10 英知の庭でのレアエンカウント
その翌日、私の前でわざと悪し様に何かを言う者はいなかった。ひそひそ話はあった。耳をそばだてていたエリアーシュやアリア、シェザイルによると、概ね、ヴィーネ教授の覚えめでたきどうのこうの、ライマーニの食糧事情改善どうのこうの、魔石動力技術の復活のきっかけどうのこうの、といった内容らしい。私としてはそんな噂話をして時間を潰すよりも推しを見つけて欲しい気持ちで一杯である。
三人の令嬢やマリエット嬢からのアタックもなかった。その代わりなのかはわからないけれど、エリアーシュ、アリア、シェザイルは、休憩時間や昼食時間に、他の学生からよく話し掛けられていた。近くで聞いていれば、割と好意的な内容である――魔石動力技術や水田開発、魚の養殖についての詳細や、他に何かあったりするのか、将来は凄い人に仕えることになるのでは、などといった話題だ。アリアやシェザイルはともかく、エリアーシュはそのあたりについて知らないことが多いだろうに。案の定彼は困っていたので、私が助け船を出すこともあった。
拍子抜けした一日が過ぎれば、週末である。
此方の世界は一週間が五日しかないから、四日連続で行けば休みが入るのだ。商売人、国家雇われである騎士、警ら団、大型の病院施設や精霊殿、大図書館、博物館や美術館などの公共施設の職員は、休みの日が人によって違っていて、ずらされていたりするけれど。サービス業は世界が違ってもこうなのだろうか。おかげで、休日も図書館に行けるのは有り難い限りである。
床を共にしたエリアーシュの腕の束縛から何とか脱出して服を着た私は、リテラと騎士三人を連れ、サルディーアの王都を闊歩していた。割れも欠けもない美しい石畳。時折存在する土のエリアに植えられた、鮮やかな赤色のロウゼルや、椰子に似たシルエットの、カウィカという名の木。白を基調とした眩しい街並み。建材は石だが、それを白い塗料で塗っているらしい。地球でいうなら、ギリシャと中東と西洋の建築を上手いこと混ぜて南国に放り込んだ感じだろうか。ライマーニと違って、建物の中では靴を脱いだりしない。ちょっと暑いけれど、致し方ないだろう。
今日は大図書館へ行くのだ。可愛く寝惚けてむにゃむにゃ言っていたエリアーシュには悪いが、裏付けを取っておきたいことがあった。彼には何か王都の美味しいものでも買って帰ろうと思う。詫び石ならぬ詫び菓子。ギロゴもお留守番だが、彼は今、王都のボウフラ繁殖地へ赴いている。この間見付けたらしい。今頃踊り食いを楽しんでいるだろう。
「ところで、ジグ」
「どう致しました、姫様?」
呼べばすぐに返事をくれる優秀な騎士、ジグ。リリイへの恋心を利用されてくれた純朴な若者である――砦が危機に襲われた時に、王都へ行ってくれたのが彼だ。
「あなた、最近リリイに何か美味しいお菓子を差し上げたりはしましたか?」
見上げていた彼の顔があっという間に赤く染まった。
「……からかわないでください」
「あら、そのような意図はありませんわよ」
「しかし、どうして私のそんな事情に――」
「アーシュを置いてきてしまいましたから」
ジグは色々察した表情になった。
「……おいたわしや、若様……王立大図書館の近くなら、切った果物を凍らせてゼリー寄せにしたものを売っている店がございます、姫様」
「ありがとう、ジグ。よくご存じなのね」
礼を言って微笑めば、彼は照れたように目を逸らした。王立大図書館の近くなら、などと言っているから、これは別の場所の美味しい店なんかもまだまだ知っているに違いない。また必要があった時に揺さぶることに決めた。
風にそよぐカウィカの木が青空によく映えて美しい。王立大図書館の前は静か且つ開放的で、清々しい場所だった。貴族学院の学生のしるしである胸飾りは、胴着の紐を纏めている首元の金具から吊るしてある。それを一瞥した壮年の守衛の騎士が、微かに微笑んで私に美しい貴族の礼を、ひとつ。
「王立大図書館へようこそ」
「おつとめ、ご苦労様ですわ」
「お気遣い、痛み入ります」
ご苦労様です、と私と同じように丁寧な挨拶をしているジグも、やがてあのような貫禄を纏うのだろう。気持ちのいい挨拶のできる騎士はいい騎士だ。
騎士が開けてくれたのは、六柱の精霊王の彫刻が施された、巨大な木製の扉。中に入ると、涼しい空気が肌を撫でて、思わずほっと息をついた。
「ごゆっくり」
館内は薄暗かった。
