6 欲情しやがったな
ドン、ドン、と、何かが木の床と打ち合う激しい音が、聞こえてくる。
思わずこっちの世界のノックの作法も忘れて、私は扉を叩いた。
「ごめんくださいまし! 何か異常がおありですか!」
「開けてはなりません、姫様!」
ドアノブとは違う仕掛けを解除して扉を開けようとしたが、騎士に止められる。部屋の中からの叫びと、大きな音は止まらない。誰の名前を呼んでいるのだろう――
「アヴァンティア! ああ、ここから出せ! アヴァンティア!」
「どうなさったのです――」
扉が、ドン、と振動した。
その悲痛さに、心臓を掴まれた、そんなように感じた。思わず飛び退れば、再び、叫び声。
「ここから出せ!」
騎士二人が私を守るように前に出る。しかし、それでは対面した時に印象がよくないのでは、と思って、私は二人の腕を掻き分けてその前に立った。開けた時に見るのが険しい顔の騎士であるのは彼の心が危うい、そんな気がしたのだ。
「なりません、姫様!」
「沼地の醜い蛙の女か! ここから出せ!」
「随分な言い草だぜ、おれの方が、立場が上だってのによお」
いや、蛙と人間の社会を一緒くたにして思考してはいけない、ギロゴよ。面白い冗談だけど今は面白くない。私は深呼吸をして、騎士たちの名を口にした。
「退いてくださいな、ゼルクト、ファルニウス」
「しかし――」
「姫様の御身をお護りするのが我々の務めです――」
「ハンセルの名の下に命じます」
騎士は渋々といった表情で後ろに三歩下がる。私はギロゴの籠を足元に置く。足を開き、踏ん張って、足指で床を掴み、その場に根差すように立つ。
「開けろ、蛙女!」
怒りは覚えない。私は、それから、吸気を腹の底へ一杯にいざない、口腔を戒めから解き放った。
「望む者の意志の下に、既に扉は開かれておりまする」
内開きの扉は凄まじい音を立てて勢いよく開いた。
乱れた金色の髪が目の前で降り乱れる。昼の湿原に揺れる瑞々しい草のような色の双眸は鋭く光り、呼吸は苦しそうに上がっていた――表情を繕うことを忘れてしまった眉が歪んで、頬には涙が幾筋も伝っている。私よりも少し背が高いくらいだろうか、まだ伸びるだろうか。若木のようにしなやかで滑らかな肌はイヴェルタ檜よりも白く美しい。白磁というよりもこの世界の木材に例えた方が適切だろうか。
その薄い胸を押さえている左手が、何かを抱いて、強く握られている。
「アヴァンティアは何処だ、蛙女」
「わたくしの名はイリスフロラ・ハンセル=ライマーニにございますれば――」
「そんなことはどうでもいい! 知っているだろう、アヴァンティアを出せ、解き放て!」
自由な右手が私の首元に触れたかと思えば、首の後ろで留めているドレスの紐を握られ、揺さ振られた。
「姫様!」
「おのれ、狼藉を!」
騎士たちが叫んで止めようとしたが、私は両手を拡げ、掌を後ろへ向けて、左右に突き出した。
「手出しは無用です!」
その時、ぶつん、と嫌な音が聞こえた。
「あっ」
ドレスの紐が留め具のところでちぎれて、胸元をすっとした空気が通り抜けた。まずい。ライマーニ地方のドレスは背中ががら空きなので、脱ぐ時は当然、胸部を覆う布の部分が前にぺろりんと垂れる。これはポロリ回避不可か。
「アヴァンティアを――」
「お待ちくださいませ、アイデルの若様」
私は、自由な己の両手で、エリアーシュの右手と自分の胸を押さえた。幸い、彼は私の顔しか見ていないが。今ほど痛切に思ったことはない、女性騎士を登用したい。というか明日になったら父と兄に案を通す。絶対にだ。というかまずい、私もポロリしたくないから力一杯押さえているせいで、刺繍の多い布の端が何処のとは言わないけれど脂肪にモリモリ食い込んでくる。逆に良い機会だ。興奮しているこの若君を一度落ち着かせるには自分の身体を使った方が事はさっさと進むのではないかと思った。いや、別の意味で興奮するかもしれないけれども。
