惟親
矢を引きしぼり再び的に当てると、トンッという小気味よい音とともに、不意に近くで馴染みの声がした。
「相変わらず、見事な腕前だな」
そこには、縹色の直衣と袴を身につけた精悍な少年がいた。
涼人と目が合うと、彼は面白そうに目のなかにある光を躍らせた。
「——惟親」
涼人は弓矢を持つ手を下げて嘆息した。大抵の公務は午前中で終わる。
この年上の宮人が、この時間にいるのはめずらしかった。
「そうか、今日は宿直の役目があるのか」
ふと思いあたって口にすると、宮の少将——惟親は頷いた。
「さすが、察しがいいな。弓の音が響いてきたんで、弓場殿に寄ったんだ。お前が弓を引く姿を久しぶりに見た。その様子だと、体の具合もいいようだな」
涼人は複雑な気持ちで口をつぐんだ。乳兄弟とも言える惟親とは、幼い頃から同志のように育った。
それだからだろうか。涼人は時折、この友人に秘密のあることが一層いたたまれなくなってしまう。
無邪気に安堵した様子の惟親を前に話題を変えたくなって、皇女のことを思わず口にした。
「ここ数日も、祈祷は続いているのか」
「桜桃姫のことか。容態はあまり思わしくないと聞くな。阿闍梨も手をつくしているらしい」
「普通の病ではないみたいなんだ。私もなんとかして差し上げたいのだが」
「なんだか気落ちして見えるのは、そのせいか。寺院の婆どのには聞かなかったのか。大した智恵を持っているそうじゃないか」
惟親の言葉に誘いだされるように、あの晩語った登紀の言葉が浮かんだ。涼人は弓を握りしめ、小さくつぶやいた。
「鏡石があれば、と言っていた。山師のもつ鏡石があればと」
それを聞いて、惟親は驚いたようだった。
「——山師だと。ばかな」
——と、涼人はハッとして口をつぐみ、早口で惟親に告げた。
「近衛の者が来る。話の続きはまた」
弓場での私語は禁止されているのだ。昔から涼人の目の良さを知っている惟親は、ひとつ頷いて素早くその場を離れた。
まもなく、玉砂利を踏む音が遠く聞こえた。
涼人は再び矢をつがえようと姿勢を正したが、さまざまな思いにかられ、前ほど集中できなくなっていた。
惟親は知っているのだ。登紀が涼人に話した言葉について。惟親が涼人に見せた感情は、決して好意的とは呼べないものだった。問い返すのがためらわれるほどに。
——なぜ、私は知らないのだろう。惟親と同じように、幼い頃からここで務めているのに。
胸にせまる疎外感や空しさは、ずっと前から馴染みあるものだった。——が、涼人は心のどこかで見過ごせないものを感じた。
深入りするなと登紀は涼人に言ったが、このまま真実も知らされず都落ちすることなど、できそうにもない。
——私はいずれ、ここを離れる身だ。そうなる前に、できるだけのことをしてさしあげよう。桜桃姫のために。
そう思うと、幾分心が静まるような気がした。
——父上とも会って話さなければ。
涼人が弓場で思いを固めてから数日経ったのち、その機会は早くも訪れた。紅葉の賀がいとなまれたさなかだった。