悪逆宣誓
礫のように叩きつける雨粒を体に受け、左右を景色が流れていく。脚を極限まで折り畳んだアン・エイビーは、腕を伸ばして人間パチンコになって吹き飛ぶ。久々だったからだろう。『糸』を支える両腕の筋肉が緊張し軋んでいた。
冷たい冬の雨だ。
しかし、湯気が立つほどにアン・エイビーは興奮している。行く先の家屋や不幸な通行人を無意味に糸に掛け降り回し、切り裂き――――……殺人鬼アン・エイビーは、高揚のままに高笑う。
東の郊外には、未だ手つかずの鬱蒼と黒く茂る森が広がっている。起伏が激しい未開の山間を抜けた先には、ただっ広い高原地帯が広がっているはずである。一年中霜が降りて水色がかった草原の名を、その色から花緑青高原という。そこが合流地点だ。
傾斜に木々が積み重なり、光を奪い合う枝々が夜の深い森にさらなる影を落とし、地面は濡れて滑りやすい。
ただでさえ乾きかけた血糊を浴びているアン・エイビーは地に足を付ける選択をせず、糸で体を支えながら幹を蹴り上げ、隙間をジグザグに蚤のように跳ね飛んでいく。
標高が上がれば上がるだけ、雲が晴れ、木々が小さくなり、萌黄の色を増す。高原と森の境は曖昧である。いつしか腰よりも高い樹木は減り、それすらもまばらになっていく。
高原では昼夜太陽が沈むことが無い。
星屑が縁取る水色の晴天と、たなびく草原の絨毯の間で、彼らは落ちない滲みのようにアン・エイビーを待っていた。男も女も、老人も子供さえいるが、人数は両手に足りない程度しかいない。
うちの一人が緩慢に立ち上がり、アン・エイビーに向き直った。
「キミがアン・エイビー? 遅かったジャアないか。すごい格好だな……何人殺した? 」
「ふふ。ちょおっと楽しみすぎちゃったぁ」
「まったくだ、お楽しみが過ぎる。管理局に捕まってしまっては、せっかくの計画がパアになるだろう。もうすぐで置いていくところだったぞ」
「見たとこ数が足りないようだけど、わたしが最後? 」
「いいや。でも三人くらいやられたかな。実をいえばボス待ちさあ。良かったな、間に合って」
「……おい」
一人が低く声を上げて、アン・エイビーも高原の始まりに視線を向けた。眩しいほどの緑に、共を連れ添って赤い髪をなびかせた人影が悠々と歩いてくるのが見える。
鴉の翼如くの外套を羽織り、その下には白い長着の裾が見える。その白磁の右頬には、黒々とした三日月型の痣が耳から唇の端にまでかかっていた。
鮮烈なほど赤い髪の若者は、凪ぐように黒い目を動かし、目の前に揃い立つ配下を眺め見る。
「お待ち、しておりました……」
「数が減ったなぁ。何人死んだ? 」
「こちらは二人。一人は捕まりました。ああ、けれども、管理局の研修生のガキども……それは命令通り、32人すべて屠ることが出来ました。これであと二十年は、職員の次世代育成が停滞いたしますでしょう。管理局の協力者たちは、残念ながら纏めて始末されたか、ここまで辿り着けなかったようで……このアン・エイビー以外は」
「そう。……君がアン・エイビー? 」
「はい……」
アン・エイビーはにたりと薄い笑みを引いて、裸の足を前に出した。若者は裸に近い女の身体を温度の無い視線で俯瞰し、首を傾ける。
「僕に忠誠心はいらない。ここにいるのは、血を浴びたいか、金が欲しいか、ただひたすら弱いもの虐めをしたい奴らだ。従うだけの犬はいらない。勝手に引っ掻き回して勝手に遊んでくれ」
「では、わたしが貴男に侍るのも勝手にしても良いのですかぁ? 」
「気が向いたら遊んでやるがね」
「……猊下、追手が迫っております」
側らから共が囁く。若者はまるで聞こえていないかのように続けた。
「ならば、君には役目をあげる。まずは僕の名前を口にする権利。僕を含めた、すべてを呪う権利。次に同族を殺し尽くす権利。手足が千切れ飛んでも屠ればいい。欲望のままに食って肥えてしまえばいい。ほしければ悠久の時をあげる。きっと地獄なんて生温いと言わせてあげる。首だけでも帰って来れば、僕が塵も残さず使ってやろう」