「貴様――」
「わたくしたちの関係が事後となっても良いのですか」
エリアーシュがその言葉に怯む。獣の顔に理性の光が差し、秀麗な顔が一瞬だけ途方に暮れた。それも、ドレスの紐を掴んでいる自身の右手に私の手が重なっているのと、私の左手を目にして、そしてそれが何をどう押さえようとしているのかを見るまでのこと。
温泉、女風呂の方で、胸元から太腿の付け根あたりまで小さなタオルで隠すやつ、やっている人は一杯いると思う。あれと同じ状況。加えて、それを剥がされようとしている。
麗しきアイデル辺境伯の一人息子の頬は、一気に真っ赤に染まった。
「ラッキーじゃねえけどスケベ、ってか」
ケロケロ。ギロゴ殿下は私の置かれている状況だけを平成の終わりの日本における語彙力でシリアルにしないで欲しい。いや私もこれはどうかと思っているけれども。思わず吹きそうになったので、いつもの貴族笑顔鉄面皮を装備した。エリアーシュからしたら胡散臭いことこの上ないだろうけれど、今の彼の心はそれどころじゃないだろう。
「あ……え……すまぬ……申し訳なく……どう、どうすれば……」
「ご心配は無用です、アヴァンティア様のところへお連れ致しますわ」
このような状況に動じぬ女っぷりを見せつけつつにっこり微笑めば、エリアーシュは更に動揺した。
「いや、いや……それで連れていくとは……いや……」
私はそのまま、後ろを首だけで振り返る。
「ゼルクト、ファルニウス、閉めなさい……背はともかく、わたくしの前は、あなたたちに見せるものではございません。ですが、何か起これば私は声を上げます」
さっき紐がちぎれた音は、騎士たちにも聞こえていたらしい。非常に気まずそうな顔をしながら、彼らは私の言うことを聞いた。扉が閉まる。いつでも開けられるように、仕掛けは動かさぬままで。
エリアーシュの若さ……お年頃、というやつを、利用できるだろうか。
部屋の中に二人きりになった。私は再び、彼の姿を見据え、小声で言う。
「あなた様に私の首の後ろで紐を結んで頂ければ幸いですわ」
ライマーニでこのセリフをむやみやたらと言ってはならぬ。これは、男女問わず、共に迎える朝を仄めかした言葉である……相手を閨に誘う為の。お隣であるバルタールの者が知らぬはずはない。可哀想に、その証拠に、エリアーシュは酷く狼狽えた。いやあ、すごくこう、そそる感じのいい顔するなあこのお坊ちゃま、とか、決して思っていない。だけどもっと可愛い顔が見たかった。己を律するという選択肢は消滅したのだ。ついでに政治的なあれこれが起こった時の為に、そういうことにする、という選択肢をとるのも可能となっている……その時は、扉の向こうに控えている騎士二人が証人となるだろう。前世より可愛い感じの容姿でよかったと思いながら、私は更に笑みを深めて、畳みかけた。
「他意はございませんわ、エリアーシュ様」
ライマーニのみならず、この国では、友人であろうと、未婚の異性同士は、深い仲になるまで相手の名を呼ぶことはない。
エリアーシュの喉仏が上下し、ごくり、という音が聞こえた。
「欲情しやがったな」
扉の向こうからケロケロ言うのが聞こえた。やめなさい、ギロゴ。私にそんなつもりはない、まだ。蛙の王子様を無視して、ずいっと一歩、エリアーシュに近付く。
胸と胸が布越しに触れ合う。彼が息を呑んだ。ちぎれてしまったドレスの紐から恐る恐る離された右手が、私の左手を振り切って、まるで汗を産毛に馴染ませて薄く伸ばすように肌を撫でながら、つい、と、うなじの方に回ってくる。いかん。待て。私は内心慌てて、笑顔のまま声を低くした。
「アヴァンティア、とは、竜の名で間違いございませんか」
その翠の瞳が剣呑な光を帯びるのはあっという間だった。
乱れる美青年は世界遺産です。