世界が終わるまでは
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ぬるいものが頬を伝った。撫でるように移動した温度は、唇に触れ、歯列をなぞって舌を滑り落ちる。
血の味がする。
粘膜よりも僅かに冷たく感じる液体が胃に落ちる。一滴の滴が膨れ上がるように体の内を満たし、空いた穴を埋めていく。
後々思う。
おれは、この時に生まれ直したんだろう。中学生の『周 晴光』は、この時に死んでしまったんだ。
ぱちりと目を開けた。
薄い毛足の温かみのあるカーペットに、木調の小さなテーブルや本棚がある。ベットには手作りらしいパッチワークのカバーがかかっている。窓の桃色のカーテンは陽に焼けて褪せていた。
家具で床が埋まるほどの小さな部屋だったが、清潔で生活感があった。『おれ』は、そんな部屋の中心に立っていた。
よろめきながら窓に近づく。カーテンをめくると綺麗な水色の青空が広がっている。この建物は高台にあるようで、障害物に遮られず遠くの山の影まで見渡すことができた。少し視線を落とせば、隣家が寄り添っているのがわかる。
「……電線が無い」
かわりに空を横切って洗濯物がはためいていたり、道の半分も迫り出した天幕のようなものを掛けて、思い思いに軒を作っている。
言葉の上では似ていても明確に違う。窓の外には、テレビの画面で見たような異国の風情があった。東洋めいた色鮮やかな街並み。
いや、正確には“異界”の風情だ。なにせ空の上にはぽっかりと月が二つに太陽はぼやけて霞んでいて、銀色に反射しながら羽ばたく謎の飛行物、時々人間らしき影が飛んでいるのも見えるのだから。
「どこだぁ……ここ」
思わず額を抑えた。
のどかな鳥のさえずりが聞こえる。半袖のTシャツでも、うっすら汗をかくほどには暖かい。
呆然と窓の外を眺める。『瞬間移動なんてファンタジーのアニメやRPGみたいだなあ』今浮かぶのはそれくらいだった。
いつまでそうしていたのだったか。微かな音を立てて背後の扉が開いたのにも、気が付かなかった。
「あ、あなたは」
か細い女の子の声。
おれは飛び跳ねて振り返った。
長い桃色の髪は、おさげにして胸の前に垂れている。動きやすそうな紅色の民族衣装を着ている女の子の赤みを帯びた丸い目が、おっかなびっくりこちらを見上げていた。
「だ、誰だ……? 」
後ずさる。彼女はゆっくりと近づいて、まじまじとおれの顔を見た。おれもまた、その女の子を見返す。
綺麗な桃色の髪だ。揃いの瞳は虹彩が髪より鮮やかな桃色で、そこに紅色の瞳孔が浮かんでいる。宝石の中に赤い果物が詰まっているようで、とても綺麗だ。
ふいに、彼女の右手がおれの顔に伸びた。
「あなたは……やっぱり」
そこからは頭が勝手にスローモーションだ。
バチッ! 赤い火花が彼女とおれの間を奔ると同時に、筋肉の隙間を縫うような痛みが駆け抜けた。
「ウワッ」
思わず後ずさると、彼女の方がよっぽど怯えたような顔をして身を縮める。
「あの、その、ごめんなさい。血が……」
「えっ」
唇の端を触ると、確かに指先に乾いていない血が付く。「変だなぁ。どこも痛いところなんて無いのに」
「ほんとう? よかった……あの時のままだったら、どうしようってわたし……」
おれの一言に、彼女は眉を下げて息を吐いた。
なんでだろう。
この女の子のつむじを、こうして眺めたことがある気がする。
「その、きみの名前は? おれとどこかで会った? 」
「会いました……あなたはわたしを助けてくれたでしょう? 」
女の子の紅色の瞳ともう一度目が合う。その瞬間、またあの赤い火花がおれと彼女を繋いだような気がしたが、今度はちっとも痛くない。
「本の一族のファンといいます。あなたは倒れた直後に、あそこから消えてしまったんです」
「消えた? おれが? 」
「そう。この国中いくら探しても、二年間あなたは見つからなかった」
「に、にねん!? 」
まじまじと彼女を見る。見覚えがあるはずだった。顔立ちなんて覚えられる状況ではなかった。それでも、この桃色の髪には見覚えがある。一緒に逃げた、あの女の子だ。
おれは泣いて怯える姿しか知らないし、そもそも一緒にいたのは数時間……いや、へたしたら数十分だったのかもしれない。おれは陽の中で無事な姿を見て、あの子はこんな顔をしていたんだなと何かこみあげるものがあった。
「あなたが目の前から消えて二年……ずっとお会いしてお礼を言いたかったんです」
女の子は掬い上げるように視線を動かしておれを見た。白くなるほど両手は胸の前で握られていて、溶けて落ちてしまいそうなほど、その紅色の目は潤んでいる。
「ずっと、ずっと言いたかった……生きていてくれてありがとう……わたしは、あなたがこうして立っていることで救われます」
ぶじに聞き取れたのはそこまでだった。おれの胸元にしがみ付いて泣き崩れた彼女は、ぐちゃぐちゃに言葉にならない感謝の単語を、おれに向かって何度も何度も繰り返した。
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