一ノ漆
近くの塀に腰を下ろした人物、声や衣服の女性らしさを感じさせるふくらみを見て文章通りの女性を確認。
進行してしまっている、手遅れだ……。
僕は言葉を失い、立ち尽くしていた。
夕莉は二歩下がって、僕の服の袖を掴む。
僕を連れて確実に逃げるための準備に加えて、僕に逃げるという意識を感じさせたいからであろう。
「おいおい何か言えよ。つっても何も言わないのはその原稿とやらを読んだから分かってたけどな」
――ブラウ・ファニヴァ。
主人公の敵として書いた登場人物と出会ってしまった。
別々の世界であっても言葉が通じるのは、変異世界がこの日本の――言わば蓄積し続ける負の念によって構築されたから、という設定だ。
外国ならば当然外国の負の念によって構築されるのでその国の言葉を使う異術師が出てくるが今はそれはどうでもいい。
「あの……何か、用、ですか?」
夕莉は僕の服の袖を強く握って、言う。
「用? そうだなあ、用はあるよ」
彼女はもう一枚原稿を持っていた。
それを見ながら言う。
「お前が私の探していた天元夕莉だな。どうぞよろしくー」
「ど、どうも……」
塀に座ったまま握手を求めるが夕莉は近づこうとしなかった。
それは正しい行動だ。
握手には応じないのは分かっていたようで、鼻で軽く笑って手を引っ込めるブラウ。
「しかし隣のお前……最上下、明人」
塀から降りて、首を右に傾けて骨を鳴らし、首はそのままの位置で原稿を見ながら言う。
「お前は今日起きるはずの事故を回避するためにこんな道を通ってるんだってなあ?」
「な、なんの事ですか?」
「とぼけるなよ」
空気を伝って漂ってくる緊張感、殺気、それらに僕は怖気づかされそうになっていた。
「い、いや、別にただ気まぐれにこの道を通っただけで、それに貴方は……?」
落ち着け、落ち着くんだ……。
どこにでもいるただの学生として振舞わなければ。
ブラウとは偶然遭遇して、僕は当然彼女の事も知らない一般人――そう思わせて情報は何一つ与えるのも伝えるのもしてはならない。
「だ・か・ら、とぼけるなって言ったよな。こっちはこれのおかげで分かってるんだ。私が何者かも知ってるんだろう? そういう奴がいるのは困るよなあ」
これ、とは。
彼女の持っている原稿の事だ、間違いなく。
どう答えるべきか……。
そして、どう乗り切るべきか……。
「『どう答えるべきか。そして、どう乗り切るべきか、彼は悩んでいた。』だってよ。あれェ? 今そんな事考えてたのかい?」
手元にある原稿にもう続きは書かれていない。
僕の書いた物語とは違う展開、違う進行の原稿……。
それが存在していて、彼女はそれを持っている。
僕が物語に大きな変化を与えた結果、原稿の書かれている内容も大きな変化が起こったとしか思えない。
となれば、これから起きる展開は僕の書いた物語とはまったく違うのだから予測すら不可能だ。
……不安でたまらない。
「お前が何者なのか、私はすげえ気になってる、無視できない存在だよなあ」
……あの原稿には一体どこまで続きが書かれているのだろう。
僕は彼女の持っている原稿に視線を集中させいていた。
「これが気になるか? 面白ぇものを拾ったもんだぜぇ、未来が書かれている原稿なんてさァ」
だとすると非常にまずい。
これから僕らがしようとする行動も、僕らの心情も彼女には把握されているとなると、逃げ出すのは困難だ。
「お前らが拾ったその原稿もなあ、ここにおいておけば拾って見る奴がいて、私の探している奴にも会えるって書いてあるから試しに置いてみたら、原稿通りってやつよ」
やはり第三者を感じさせる。
原稿を拾ってもらえるように仕向けて、動かしている第三者を。
その人物が原稿を書き換えて、しかも現実になっていくのだとしたら……?
