アントラクト(間奏曲)
1
深夜の森の中、暗黒のカーテンはその隅々まで降りていた。
天空には満月が浮かんでいたが、その光は森の底までは届かず、墨のような闇は森の底に沈んでいた。
その鬱蒼と生い茂る森の中のけもの道を歩く一人の男がいた。
ギリシャ彫刻のような堀の深い顔立ちの美青年は、一寸先も見えない闇の中をまるで真昼の道を歩くがごとく、先に進んでいった。
しばらくして闇の先に小さな光の点が見えてきた。
近づくに従い、その点は大きくなり、やがて目の前が開けると、小さな御堂が姿をみせた。
その御堂の周りだけが、月明かりに照らし出され、闇が退いている。
青年は迷わずその御堂に近づくと、扉を開けて中に入った。
中は何もなく、床に枯葉とホコリが落ちているだけであった。
その奥まったところに燭台が立っており、一本のろうそくが点っていた。その燭台の元にひとりの老人が座っている。
痩せ細り、灰色の髪を無造作に肩まで垂らしている老人は、入ってきた青年に気付いたのか、ニヤリと不気味に笑った。
「おいでなさいませ。史郎様。」
老人は地の底から響くような声で、目の前に立つ青年に語りかけた。
「こんなところに呼び出すとは悪趣味だな。無明。」
史郎と呼ばれた青年は、口元に苦笑いを浮かべながら無明と呼んだ老人の傍らに座った。
座った途端、ホコリが舞い上がる。
それを史郎は手ではらった。
「もっと、ましなところはなかったのか。」
「申し訳ありません。二人っきりになるためにはこのような所しかなく。」
無明は素直に頭を下げた。
「で、用件は?」
「魔霊院が死にました。」
その言葉に史郎は何の反応も示さなかった。
「で、相手は?」
「どうやら陰陽師のようです。」
それにも史郎は興味をしめさなかった。服につくホコリのほうが気になるようだ。
「鬼龍八部衆もたいしたことがないな。油断したか?」
「相手の力を見くびったのは確かでしょう。相当の使い手のようで。」
「いいわけか。」
史郎は無明を睨み付けた。
無明は無言でそれに答えた。
「計画に支障はないのだろうな。」
「それはもちろん。左京様も史郎様の意に添うべく全力で事にあたっております。」
「左京に言っておけ。計画の遅れは許さんと。魔霊院の分は他の八部衆でカバーせよと。」
そう言って史郎は立ち上がった。
「おおせのままに。」
頭を下げる無明を尻目に、史郎は御堂を出ようとした。
「お待ちを、史郎様」
「ん?」
立ち去ろうとする史郎を無明が引き止めた。
「なんだ、無明。まだ用があるのか?」
「今一つ、お知らせしたきことが。」
「なんだ。」
史郎は半身を無明に向けた。
「私の占いに妙な卦がでております。」
「妙な卦?」
その言葉に史郎は関心を示したのか、全身を無明に向けた。
「はい、我らの前に立ちはだかる光の群れが現れます。」
「光の群れ?」
史郎は無明の言う意味を考えた。
「その中でもより輝く三つの光が、我らの行く手を阻みます。」
無明は痩せ細った顔を史郎に向け、白く濁った眼を見開いて語った。
「私の計画の邪魔をするというのか?」
「おそらく」
無明は見開いた目を閉じ、そのまま黙り込んだ。
二人の間にしばらく沈黙が流れた。
「それだけか?」
史郎がポツリと漏らした。
それを聞いて無明の肩が動いた。
「それだけではないようだな。」
無明の動きを見て史郎は追及した。
「その三つの光ですが…」
無明は口を重くして、なかなか続きを話そうとしない。
「早く話せ。」
史郎はなかなか話そうとしない無明にじれて、続きを急かした。
「その光の中に史郎様の存じよりの者がおります。」
「存じより…」
その言葉に史郎の脳裏にある女性の姿が浮かんだ。
「その存じよりの者が他の光と共になると、史郎様にとって非常にやっかいなことになるかと。」
「計画が破綻すると?」
その言葉に無明は黙ってうなずいた。
史郎は無明から目を離し、御堂の扉に歩み寄るとその扉を開け放した。
天空に浮かぶ満月の光が御堂の中に差し込む。
それとは対照的に無明の座る場所は暗闇に沈んでいた。
「そうか、あいつが…」
史郎の口元に笑みが浮かび、やがて声を出して笑い始めた。
無明は無表情で史郎の笑いを聞いていた。
史郎が突然振り返った。
「無明、残りの八部衆に伝えろ。邪魔する者は誰であろうと全て消せ。」
「かしこまりました。して、存じよりの者については?」
「それは私が対処する。心配するな。」
「は、我ら鬼龍八部衆におまかせを。」
そう言うと無明の身体は闇の中に溶け込んでいき、その姿を消していった。後には燭台のろうそくだけが弱々しい灯りを残していた。
史郎は御堂から外に出ると、満月を見上げてニヤリと笑った。
「奈美、待っていろよ。」
そうつぶやくと黒いベールに覆われた森の中に消えていった。
2
北陸にも同じ月が出ていた。
蘆屋の屋敷に戻った麻里江は、その月を見上げながら何度目かのため息をついた。
