考える葦はピンクの夢を見るか
奥田哲也は電飾の一部が消えた派手派手しい看板の下で、ぽっかりと黒い口を開けている建物に入るか否か、もう一時間も逡巡している。
遡ること一週間前、彼は同じ場所へ、友人の高坂翔一に連れられやってきた。
高坂とは同じ中学で同じ部活、三年で進学クラスと普通クラスに別れたが、常に二人で行動した。
大人になり、奥田は大学の研究員、高坂は普通に就職して営業と、進む道が違っても変わらず連んでいる。
高坂は大変能動的で、何にでも興味を持つ。人当たりも良い。
対して奥田は引っ込み思案、好奇心の向くこと以外には見向きもしない。しかも高坂以外の人間とはまず関わらない男だった。
なので、高坂が唐突に『風俗に行こう』と言い出した時、彼が即答で断ったのは言うまでもない。
「なあ奥田。俺は最近思うんだ。お前はこのままじゃいけないってな。だってそうだろ? 女を知らずに人生過ごすのか? それって本当に生きてるって言えるのか?」
正直、奥田は『余計なお世話だ』と思った。
「僕は行かない。僕の人生に女性は必要ないし、第一興味もない。君が心配してくれるのは嬉しいけど、丁重にお断りするよ」
「お前、それは人間としてあまりにも淋しいぜ」
「淋しい? それはないよ。今は研究が楽しいし、それに君がいる」
眼鏡をくい、と直す奥田。至極真面目な顔つきは、二人があどけない子供だった時分から変わらない。
「おい、俺はそっちのケはないぞ」
わざとらしく後ずさりする高坂を、やや馬鹿にした眼で奥田は睨んだ。
「すぐ恋愛に結び付けようとするのは、君の悪い癖だ。僕が言いたいのは、君がいつも何かしら僕の好奇心をくすぐってくれるから、退屈しないって意味だよ」
あんまり四角四面に答えを返して来るものだから、ちょっと可笑しくなって高坂は笑った。
何が書いてあるかさっぱり理解できない、分厚い学術書とにらみ合う友人の肩を強引に引き寄せ、眠たく見えるその一重瞼の奥をのぞき込む。
「分かってる。ったく、馬鹿がいくつ付いても足りない真面目野郎だなお前は。もうちょい人間の機微ってもんを勉強した方が良い。いや、するべきだ」
「……それで風俗か?」
「そう! 女を知れば人間が分かる! 行くぞ」
「安直だな」
「お前が頭固すぎなんだよ」
すでに鼻の下が伸びきっている高坂に引きずられるように、奥田はきらびやかな繁華街へとやってきた。
初雪が降る頃で、すでに息は白い。
「やはり気が進まないなぁ……」
「ここまで来ておいて何言ってるんだよ。ホントは興味あったんだろ?」
「性行為を金で買うなんて、愚かにも程がある。時間の無駄だ。僕はケチではないと思うが、それでもこんなことに使うくらいなら、新しい本に使いたいよ」
「……はぁーあ、お前に人並みの感覚を求めた俺が馬鹿だった。この先も一人寂しく生きていくが良い」
「何言ってる。僕は一人じゃない。世話焼きな君が、何かとかまってくれるからね」
奥田が珍しく冗談めかして言うと、今度は高坂が真面目に答える。
「人間、いつどうなるか分からんのだぞ」
何を弱気な、と笑い飛ばそうとしたが、いつも陽気な友人の真っ直ぐな眼に、軽口を叩く気にはとてもなれなかった。
高坂は、大学生の時に両親と妹を事故で亡くしていた。
「すまん」
過去の傷に触れたように思って、奥田は詫びた。ひゃひゃっ、と笑い声が返る。
「ばーか。堅物め。もっと気楽に生きろよ」
「さっきと言ってることが違うじゃないか。先が分からないなら、堅実に生きるのが正しいと思うが」
「先が分からないから、やりたいことを目一杯やれってことだよ。あの時こうしておけば良かった、なんて、死ぬ間際に思いたくないだろ?」
「……それが風俗とどう繋がるのか説明してもらいたいね」
「行けば分かるさ」
結局、高坂は詳しく語らなかった。
ただ一言、
「指名するなら『じゅりあ』が良い」
とだけ言い置いて、それきり二人は二度と会わなかった。
高坂の葬式は、本人の人柄とは反対に人気がなく、ひっそりとしていた。