暁がやってくる。青の高原は、いつしか燃え上がるような色に染まる。
「ええ、ええ、ええ! 『根積さま……っ! 」アン・エイビーはぞくぞくと総身をくねらせた。
「食らいます、食らいつきますとも! この体、すでに尽きることありませんわぁ。何度だって使ってください! どれだけ壊れたってかまわない! 素晴らしいご主人様……わたしを旦那様の犬にシテェ……ッ! 」
落ちないはずの陽が陰る。
燻るような夕日が悪虐たちを照らす。草原の彼方からは爛々と目を怒らせた黒影の群れが、波打って迫ってきていた。
「根積さま! 管理局の追手が……! 」
「いいさ。このまま帰るのもつまらないだろう。おまえ達も暴れたりないと見える。そうだな……」
根積の右手が西北の空を差す。そこにあるのは白々と青い、鋭い三日月。
根積は黄昏に赤毛を逆立て、天を指した手を軍勢に向けて振り下ろした。
「いちばんには褒美を取らせよう。何だっていい。好きにできる領土と領民でも、使いきれない財でも、あの月でもいい」
さざめくような動揺、あるいは高揚が広がる。管理局はあらゆる異なる世界の英知と魔導を研究し、その身に還元する術を許された組織だ。一人の兵にして一騎当千も珍しいことではない。それが目視にして、二百は攻めてきている。
アン・エイビーはべっとりと手の平を舌で拭うと、甲高い嬌声を上げて駆け出した。
「本当に……? なんでもよろしいのですか? 」
「『なんでも』は『なんでも』さ。だって、この身はこれでも神だ」
「あ、あれは……! まずい、第四部隊……先鋭の戦闘部隊! 帰ってきやがったのか! 猊下! たった八人で、あれを獲り合わせるのですか!? 」
「殺せる自信があるやつからツッコめばいい……俺は行くぜェ。あんな淫売に遅れを取るわけにゃいかねえよ」
赤目の男が、呵呵と笑い飛ばして地を蹴り躍り出す。根積の供もきらきらと目を輝かせて飛び出していき、残った人影は二つ。
「おや……君は残るか」
根積の声から逃れるように、少年は唇を噛む。畳み掛けるように、根積は背後の少年に声をかけた。
「同族を裏切っても、なお死にたくないか。それもいい。人間、生き汚いのは美点だ」
少年は菫色の目にこぶしを押し当て、祈るように蹲った。細い肩に桜色の髪が散らばる。
「おばさん、おじさん………みんな……ファンちゃん、ファンちゃん……! ごめんなさい………ごめんなさい………!! 」
遠目にある闘争から目を塞ぎ、彼は何度もつぶやいた。
静寂が包むだけだった高原を闘気が掻き混ぜ、鉄錆の臭気が草花を覆う。根積は血煙舞う闘争をガラス玉のような遠い目で見つめ、ふと嘆息した。
「……つまらないな」
戦況は劣勢。こちらが弱いというわけではない。それぞれベクトルが違うとしても、配下どもは一人で一万殺せるものを揃えている。しかし管理局・第四部隊は強く、そして多かった。
彼らの中で、一人で万兵相手取ることができるのは両手の数ほどだろう。しかし百人確実に殺せる兵が数百いる。彼らは地道に攻撃を見極め、地道に策を練り、地道に反撃をしてくる。まるで協調性の無い両手と少しの猛者と、優秀な兵が統率された軍とでは、まるで悪戯坊主を相手する大人のように見える。管理局は敵の多くを、生け捕りにする気で戦っているのだ。舐められている。
こちらはすでにまた四人が死体になっていたが、うちの二人は憤死による自害である。
「……欠伸が出る」
鴉のような外套のあわせから、根積は一本の巻物を取り出す。
根積は捨て鉢の仕草で巻物の端を地面に投げ捨て大きく弧を描くように広げると、そこに描かれた鳥獣を踏みつける。墨の引かれた紙片は湖面のように波打った。
「おい、眠くなったからさっきのはやっぱりナシだ。さっさと帰るぞ」
はるか遠くで波打って血を散らす戦場に向かって聞こえるはずがない声をかけ、悪逆の頭は、陽炎のように消え失せた。