2 一難去ってまた一難
今の私の名前は、イリスフロラ・ハンセル=ライマーニ。ライマーニ伯爵令嬢。ふわふわっと癖のあるダークブロンドに、二重で空色の目はなかなか気に入っているけれど、前世に似て丸顔で脂肪もつきやすいのがちょっと悩ましい。ダイエットが必要な状態ではないから大丈夫。可愛らしい、癒される、とは言われるけれど。
「どうしました、イリス。浮かない顔ですね」
開けっ放しの窓から声が聞こえて顔を上げれば、麗しのイケメンが此方に流し目を寄越しながら微笑んでいる。額の中央で分けたダークブロンドの前髪はサラサラと揺れ、借り上げた襟足から首を、がっちりとした筋肉が覆っていた。
私の兄だ。竜車の中にいた筈なのに、騎竜に跨がっている。
「気分でも悪いのですか?」
「あら、お兄様……いいえ、わたくしは何ともございませんわ。それにしても、前の竜車の中にいらっしゃるのではなかったのですか?」
「外の空気を吸いたくなって、騎士から騎竜を借りました……あなたもですが、アルデレールの様子が気になりましてね」
バルトグレイル・ハンセル=ライマーニ。髪も目も私と同じ色、海外出身の某有名俳優みたいな雰囲気の顔立ち。ライマーニ次期伯爵だ。身内贔屓になるとは思うけれど、目の保養にもなる美丈夫。ついでにお茶目でとても優しい。前世では一人っ子だったので、例え今生活しているのが貴族の家であっても、兄がいるのは新鮮で楽しかった。
アルデレールというのは、帝都から程近い公爵領トゥーリウスからきた、兄の嫁だ。癖も痛みもない流れるような褐色の髪に、すっと通った高い鼻、透き通ったアイスブルーの切れ長の目が涼しげな印象だ。思わず膝をついて仰ぎ見たくなるほどの美人……なのだけれど、視線が鋭くて悩んでいる、という可愛らしい一面もある。
結ばれてまだ三ヶ月の新婚さん。二人は政略結婚だったけれど、兄はそんな彼女を溺愛している。前世でそういう小説を読み漁っていたこともあったからか、政略結婚からの仲睦まじい夫婦とか、最の高である。逞しく美しい兄と、さっぱりしていて美しい兄嫁。私にとって兄と兄嫁は推しカプ。わかるな? わかるよな? わかれ。
それはそうと騎竜に乗っている兄が大変羨ましい。
「竜の背は良きものですわね」
「イリスフロラもいかがです? もう一頭くらいなら騎士に無理強いしても大丈夫ですよ」
「やめておくわ、ドレスのわたくしでは、いざという時に疾走させることが出来そうにありませんもの」
「あなたは騎竜に乗るのが上手ですが、それもそうですね……疾走出来るのはエイサル湿原を通っている時くらいですから、今が良き機会かと思いましたが」
兄はいたずらっぽい笑みを浮かべて片方の眉を上げてみせた。何をやっても様になる。かれこれ十何年見てきたけれど素晴らしい。飽きない。嫁を前にすると頬を赤らめることもある。是非とも夫婦ともに長生きして色々な姿を私に見せてくれ。
「平和だねえ」
と、ギロゴ。私は兄に向かって微笑んだ。
「またの機会にとっておきますわ」
「そうですか……近いうちに、遠乗りでも致しましょう。それでは、私は後ろへ参りますので、後程」
「ええ、お兄様」
ハイヤ、と勇ましい掛け声をひとつ、兄は騎竜の首を反転させて、後方の竜車へ向かっていった。ついでに身を乗り出して、思いの外繊細な手つきでさっと何かを拾い上げる。大ぶりの青い花弁が美しいヴィアラの花だ……前世で見た某南アジア産の映画をうっかり思い出した。勧められて観たけれど、画面に映る度に称えたくなる王というのは素晴らしい。
などと思った時だ。
騎竜たちが警戒音を出し始めた。泥沼よりも酷かった披露目の招宴をやっとのことで終えて穏やかな気持ちになっていたところなのに、また何か厄介事だろうか。飾り立てた籠に入れたギロゴを連れて大広間に入った私を迎えた令嬢たちの失笑や嘲笑、バルタール領から来たという辺境伯爵の長男エリアーシュ――彼にも魂獣がいるらしいから仲良く出来ると思ったのだがあてが外れたらしい――の嫌悪まみれの視線、それに対するのは氷のような兄と兄嫁のひと睨み、両親がわざと立てた高らかな靴音、そんな若者たちの情けなさを目の当たりにしてこのサルディーア王国の未来を憂いた王太子と国王による叱責。いたたまれない想いはもうお腹一杯である。やめて欲しい。