身よりのない彼の式を取り仕切ったのは、実の息子のように可愛がってくれると常々聞いていた、会社の社長夫妻である。
通夜の後、奥田は夫妻に呼び止められ、一冊のノートを手渡された。
「あの人、あなたのことばかり話していたの。本当に仲がよろしかったのね。遺品を整理していたら、これが出てきて表紙にあなたの名前が。読んであげてください」
ノートは、くすんだ色をしていた。背表紙が痛んで、ページが取れかかっている。
幼い字で、奥田の名が書かれてあった。彼には覚えがある。初めて故人と会話を交わしたきっかけのノートだ。
中学一年、新しいクラスの出席番号で前後の席に着いた二人。奥田は誰とも喋らなかった。高坂は早々に周囲と馴染んだ。
ある日、授業中に奥田の背中をしきりにつつく者が。振り返ると、高坂が机に身を乗り出し耳打ちしてきた。
「おい、おいってば」
「授業中だぞ。静かにしてくれ」
「あのさぁ、俺、次の演習問題当てられてんだけど、ノート忘れちゃって。今日だけ貸してくんない?」
周りにもいるのに何故自分に、と思い切り嫌な顔をしながら、奥田はそれを手渡す。
「サンキュ! 後で返すな」
ノートはそれきり、奥田の元へは戻らなかった。
「ありがとうございます。では、私はこれで失礼いたします」
ぴくりとも表情を変えず、夫妻に一礼して奥田は葬儀会場を後にする。
その背中を、夫妻は黙って見送った。
帰る道々、奥田は煙のように消えてしまった友人との、懐かしい時間をぼんやり思い返しながら歩いた。
そしてふと、先日二人で訪れたあのいかがわしい場所へ、足を向けてみようと思った。
繁華街へ近づくにつれ、笑顔の人間が増えていく。客引きの声、化粧の濃い女の嬌声、会社への不満を声高に話すサラリーマンの群れ。
喪服の自分が急に、異星人のように感じられてどこか心細い。こんな時、高坂がいたらどんなに気が楽だろう。奥田は考えずにいられなかった。
人々の流れを避けて、道の端を歩く。呪文のように、人類史の年表を脳裏に浮かべながら。
そうして再び、高坂と最後の別れになった、件の雑居ビルへとたどり着いた。
だが、せいぜい四階程度の小さなビルがこの上なく巨大なものに見え、明るい電飾の下の入り口が自分を飲み込む底無しの暗渠に感じてしまう。
思わず足がすくんで、結果一時間を消費してもなお、踏ん切りをつけられずにいたのだった。
それでも帰ろうと思わずにこの場に留まっているのは、高坂の言葉が脳裏を離れないからだ。
『人間を知るには女』
この、ちょっと聞いただけならくだらない一言に、奥田は強く惹きつけられている。
人間の歴史には大いに心揺さぶられるが、生物としての人間には全く興味をそそられない。そんな自分がどうして、たった一人の友人の何気ない言葉に囚われるのか。奥田は己に対して驚いた。
「お兄さん、入らないの?」
「うわぁっ!」
不意に後ろから声を掛けられ、奥田は飛び上がった。
「な……っ、何、誰」
「はぁ? そっちこそ誰。てか挙動不審すぎてケーサツ呼ぼうかと思ったんだけど」
「け、警察……?」
思いもかけない『警察』の一言に、奥田はようやく我に返る。
「僕はただ、この……ビルに用があって」
「え? じゃあウチの店のお客? やだぁ、紛らわしい! それならさっさと入ってよ」
見るからに夜の仕事という風体の、痛んだ金髪の女性が奥田の腕をぐいと引っ張った。
お世辞にも美人とは言えないが、愛嬌のある丸顔で、体も同じくまるまるとふくよかに見える。
「お客さん、ウチの店初めて?」
「というより、このような所自体初めでどうしたら良いのか……」
「へー、真面目なんだね。なんで来ようと思ったの?」
初対面なのに馴れ馴れしく話しかけてくる女に少し不機嫌になるが、奥田は何故かこの人に全て話したくて仕方なかった。
エレベーターは無い。店への狭い階段を上りながら、彼はとつとつと話し始めた。薄暗い足元には、煙草の吸い殻が幾つも転がっている。
