8 魂が共に在ること
風が吹き荒れる。
纏めないまま流した彼の、美しい金色の髪が、四方八方に靡くのが見えた。私の視界は、どんどん晴れていく。覚え始めていた喉の痛みが、すうっと消えていった。
高く巻き上がって渦となった泉の水が、轟音とともに、森を黒々と覆う。私たちが乗ってきた騎竜も、敵の騎竜も、まるで何かを畏れ敬うかのように、いつの間にか地へ臥せていた。
「――フェンティウス殿と仰るのですか」
エリアーシュが、身体ごと水の渦の方を向いて、誰かの名を呼んだ。いや、何かに返事をしているのだろうか? それから、驚きと畏敬の念がない交ぜになった表情で、彼は私を見て、駆け寄ってきた。
「イリス、身体の調子はいかがですか」
優しい手が肩や首筋や頬に触れてきた。少し眉の下がった心配そうな表情はちゃんとはっきり見えるし、逆巻く髪の束が艶々と陽の光を反射して、美しく煌めいているのもわかる。
私は試しに何回か声を出してみてから、言葉を使ってみた。
「……問題ありませんわ」
大丈夫そうだ。ほっとした。
「よかった」
「ご心配をお掛けしましたわね、ごめんなさい、アーシュ」
「よいのです、あなたが無事なら……約束だって、守って頂かないといけませんしね」
エリアーシュは、それはそれは美しく、にっこりと笑った。思わず後ずさりそうになったけれど、彼の腕はがっちりと私の肩を掴んでいる。
「帰ったら子作りですよ、姫様」
「……お手柔らかに頼みます」
いや、私が推しから逃げるわけなどないのだけれど、こう、気持ちの問題というものは必ずそこにある。況してや前世でも体験したことのなかった行為だ。緊張とか恐怖とかそういうものを通り越して最早未知である。腐女子でもあるわけだし、創作物を楽しむ為の嗜みとして内容は知っているけれど、果たして自分の身体や心に何が起こるのかは全くわからない。
そこに響く、強烈な咆哮。
「……お姿をお見せ頂けるのですか?」
エリアーシュは、私の肩に両手を乗せたまま、水の渦に向かって呟く。水の御柱からは、まるで雷鳴のような唸り声が聞こえた。
その時だ。
渦巻いていた泉の水が、棘のような形に変形しながら、パキパキという音を立てて凍っていく。氷柱は陽光を受けて、溶けることなく、渦の外を向いた。切っ先は、私たちの後ろ――振り返ればわかる、騎竜から降りて、いつの間にか距離を詰めてきていた敵だ。彼らは、自分たちが狙われていることに気付いたようで、じりじりと後ずさった。
棘になっていない氷が、かしゃん、きん、かしゃん、と涼やかな音を立てて、落ちていく。空気も大地も揺らがす唸り声と共に、その姿はだんだん露になっていった――アヴァンティアという名だった竜を彷彿とさせる、肉食系爬虫類の頭部。ひときわ巨大な美しい双角が、額から不思議な螺旋を描いて伸びている。双眸は太陽を写し取ったかのような金。筋肉質の四肢は滑らかな蒼の鱗に覆われていて、陽光を受けると虹色光沢が生まれた。巨大な翼は静止していて、皮膜には不思議な文様が浮かんでいる……水の流れを複雑かつ流麗に図案化したような。
飛竜だ。エリアーシュの魂獣となっていた個体よりも、二回りほど巨大な。
羽ばたいていないのに、どうして空中に静止していられるのだろう。圧倒的な存在を前に、私はぼんやりとそんなことを思った。
「――私の、力に?」
エリアーシュが何やら言って、酷く興奮した表情で私を見た。
「イリス、私は……私は、今まで、この生涯において、ただひとつの存在のみを魂獣とするものだと考えていました――それが、それが……かのフェンティウス殿は、今までに二度、別の者と魂獣の契りを結んでいたようなのです」
「……それって」
「私が、フェンティウス殿と言葉を交わすことができるのは何故だかわかりませんが――」
臓腑を揺さぶる唸り声が私たちを包んだ。エリアーシュの身体が輝きだす。うわっ、と驚きを声に乗せて、彼は私にしがみついた。
「私の身体――私と、共に? 魂を? あなたが――」
「アーシュ――」
この美青年の身体に何が起こっているのだろうか? 譫言のように、魂が、魂がと繰り返す彼を、私は支え、抱き締めた。喘ぐ呼気の合間に、地面に落ちて砕け散った氷柱の如く、繋がらない言葉が次々と落ちていく。
「何が起こっているのです、アーシュ!」
「魂が――私と、共に、あなたが、だから言葉が」
美しき翠の双眸が輝きを帯びる。