床は美しく磨かれた白い石――おそらく大理石だ、この世界にもあったらしい。赤い布張りの、座り心地のよさそうな背凭れ付きの長椅子が、一定間隔に並んでいる。壁紙は落ち着いた濃い木材の色……どうやら石材の壁に板を打ち付けてあるようだ。天井は高く、窓は大も小も一切ない。灯りは蝋燭のみだ。書物を保管するにはうってつけの場所である。
すぐ正面には受付台、その左には案内板。案内板を睨んでも目的の本がどこにあるかわからなくて唸っていると、受付台の向こうから、司書と思しき女性が案内をしてくれた。
「大陸の民族に関する論文及び書物に関しては、地下一階の最北端の一角となります」
「ご親切に、ありがとうございます」
歩き出した私に、リテラと騎士たちがぞろぞろとついてくる。一人でゆっくり調べものと考え事をしたかったけれど、仕方ないだろう。
西へ向かい、突き当たりの螺旋階段をそっと下って、地下へ行く。壁の色は生成りだが、一階よりも暗いように思えた。大図書館の南に正面入口が存在していたので、最北端まではなかなか遠い道のりだ。でも、大図書館の中は歩くだけでもとても面白かった。その一角に存在している書物の種類に合わせているのだろうか、地図、絵画、様々な生物の解剖図、飾り文字の一覧、遺跡の模型、遺物の模造品、織機の図面、人形、生地の見本、装飾品の素描など、ありとあらゆるものが壁に飾ってあるのだ。
「見て頂戴、リテラ。あれ、お母様が好きそうですわね」
ちょっと気になったのは、額に入っている、淑女の手を取る麗しき騎士の絵。墨一色刷りだ。
「『愛の果てに薔薇を捧ぐ』の挿絵ですね。奥様ならご存知かと」
「あら、お母様、既にお読みになってらっしゃるの?」
「……奥様の書架へ遣いに行った折に、背表紙を拝見したような気が致します」
間が気になる。背表紙を見たと言ったけれど、挿絵であるとわかっているあたり、さてはリテラ、読んだのかもしれない。
「道ならぬ恋なのかしら」
「……姫様も、そういう物語に興味がおありで?」
「ええ、時折読むと新鮮に感じますわ」
読む度に推しカプが大量発生するけれどな!
やがて辿り着いた最北端は、とても広い部屋だった。
「……最北端とは仰っておりましたけれど、これは探すのが大変ですわね」
私はその場に立ち尽くした。
何せ、書架が巨大なのだ。何と、階段までついている。というよりも、建築と書架が一体化していると表現した方がいいのだろうか。本が存在していない踊り場が設けられていて、そこに明るい蝋燭と二人掛け程度の柔らかい椅子が設置されており、取ってきた本を読めるようになっているのだ。推しと一緒に座って語らいながら本を読みたい空間である、柔らかいエリアーシュの髪が自分の肩に触れるだろうからさぞかしくすぐったい――
「姫様は、何についての書物をお探しで?」
――現実逃避しようとしていた私に訊いてくるのはジグだ。誰の姿も見えないこの場所なら多少は大きい声で喋った方がいいだろう。壁や本に音が吸い込まれて響きにくい。私はしっかり声を出すことにした。
「アルタン族ですわ。先日、歴史学の講義で教授が興味深いことを仰っていたもので……砂長竜との関係性を書いている書物などがあればよいのですが」
「おれたちのことか?」
上から、若い男の声。聞いたことがない人のもの。
ジグが、主人を守護する騎士らしく、前に出る。私は声が聞こえた方に向かって、問いかけた。
「どなた?」
「おれか? カフラマン・ナーダ」
カフラマン・ナーダ。響きが独特だ。
と、リテラも私の前に出てきた。
「姫様、サルディーアの名前ではございません――どこにいらっしゃるのです、姿をお見せになって頂けますか?」
「構わない、ここだ」
薄明りの中、階段の上から、物音がした。
ヴィーネ教授はその外見について詳しく言っていなかった。大図書館の地下の暗さにとろりと溶け込む褐色の肌、顎のあたりで切り揃えられた薄い色素の髪はおそらく銀。切れ長の目は此方を値踏みするかのように細められている。鍛え上げられた体躯を包む、生成りの長いローブ。ちょっとだけ、石油王を連想させる。
大柄な若い男だ。彼は両手を胸の前で組み合わせ、目礼をした。
「我、砂の大地レシテの民アルタン、ナーダ氏族のカフラマン。そちらは、高貴な淑女の御方とお見受けする。名をお聞かせ頂けるか」
【ネタメモ】
・『愛の果てに薔薇を捧ぐ』
公爵令嬢と騎士の恋物語。これの本編を書く気は特にないです。