「実は、以前友人とこのビルの前まで来たことはあるんです。でもその時は、僕が興味を持てなくて。その、そういう行為に」
「あ、もしかしてゲイ?」
「いえ、恋愛対象は女性なんですが、特に交際したいとも思わなくて。そんな時間があるなら、研究をしている方がどれだけ有意義かと思うんです」
先を上っている女が段の途中で立ち止まり、奥田を振り返る。
「草食系ってやつか。お客さん童貞でしょ」
「……女性がそのような言葉を使うものではない。はしたないです」
「こんな商売やってて今更はしたないも何もないよ。そっちだって、口では綺麗事言いながらこんなとこに来てるじゃん。どんなに取り繕ったって、男と女がやることなんて最終的に一つしかないでしょ」
乱暴な言いようだが正論だと、彼は感じた。長い歴史の中でどのように人類が血をつないできたかと言えば、結局それに行き着く。
奥田には彼女の、見た目からは分かりにくい奥深さが好ましく思えた。
「着いたよ。さ、入って」
小さなドアをくぐると、暗い階段とは正反対の眼に痛いピンクの照明が、部屋全体を妖しく浮かび上がらせている。
「お、いらっしゃいませ。お客様は初めて?」
申し訳程度の小さなカウンターには、四十がらみの男が一人。いかにも堅気ではなさそうな、凄みのある顔をしている。
「は、はい。初めてです」
「ははっ、そんなにビビらなくていいよ。ここのオーナーはその筋とは関係ないから」
いかつい容貌がくしゃりと崩れ、人の良さそうな笑顔になったのを見て、奥田は胸をなで下ろした。
「はぁ。あの、それでどうしたら良いでしょうか?」
淫猥な店の雰囲気にすっかり呑まれてしまった奥田は、迷子の子供のように落ち着きを無くしている。
そんな彼の腕に、女の肉付きの良い腕が絡みついてきた。
「ねえ、どんな娘がお好み? 特に決まってないならアタシなんてどう?」
奥田の肩にしなだれかかってきたが、細い彼は重くてよろけてしまう。
「おい、お前の体重じゃお客様が潰れる」
「はぁ? アタシそこまでデブじゃないんだけど」
「黙れデブ。文句はもっと痩せてから言え」
「んだとコラ!」
二人の丁々発止をおろおろと見ていた奥田だったが、女を見て、高坂が生前言っていた名前が脳裏に浮かんだ。
「あの……『じゅりあ』さんという方はいらっしゃいますか」
やいやい言い合っていた二人が、揃って奥田に顔を向ける。
「え? え、何て?」
「あの、じゅりあ……さん」
突如、女が大笑いを始めた。
「やーだぁ、ホント面白いわぁお客さん!」
「何故ですか。特段笑えることは言っていませんが」
「これ、じゅりあ」
といって強面の男が、ゲラゲラ笑い続ける女を指さす。奥田は二度見した。
「……ん?」
「じゅりあはコイツ。あんた物好きだね。こんなデブとやりたいなんて」
「うっせー、次デブって言ったらコロす! お客さぁん、ご指名ありがとうございまぁす」
ついさっきまで口汚く男を罵っていた女が、同じ口で一オクターブ高い、鼻にかかった声でしなを作る。
「じゅりあ、いーっぱいサービスするねっ」
「じゃ、頑張ってくださいお客様。潰されないようにね」
「うっせ、てめマジ死ね! お部屋へご案内しまぁす」
奥田が通されたのは、およそ三畳半から四畳しかない狭い部屋で、あるのは小さなシャワールームと簡易ベッド。裸の蛍光管が無機質に白い明るさを放っている。
余計なものは一切排除されている。ここに男女の恋愛は必要ない。本当に行為をするだけの、合理的なシステムだ。
「さ、お客さん脱いで。まずシャワー浴びてね」
「あ、いや、ちょっと……」
奥田が抵抗するもむなしく、あっという間に上半身を剥かれてしまった。
「はーい、下も脱いでね。時間無いから」
「待って! 待ってください!」
「だからぁ、時間無いって言ってんじゃん。一時間しかないの。そりゃ延長もできるけど、アタシ正直ダルいから」
女がベルトに手を掛ける。身をよじり、必死で逃げ出すと半泣きで奥田は叫んだ。
「僕は初めては結婚してからって決めてるんだ!」
