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ラバーズ・コンチェルト 後編

(くそ! なんだよこれ! )

 晴光は瓦礫の山の間を走る。

 右手には女の子の小さな手。手のひらはそれぞれじっとり汗ばみ、しばしば滑る。命綱のようにお互いを握り合って、必死に足を動かした。


(追いつかれたらバケモノに殺される! )




 アン・エイビーは左手小指が察知する微かな“引き”を感じ、片眉を上げた。

 小指の“糸”は、市街の東に通じている。“網”にかかった獲物の抵抗の感触にアン・エイビーは興奮を感じながらも、僅かな焦りを感じ得なかった。

 目の前には二匹の獲物が待ちかねている。アンは躍るような足取りで、逃げる彼らを追い詰めることに執心していたのだ。

 抵抗する力があるということは、管理局の職員に違いない。抵抗らしい抵抗もできない弱者を嬲るよりもよっぽど魅力的だったが、しかし目の前にぶら下げられた餌を逃すのも惜しかった。

 ――――仕方がない。こちらを早く終わらせよう。


 彼女の“糸”は、アン自身の体液から精製される。

 ゴムのように伸び、蜘蛛の糸のように細く、糊のような粘着性と網のように獲物を絡み取る弾力を持ち、鋼の糸のように強靭であり、指先の微かな動きで凶器としての性能を発揮する。