そう思っている間に、竜車の進みはどんどん遅くなる。やめて欲しい。切実に。
「イリスフロラ」
気付けば、窓の傍まで兄が戻ってきていた。その双眸は剣呑な光を宿している。
「お兄様、何があったか、もしかして御覧になられましたか?」
「いいえ、まだです……戦闘をしている気配はありませんが」
すると、ギロゴがグワグワ鳴いた。
「血の臭いがするぞ」
その只ならぬ発言に、思わず私は本に栞を挟んで閉じ、口に出していた。
「……戦っているのではなくて?」
「武器の臭いはしねえな」
窓から入り込んで籠に飾った薔薇に留まった小さな羽虫をあっという間に花弁ごとぱくりと食べてから、蛙の王子様は、ぷう、と頬を膨らませる。兄がそれに真剣な目を向けた。
「あなたの王子様は何と仰っているのです?」
「血の臭いがすると」
「……私が見て参りましょう」
兄は蛙が少し苦手ではあるが、礼儀は決して忘れぬ男だ……いや、確かにギロゴは私の王子様で間違いないけれど、嫌悪感も見せずにそう言ってのけた彼に対して、うっかり私は吹き出しそうになる。しかし、仮にも伯爵令嬢、貴族の建前を披露する為に鍛え上げられた表情筋を律し、私は私との戦いに勝った。柔らかな微笑みは標準装備だ。
「お気を付けて、お兄様」
兄が先頭へ向かって駆けていったすぐ後に、竜車は完全に止まってしまった。
「……何が起こっているのかしら」
「ご心配には及びませぬ、姫様。戦闘の類は起きておりませぬ故」
竜車に従っていた騎士の一人が、私の独り言を拾っていたらしい。安心させようとしてくれているのだろう、壮年の彼はそのいかつい顔に優しい微笑みを浮かべた。
「ええ、そのようですね……でも、気になるのです」
「今、騎士団が調査しておりますから、もう暫くお待ちくださいませ」
小机の上に本を置いて、窓から身を乗り出す。が、騎竜に乗った騎士たちが皆集っているので、何が起きているのかはよく見えない。ギロゴがグフグフ言っている。
「降りて見てみればいいぜ」
「その通りですわね。お願い、少し引いていただけないかしら」
私は立ち上がって、竜車の扉を開けた。姫様、と窘めるように騎士は私の名を口にしたが、構わずに一歩踏み出す。騎士が慌てて騎竜の背から滑り降りて、私の手をさっと取った……外へ出るのは許してくれるらしい。
「危険はないだろうが、気を付けろよ、イリス。あと、一人生きているからな」
「ありがとう、王子様」
ギロゴは紳士だ……いや、王子か。大沼蛙だけど。しかし、一人生きているとはどういうことだろう。
丈の短い草が編み上げブーツで覆われた脛や足の甲を撫でた。騎士は騎竜の手綱を片手に、私の行きたい方向を汲み取って、先導してくれる。
「姫様はおいでにならぬ方がよいかと思われますが」
「いいのですよ、ギロゴが大丈夫って言っているもの」
「……さようでございますか」
腑に落ちない表情だけれど、納得はしてくれているようだ。魂獣の能力は高く、一度人との結びつきを得られれば、同じ種族――ギロゴの場合、湿原と沼地に数多生息している大沼蛙の仲間だ――に様々な働きかけを行い、個々の意思を統一させて軍隊のように動かすことも出来るようになる。周囲の様子を探らせることだって可能だ。鳥類の魂獣を得た人の話を聞いたことがあるけれど、空から見えるものが何なのかを伝達してくれるらしい。偵察にピッタリだ。
私が先頭にいた竜車の方まで歩いていくと、それは見えてきた。何か大きなものが横たわっている。周囲は荒れていて、泥が掘り返され、天に向かって真っ直ぐ伸びていた筈の葦がしっちゃかめっちゃかになって倒れていた。
【登場前世ネタ】
・バーフバリ 伝説誕生/王の帰還
筆者マンは王の帰還を新宿へ三回観に行ったぞ!!応援上映最高でしたね!!