なぞが多すぎる。
地脈と紋様のつながり。
鬼龍一族のかかわり。
魔霊院が最後に言った「サキョサマ」の示すもの。
それがえにしの会の篠神左京を指すのか。
また、ため息が出た。
「麻里江、いるか?」
蓮堂の声に麻里江はハッとした。
「はい、義父様。」
その返答に障子があいた。
立っている蓮堂の前に麻里江は正座した。
「ため息ばかりしてどうした。麻里江。」
「申し訳ありません。」
恥ずかしそうに頭を下げた。
「いや、よい。いろいろなことが起こりすぎた。」
「一体何がおこっているのか、皆目見当がつきません。」
麻里江は眉間にしわを寄せて、悩ましげに言った。
「麻里江、えにしの会のことを調べれば何かわかるやもしれぬ。」
「しかし、それは翔がすでに。」
「三人官女がそろって調べれば、なお真相に近づこう。えにしの会がかかわった施設、学校、モニュメントなどに紋様がないか、まずはそこから調べる必要があろう。やってくれるか?」
「わかりました。ただ…」
「なにか気になることでもあるか?」
「鬼龍一族のことが。」
その名前に蓮堂も眉間にしわを寄せた。
「鬼龍一族もかかわっているということでしょうか?」
「そう考えるのが妥当じゃろ。」
二人の間に沈黙が流れた。
「戦うことになりましょうか。」
麻里江の目に不安が浮かんでいる。
「なるじゃろな。勝てるか?」
「わかりません。」
麻里江はうつむいた。その肩に蓮堂が手を置いた。
「わしは麻里江を信じておる。」
そう言って麻里江に笑いかけた。
「今日はもう休め。」
「はい」
蓮堂が部屋を出るまで、麻里江は頭を下げ続けた。
3
剣持は自分の机の前で書類に目を通していた。
外務省を通してアメリカのFBIからの要請の書類であった。
「人探しか…」
特別捜査局は大幅に縮小され、かつての勢いはない。
人員も減った。
その中でFBIからの依頼を、剣持は不思議に思っていた。
「FBIもどういうつもりで、うちに捜査を依頼してきたんだ?」
その書類にはFBIから派遣される捜査官も記載されていた。
『キリコ・ダテ・エッシェンバッハ』
年齢は二十二歳。
「しかし、捜査官にしては若いな。まだ二十代とは…」
よほど、優秀な捜査官なのだろうと剣持は想像した。
書類を机の上に置くと、剣持は机を離れ、窓に近づくとそれを開けた。
夜の空気が流れ込み、見上げると満月が見えた。
気持ちのいい夜だ。
「ひさしぶりの仕事だ。せいぜい気張るか。」
剣持の中に気力が湧き上がってきた。
もう一度、机の上の書類に目を落とした時、剣持の脳裏にひとりの少女の姿がうかんだ。
「奈美、いまどうしている?」
4
「もう間もなく、成田国際空港に到着いたします。シートベルトをお締めください。」
機内アナウンスに乗客たちは、思い思いにシートベルト締め始めた。
母親と一緒に同乗していた小さな女の子も、母親に手助けされながらシートベルトを一生懸命に閉めようとしていた。
そのとき、女の子の腕から小さな人形が零れ落ちた。
「あっ」
人形は軽く弾みながら隣の席の足元に転がっていった。
その席にすわっていた女性がそれを拾い上げる。
ネイビーのジャケットにタイトなスカート姿の女性は、自分の座席から立ち上がると、女の子に歩み寄り、サングラスの奥から笑顔を見せながら拾った人形を差し出した。
「Thank You」
碧眼に感謝の気持ちを溢れさせて、少女は金髪の頭を下げた。
サングラスの女性は、そんな少女のかわいらしさに微笑みながら、自分の椅子に座り直し、シートベルトを締めた。
窓から外を見ると、一面の青空と浮かぶ雲。その下には日本の海岸線が見えている。
女性は背もたれに頭を預けると、静かに目を瞑った。
脳裏に初老の紳士の姿が浮かぶ。
アメリカを出立する前に、女性に一つの命令を与えた紳士だ。
「キリコ、これは最重要で、最優先の指令だ。」
そう言いながら一枚の写真を差し出した。
それには、青年と並んで笑顔を向ける少女の姿が写っていた。
「よく、こんな写真、手に入りましたね。」
「苦労したがな。」
老紳士は笑みも浮かべず、テーブルの上に両手を合わせて置いたまま、キリコをじっと見つめ続けている。
キリコはそんな老紳士を無視するように、写真の少女を脳裏に焼き付けるようにしばらく見つめた後、それを内ポケットにしまった。
「くれぐれも悟られるなよ。」
用事をすましたかのように立ち上がったキリコの背中に、老紳士が声をかけた。それに対してもキリコは反応を見せることもなく、その場を立ち去った。
キリコは、窓の外の風景に目をやった。
旅客機が旋回をしながら大地に近づいていく。
成田空港の滑走路にその巨体が轟音を立てながら降りてくる。
キリコの探し求めている少女のいる日本に。
エンジェル伝説 第二部 紫の少女の章 了
エンジェル伝説 第二部 黒の少女の章につづく