 アン・エイビーは裸の足裏で道路を踏みしめ、低く腰を落とした。指先は広げて両腕をだらりと下げ、地面に糸を垂らす。

 アン・エイビーの身体が跳ね上がった。

 “糸”は鞭のようにしなり、網のように広がり、獲物を絡め取っては刻むために伸びる。

 ――――アンは獲物が糸にかかり、肉に食い込む瞬間が好きだ。

 獲物はその瞬間に餌と化す。餌の抵抗に糸は緊張し、時にアン自身の肉をも裂かんとする。

 ――――その瞬間が、何よりも心地よくアンの胸を、身体を、締め付ける。

 アンは奇声をあげて、凶器を振り下ろした。


 晴光はゆっくりと目を開く。

 痛みは無い。

 勢いのままに脇腹に縋り付いた、少女の細い肩を支える。

 そこには隆々と筋肉が盛り上がった、広い背中があった。


 裸の背中は、夜目にも血の気が引いたように青白い。……いや、違う。

 皮膚を隔てて、確かにその体は“光って”いる。

 裸に浮き上がる男の筋肉が、皮の下で青白く、無機質な青い光を発していた。その男は“化け物”の腕を掴みあげている。

 アン・エイビーは歯を剥いて喜色満面に、その男の名前を呼んだ。

『あらぁ……戦闘部隊の特攻隊長さんじゃなァい』

『へぇ、腕も折ったと思ったんだがなぁ。おまえ痛みも感じねえのか? 』

『あなたとは一晩お相手してもらいたいって思ってたのよねぇ。色男のハック・ダックさん、あたし(アン)のことはご存じィイ? 』

『くそっ。話が通じねえな』

 ハック・ダックと呼ばれたその男は、丸太のような腕により力をこめた。エネルギーが循環するように、男の身体が光度を増す。

『腕ェへし折ってでもテメエは逃がさねえからな。観念しな』

『イヤァン。とぅっても、だ、い、た、ん、ねっ!! 』

 晴光はアッと目を覆った。

 アンは言葉と同時に自分の腕に“糸”を巻きつけ、その上腕を切り落としたからだ。


『くそっ! 狂人め! 』


『ウフ。さて、どうかしら。ほら……よぅく見て……』


 赤い傷口が、一瞬沸騰したように盛り上がる。

 筋肉や骨がどろりと気泡を造り、溶けたように思えた。

 融けた肉は、零れた水が巻き戻るように骨を、筋肉を、最後に皮膚が肉に蓋をする。

 次の瞬間には、まっさらな腕が再生しているのだ。

『てめぇ……』

 驚いた顔をしたハック・ダックは、信じられないとばかりに首を振った。『おまえ、“本”を喰ったな』

 アン・エイビーは見せつけるように手のひらを回した。

『とっても有意義だったわよぅ。今日のディナーは、その子のパパがメインだったんだもの』

 突然、少女が晴光の腕の中で身をよじり、女の方を向いた。

 何かを言いかけて口を開いた少女は、しかしアン・エイビーが向けた笑顔に、身をすくませて黙る。


『待て! アン・エイビー! 』

『ごめんなさぁい。お誘いとっても嬉しかったのだけれど、今日はゆっくりできないの。今度じっくり味わってあげるわ! 』

 夜空に高く笑い声を響かせ、糸を伸ばしたアン・エイビーはいっそ颯爽と消え失せた。


 ハック・ダックはアン・エイビーの消えた空をしばらく睨んでいたが、苛立たしげに頭を掻き、やがて大きく溜息を吐いた。肩を落としたと同時に男の身体に浮かび上がるシルエットは光を落とし、すっかり夜闇に紛れてしまう。


『無事か? 』

 男は罰が悪そうに、晴光たちへ向かって手を伸ばした。晴光がおろおろと視線を返すと、ハック・ダックは強引に腕を取って立たせた。晴光のTシャツに張り付いていた少女は、晴光が立ち上がっても膝が立たずに崩れ落ちたままだった。

『そっちの嬢ちゃんは“本”か。大丈夫か? 」

「あ……あの、おれ、ちょっと言葉がわかんなくて……」

 晴光はそう一言、二言、呟くように口にして俯いた。眩暈が晴光を襲う。

 少女の細い肩に手を伸ばし、彼女に寄り添うように座り込んだ。――――変な話だが、彼女が自分の命綱のような気がしたのだ。

 ハック・ダックは顔を険しくして、今度はファンに視線を合わせた。

『……おい、ちょっと教えてほしい。こいつはお前の兄弟か? 親族か? 答えてくれ』

 詰問に押されるように、か細く返答が返ってくる。

『……わ、わたしを助けてくれた人です。顔も、名前も、知りません』

『そうか。ありがとう。よくがんばったな。もう大丈夫だ』

 頭を撫でようとすると、少女はびくりと身をすくませて縮こまる。

 ハック・ダックの表情は、険しくなるばかりだった。

『……こりゃあ、まずいな。こいつがこの作戦の囮か。俺の手にゃ余るぞ……とりあえず局に帰還して対策を――――』

 少女の小さな悲鳴が、思考にふけるハック・ダックの耳朶を打った。

 少年が胸に爪を立て、背中を丸めて蹲っている。『おい! どうした! 』


 最初は眩暈だ。

 それから心臓がやけに強く打つ。肌は凍えているというのに、喉の奥が沸騰しているように暑い。

 次に、内臓が絞られるような痛み――――晴光が正確に把握できたのはそれまでだった。

 あっという間に頭は白く染まる。ときおり瞬くように白い視界に移りこむ景色は回転し、焦点は定まらない。

(おれ、死ぬのかな……)

 どこかをらせん状に落ちていく感覚。遠ざかっていく。五感がどんどん糸のように細くなっていく。


(あの人も……こんなに怖かったんだろうな……)


 ぐるぐると捩られ、絞られ、ぶつりと何かが千切れる音がした気がした。



 ※※※※



 いつのまにか、霧のような雨が降り出していた。

 ここ、本の国では、毎日のようにこんな雨が降る。火山が多く起伏の激しい地形のこの世界は、地上から湧く熱で、薄く張る雲が切れることが無い。太陽は淡く暖かく、青空はいつも薄い水色で、夜は星のまたたきが雲の膜を通して見える。比較的に乾燥する冬の時期に、厚い雲と積もるほどの雪が降った今年は、紛れもなく異常気象と差し支えなかった。