いい歳の男が発する、まるで清い処女のような悲鳴に、ぜいぜい肩で息をしている女の動きが止まった。
「……アンタ、何しにきたの。って言うかさぁ、なんでアタシのこと知ってたの? 来たことないんでしょ?」
「それは……亡くなった友人にあなたを薦められたんです。ご存じないですか、高坂翔一と言うのですが」
「翔一……そっか、彼、もう逝っちゃったんだ」
「え? どういう意味ですか」
「もしかして、アンタ奥田? 翔一からいっつも連れてくるって言われてたんだよ。大事な友達がひとりぼっちになっちゃうから、面倒見てやってって。バカよね、こんな女に任せて死んじゃうなんてさ。ま、末期癌じゃ仕方ないか」
彼女の口からまさか自分の名前を聞こうとは夢にも思わなかった奥田は仰天した。と同時に、今は亡き友人が彼をここへ誘った訳がようやく分かった。
「高坂と最期に別れたのがこの店の前でした。それきり、もう」
あとは言葉にならなかった。
奥田は、今になって初めて、大声を出して泣けた。
じゅりあは彼の背中を、その柔らかな腕と胸で包み込んだ。
「僕は……なんにも、知らないままで……っ」
「うん」
「あいつ、っど、どうして言ってくれなかったんだろう。言ってくれればもっと……」
「言えなかったんだと思うよ。こういうのってさ、置いていく方がきっと何倍も辛いんだと思う」
震える奥田の肩を、じゅりあはいたわるように優しくさする。
「残った方はこの先も生きて、新しい記憶がどんどん増えていって、辛さはいつか薄れちゃうけど、先に逝った人は自分が与えた辛さをどうしてあげることもできないもの。だから、笑った記憶だけ、幸せだった顔だけ残して逝きたかったんじゃないかな」
彼女の静かで低い声が、彼の耳にそっと届く。
「あいつは、幸せに逝けたんでしょうか……」
「きっとね。あの人、くるたんびにアンタの話ばっかりしてたの。昔の馬鹿話とか、どんな研究してるかとかめっちゃ楽しそうに。やることもやらないで、アタシはお金もらってただ話を聞いてた」
じゅりあの眼にも、光るものがある。
「そしたらある日いきなり、もうすぐ自分は死ぬらしいから奥田を頼むって。意味分かんないでしょ?」
「あいつらしい。いつも突然おかしなことを言うんです。僕は相手にしていませんでしたが、結局最後には高坂のペースに巻き込まれていました」
涙と鼻水でどろどろの顔を拭きもせず、奥田はふふ、と笑った。
その様子に、じゅりあはどこか嬉しそうな微笑みを浮かべる。
「良かった。そうやって思い出して笑える思い出があるなら、あの人も幸せ。ずっとアンタのこと聞かされてたアタシも、なんか安心した」
タイマーのアラームが鳴って、二人の時間は終わりを迎えた。
「どうする? 延長する?」
「いえ、今日は帰ります。あの、もしご迷惑でなければ、もう一度来てもよろしいでしょうか」
「アタシは構わないよ。次はちゃーんとしてあげるよ」
悪戯っぽく笑うじゅりあにちょっと尻込みした奥田だが、冗談だと分かると一重瞼の細い目を更に細めて笑った。
「僕の知らない高坂の話を聞かせてください」
ビルの下まで見送ってくれたじゅりあに礼をして、奥田は繁華街を去る。
今まで気にも留めなかったすれ違う人々の背景を、彼は初めて考えてみた。
一人一人の人生は、時間の流れにとっては取るに足らない些細なものだ。しかし、そうした断片の積み重ねがやがて後世の人間に『歴史』として受け継がれていくのだろう。
それに思い当たった時、奥田は名も知らぬ人々を愛おしく感じた。
コートのポケットに手を入れようとして、固いものが当たる。斎場を出るときにもらった、あの古びたノートだった。
捨て鉢になってぞんざいにポケットに突っ込んだことを思い出し、慌てて取り出す。
明かりの下で見てみると、丸めたものだから傷んでいた背表紙が取れてしまった。これ以上のダメージを与えないよう慎重にページをめくる。
そこには幼い日の二人があの時のまま、いきいきと輝いていた。