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“E”の無い娘

 年齢不詳。経歴不明。性別女。

 バストは100㎝オーバー、栗毛、赤紫の瞳、右の唇の端に黒子が一つ。左上腕部に、青い薔薇のタトゥー。身体能力はオールA。

 管理局に保護された時には、工業廃棄水に汚染された黒い街にある娼館のショーガール兼高級娼婦として君臨していた。当時の名称といえるのは『●●●(黒く塗りつぶされている)』。または『●●●』。

 面談においては、極めて饒舌に過去の男遍歴を語り、生まれや幼少のことには、意味深に笑って誤魔化すか、あるいは覚えていないと突っぱね、または壮絶な逆転劇を語り、さらには『わたしは亡国のプリンセス』などと、20パターンほどの人生遍歴を口にする。

 身体検査により、少なくとも数度の世界移動を経験。また、『異世界適応度』と『影響度』の特性からして、『世界移動のたびに肉体に何らかの変化があるタイプ』と結論。

 異世界移動が原因による記憶障害も予想される。



 思考診査において、いくつかの●●●●●――――――(黒く塗りつぶされている)―――――●●●●●。活動においては規定内(問題なし)。注意されたし。



 アン・エイビーという女がいる。

 スペルは『Ann=AB』。娼館で使われていた名前は日常的に使用できる単語では無かったため、彼女を保護した担当者が名付けたものである。

 肉体ひとつで生きてきたアンは、点々とインクの染みを落とすように生きてきた。人間も言葉も使い捨て、次に行くたびに忘却の彼方に追いやられる。

 教養というほどの教養もなく、口には様々な意味で自信があるが、ペンなんてものはまともに握ったことも無い。椅子に座るよりもベットの上で過ごす方が長い人生を送ってきたのは間違いないのだから、教養なんて身につくはずもない。

 彼女にとって重要なのは、テーブルマナーよりも寝台の中でのマナーである。


 新しい名前は、組織に所属するにあたり書類を作成するために付けられた便宜上の記号であるが、意味も薄く簡素な名前をアンはそこそこ気に入っている。



 しかし新生活は窮屈だ。最初は何もかもが新鮮であったのは確か。

 今、人肌は遠く、一人遊びに耽る暇もない。こっそりと行ってきた『趣味』も、人の目が付きまとう。

 命を燃やしているという実感がない。それに気づいた時、目新しい何もかもが褪せて見えた。

 彼女の言葉を一言借りるなら、『萎えた』のだ。

 男が声をかけてきたのは、そんな時だった。



 ※※※※



 アン・エイビーは乾いていた。

 その男にとって、彼女の過去は掘り返したくもないものである。あらゆる体液にまみれたそれらの過去は、掘り返すほどに吐き気がする。肉を伴う彼女自身の性質などは、より目を背けたい。

 しかし女の過去と、そのどうしようもない性癖と。それを男が知った時、ああ、確かに、『使える』と思ったのだ。

 この女ほどに、誘惑するに易い人間もいないだろう、と。

 男の目には、アン・エイビーは『淫売』という文字を擬人化したように見える。女は極めて獣に近しい。女は乾いていた。そして飢えている。


 アン・エイビーは強い女であった。

 彼女が持つ才能は一つ。自分の体の使い方を知る術に長けていたということだ。本能に従って、あらゆる欲望を満たす術に長けている。特に肉欲については、抜群の才能を発揮していた。

 彼女はその才能だけで、この管理局から、二十年以上を一人で逃げ延びている。もしかしたら、今この時も逃げきっている未来があったのかもしれない。


 しかし女は捕まった。

 組織に籠絡され、イヌとなる。……そんな響きは彼女のお気に召したようだが、いざ飼われてみれば、野良暮らしが恋しくなったらしい。

 清潔で健全、道徳に守られ、保証された生活。

 ――――それらがどうやら、この獣をよりいっそうと飢えさせる結果になった。



 誘惑するのは簡単だった。なに、餌を与えればいいのである。

 餌を地面に置いて「これを食べろ」と示す。躾は簡単に済んだ。拍子抜けするほどあっさりと、尻尾を出して振る。


 アンは利用されることに慣れていた。利用することにも、また手馴れている。快楽とリスクの交換は、彼女がよく知るマナーだからだ。



 狭い密室空間に、むっとえた臭いが飽和ほうわしている。

 荒い呼気と嬌声、か細い悲鳴、内臓粘膜の触れ合いと、体液の交換―――――キーワードだけをあげるのなら、情交となんら変わりはないのが可笑しい。

 はたして床に寝そべり、揺さぶられるままに悲鳴を上げて喘いでいるのは男の方であったし、女は体液濡れであったが、その体液の多くは血液で、粘膜とは上でも下でもないところが露出されているそこだ。


 男は『本の一族』だ。

 彼らは成熟しても、子供のような体躯が特徴である。顔立ちも、目がことさら大きく目立って、鼻が低く、凹凸が少ない。体毛が薄く、男は筋肉が目立たず、女は胸が無く貧相である。袖や裾がゆったりとした民族衣装も、それらに拍車をかけた。

 この男も子持ちの三十路と聞いているけれども、けしてそうは見えなかった。『豊満』『淫猥』で表現できるアン・エイビーの立派な体躯に組み敷かれると、まるで華奢である。見てみろ。二の腕などは、あの女よりも細く、まるで枝きれのようではないか。


 背骨の付け根の裏側に、痺れるような刺激が走る。

 彼が無意識に舌舐めずりして見つめるのは、アン・エイビーという名の獣ではなく、その幼児のような形をした肉だ。

 頭の中には、音楽が鳴っている。

 職場で必ず流すようにしている、お気に入りの曲。激しくも淡々と悲壮を表現する。散りゆく花、朽ちゆく骨、人知れず葬られるかつての宝たち―――――メメントモリを謡ったあの曲が、頭の中に流れている。


 彼にとってアン・エイビーとはもはや、言葉を話すだけ脳のある獣であった。血が通っていても、それは畜生の体である。男は獣の交尾に興奮する性癖は持ち合わせていない。

 そこにして、『本』の男は、半分死体だとしても、まだ人間であった。


 頭の中で、彼の『日常』を象徴する音楽が鳴る。コーラスに『非日常』な悲鳴が彩り、彼はことさら興奮を覚えた。


 視姦に興が乗ったのか、アン・エイビーは身をかがめ、口で豪快に男の内臓を嬲った。

 飼い犬の上機嫌のパフォーマンスに、頭の隅が痺れていく。同時に、冷めた頭の半分が女に唾を吐いた。

「そこまでするのか」

「ああ、するのだろうな。あれは獣だから」


 文字通り、餌を貪りだした女に、枯れたと思っていた悲鳴が大きくなる。「目の前で自分のものを喰われる気分はいか程か」と過らないでもなかったが、すぐに考えるのをやめた。この娯楽に、過剰な感情移入は必要ない。


 日常が言う。

「ああ、明日も仕事だ」

 非日常が言う。

「こんなものを楽しんでいると知れば、母は私を見限るだろうか」


 目を閉じる。

 音楽はまだ止まない。


“Eve”ではない女

あるいは、“Anne”になれなかった娘

あるいは、上に跨がる女

あるいは、Eがもらえなかった孤児


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