「――私を望んでくださるのであれば」
エリアーシュは私を抱き締め、己が視線をそそぐ方に、私の顔を向けさせた。
対面するのは、巨大な氷の柱の上に後脚だけで立つ壮麗なる飛竜の睥睨。
「このエリアーシュ・アイデル=バルタール、喜んで我が身を全て差し出しましょう――何が起こるか、見ていて下さいませんか、イリス」
私の代わりに。彼はそう言って、目を伏せた。
彼の全身が――胸の内から、四肢を経て、指の先まで――伏せられた瞼から生える長い睫毛も、靡く髪の毛の一本一本も、呼気も、全て――輝きだす。眩しい。私は目を閉じたくてたまらなかったが、耐えた。彼は、私に向かって、見ていて欲しい、と言ったのだ。それに、とんでもない状況に放り込まれた推しの姿を目に焼き付けずして、私が彼を推しと宣うことはできない。目を焼き尽くされてもよかった。
柔らかくて優しい、けれど眩い光が、彼を蒼く洗っていく。それを見ていた。
どうしてか、泣きたくなった。
心の奥から吹き上がった間欠泉が、眦から熱く溢れて、そっと冷えながら頬を濡らしていく。最後という名を冠するファンタジー系のロールプレイングゲームなんかは、こういうシーンがあったら、きっと美しい音楽を流して盛り上げるのだろう。壮大で深みのあるドラマチックな構成の音楽か、はたまた、ピアノだけで感動を狙ってくる穏やかで魅せる音楽か――だけれど、現実は、激しい風の音だけだ。
でも、だからこそ。
だからこそ私はきっとこうして泣いている。ただ打ち震える心を胸の奥に抱いて。
新しく耳に届くのは羽ばたきの音。咆哮は世界を揺るがす新たな始まりの合図。
若き人の雄の美しい声が、そこに、高らかに重なった。
「穹に舞え! 世界を統べよ! 我が新しき魂の、壮麗なる同胞よ!」
薔薇の花で飾り立てた籠に大沼蛙のギロゴを鎮座させ、兄の手に引かれて、両親の後から広間に入る。
自分の虹彩の色と同じ、冴え冴えとした湖水の青に染められた森林蛾の絹糸で仕立てられた衣装は、背中を露出したライマーニ風。さっぱりと流れる皺ひとつない生地は、西の果てにいるという人魚の尾を想起させるような形状。前世の言葉を借りるならマーメイドラインだ。腕や首元を飾る装飾は全て金。髪は後頭部で複雑に編み上げ、芙蓉の花を模した簪を一本だけ。
今宵の私とギロゴの装いは完璧だった。
筈だった。
忍び笑いが聞こえた。振り返れば、私の持つ籠に向かって指を差す令嬢。
細い悲鳴と、何かが倒れる音。振り返れば、気を失った令嬢が、美丈夫に支えられている。
蛙、蛙、大沼蛙、という囁きで満ちる広間。馬鹿にしたような表情を浮かべる、キラキラした女の子たち。せっかく綺麗に着飾っていて魅力的なのに、自ら品位を下げるような言動……それを見せつけられる此方の精神的ダメージたるや。
何より、ギロゴは、とても素晴らしい相棒なのに。
どんな時も私の傍で力になってくれた魂獣。そうだ、百歩譲って、魂獣のおらぬその辺の令嬢にはこの気持ちなどわかるまい。私はそう思って、魂獣とともにこの場で披露目の日を迎える同い年の若者たちが集められている場所を見た。彼らなら、魂獣を馬鹿にされることがどういうことか、わかるだろう――
だけれど、救いを求めてその方向を見た私が、間違っていた。
視線が合った傍から、残念なものを見るような、同情するような、そんな眼差しが向けられた。高地に生息する美しい水鳥を肩に乗せた綺麗な女の子も、貫禄のある白い大狼を連れた男の子も、そんな目を向けてきた。
その一番端に、何も連れていない美しい男の子がいた。兄が「バルタール領のエリアーシュ殿だ、魂獣は竜、大きすぎるから外で待機している」と教えてくれた彼は、私に向かって、真っ直ぐに、嫌悪の視線を向けてきた。
大嫌いだと、その目が言っていた。
こんな奴らに、魂の友を持つ価値などあるのだろうか。
失ってしまえばいいのだ。
私は、強く、強く、そう思ったのだ。
どのくらい、意識を飛ばしていたのだろう。
風がおさまって、ようやっと辺りを見回す余裕ができた時、私に見えたのは、跪く人々だった。
【登場前世ネタ】
・ファイナルファンタジーシリーズ
実はⅫのDS版をやっただけなんです。リメイク版も発表されましたし、Ⅶとかやってみたいんですよね……オススメはいつでも募集中。
この回はFFのサントラを聴きながら書いてました。オーケストラ編成大好きなんじゃ~~~~~~~