アレコレして作った装置に水の魔石を組み込んで、大きめの箱や小屋なんかに取り付ければ完成です。アレコレはまた次の機会に書く予定……があればいいな……