 ミゲルは霧雨を裂くように走った。汗かも雨かも分からない水滴が、肌をじっとりと湿らせる。

 どこも避難を終えたのだろうか。人影のない瓦礫を横目に、街道は小石ひとつ無いまるで綺麗なものだった。いっせいに、あの“糸”で切り裂かれたためだろう。

「はぁ……はぁ……くっそぉいつぶりだぁ! こんなに走ったのは……! 」

 自分が前線を張れるような能力を持ちえないと理解してからは、ミゲルは裏方と現場の仲介に徹していた。毎日を時間と体力の限界に追われていて、最後に真面目に訓練をしたのはいつだったか。痛む筋肉にミゲルは辟易とする。

「ん? あれは……」

 前方に人影が見える。地面に膝をつく男の背……。あの青く発光する身体を見間違えるはずもない。


「ハック・ダック! 帰っていたのか! 」

「その声……ミゲルか! 」

 青い巨漢に近づくと、ミゲルは顔をしかめた。残る戦闘痕、横たわる少年の傍らには震える子供……。

 ミゲルは、重症と見える少年の腕を取った。弱弱しい脈を伝える首筋や、もちろんむき出しの腕や足にも斑に紫色の痣が浮かんでいる。

「ひでえ……どうしたらこんなふうになるんだ。早く避難しよう」

「したくても出来ねえんだよ。ミゲル、第一部隊の“アン・エイビー”っちゅう女が裏切り者だった。敵は侵入してきたんじゃあない。このでっかい方のガキが“囮”として使われたんだ」

「警報は囮に反応しただけってことか……それで、どうして避難が出来ないってことになる」

「囮のガキが死ぬからだ」

 忌々しいとばかりにハック・ダックは吐き捨てた。

「よりにもよって、囮に普通のガキを使いやがった。この世界の環境に身体が適応できてない。身体が剥離しかけてやがる。小さい穴がボコボコ体に広がっていくようなもんだ……倒れてから五分とたってないってーのに、この痣の量。脳で出血起こしたら死んじまう。本部まで運ぼうにも、耐えきれるとは思えない」

 ミゲルは極めて冷静に、ハック・ダックを見つめ返した。


「囮っつっても、侵入者だろう。どうして助ける? こっちの被害の数の方が甚大なんだ。一人のガキのために、第四部隊の特攻隊長サマが、ここでグズッている方が時間の無駄じゃねえか? 」

 ミゲルの言っていることは最もだ。ハック・ダックの能力は、他では換えの利かないほどに重要である。自分でも、その責任ある地位は重々承知していた。しかしハック・ダックは、あえて厳しく指摘した友人に、こちらもあえて軽い口調で返す。

「そんなことを言うなら、おまえは早くアタマ絞って考えてくれよ、ミゲル・アモ。こいつが助かるメドが付きゃあ、俺はすぐにでもアン・エイビーを追いかけるってえの。アンタは得意だろう? そういうことはさ」

 一人を見捨て、数を助ける――――。そんなことは、ハック・ダックの正義に反すものだ。そして何より、彼のボスが最も嫌うであろうことでもある。

「てめえなぁ……」

 呆れた声色で溜息を零して、ミゲルは肩をすくめた。こう返されるのは分かっているのに、あえて口にしたのは、必ず後で指摘されることだからだ。お互いに考えなしに突っ走って許される立場では、もうない。

 ハック・ダックの視線は強い。(俺には、いつまでたってもこんな目はできねえな……)ミゲルはぶるりと震えた。

「……ハア、仕方ねえ。後で覚悟しとけよ」

「ウチのボスの怒りに比べたら、そんなのは屁でもねえな」





 ファンは男たちの会話を、幕を隔てたような気分で聴いていた。

 父が死に、母が死に、手を引いて助けてくれたこの少年ですら死んでしまう。底が見えない暗くて大きな穴に放り込まれたような、夢うつつにも似た感覚だった。

 ふと、青く光る男がファンの顔を覗き込む。

「……頼みがあるんだ。嬢ちゃん、こいつを助けたくないか? 」

「……たすけられるの? 」

「ああ。今度は嬢ちゃんが助けるんだ」



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