待て、それより現状をどう乗り切るかを考えなくては。
「天元夕莉、こっちに来い。後ろは危ないよ、本当に、危ない。毟られるかもしれないよォ」
後方からは何かが這う音。
それも一ではなく、十でもなく、百はありそうで、千かもしれない数。
振り向いた夕莉は飛び上がって僕に抱きついてきた。
彼女の驚き方を見ると後方にはそれほどのものがあるのならば、ものすごく振り向きづらいが、後ろの状況を確認するためには見るしかない。
ブラウは原稿の一部を破り、丸めて僕に投げ渡してきた。
僕はすぐにそれを開いて読んでみる。
建物の壁から、塀から、地面から、小さな隙間から沸いてくる虫は数が多すぎて黒い波のようだった。
『悲しいなあ、私の可愛い虫、虫、虫~な蟲達を見てそんな反応されるとさあ……』
ブラウは残念そうな口調ではあるが、フードの奥から伺えるその口元は弧を描いて楽しそうだった。
鳥肌が全身をくまなく走る。
すさまじい光景、今まで見た事の無い、見たくもない、見なかった事にしたい光景だった。
最初の一行目だけで、青ざめた。
僕は恐る恐る振り返ると、
「わ、わわっ!」
夕莉と同じ行動をしかけた。
「悲しいなあ、私の可愛い虫、虫、虫~な蟲達を見てそんな反応されるとさあ……」
状況は非常にまずい……。
考えている時間は無い。
虫から遠ざかろうと引くも、それはブラウとの距離を縮めるだけ。
この広いとはいえないわき道でブラウと虫に囲まれつつある、何が何でも脱却しなければ。
問題は彼女が持っている原稿にはどれくらいの未来が書かれているか、だ。
原稿は一枚のみ、行と文字数は20×20で、今僕に一部を破って渡したのを引けばそれほど文章は載っていない。
「――それほど文章は載ってないって?」
原稿には僕の心情も詳しく書いてあるようだな。
「もう一枚、あったのでした。おっと、悪いねえ、もう一枚じゃなく、もう二枚、だったよ」
体が、よろめきそうになる。
夕莉がいなければ、彼女が肩を支えてくれなければ、倒れこんでいたかもしれない。
絶望が、僕の体を弱らせた。
「お前の考えている事、ここに全部書いてあるぞ。すっげえ考えてるんだなこの短時間で」
「それは、どうも……」
幸いなのは、ブラウとの距離は縮まりつつあったが彼女はあえて距離を取っていた事。
原稿を取られないように距離を取っているのかもしれない。
まだ希望は捨てちゃいけない。
そうだ、そうだとも……!
「あ、明人……」
夕莉は震えた声を漏らす。
彼女は恐怖を隠せない様子だった。
「大丈夫、大丈夫だよ!」
僕は分かっていた。
夕莉の力は具現。
生命すら具現できる。
しかし僕が死んで、もしブラウにそのまま自分が連れて行かれれば、自分の力が発揮できなくなる――彼女はそう考えている、そう恐怖している。
何気に、嫌な設定をしていた。
生命を具現する場合、本人が死んでから時間が経ってしまうと体の損傷のみ具現して死んだままだと。
状況はよろしくない、非常に。
最悪な未来が近づきつつあった。
僕は上着を脱いで近づいてくる虫を払う。
百足に蟻、蜘蛛が多いな、どれも出来れば触りたくは無いものばかり。
僕は虫が結構苦手でね……。
「楽しいねえ、この原稿読みながらお前らの様子を観察するのは」
「わ、私が目的なら、私を連れて行って明人は助けて!」
「『夕莉の提案に、ブラウは考える間も無く首を横に振った』なんだよねえ」
ブラウは首を横に振っていた。
「そいつはさあ、知りすぎなんだよねえ。この原稿にも書いてある、天元夕莉の力も、私達の事も全部知ってるんだぜそいつぁ。これは殺しておかなきゃねえ」
そうだろう?
ブラウは最後に、意味深さをたっぷりと乗せた言葉を付け足した。
夕莉が本気になった時の具現の力は普通のものとは違う、普段は簡単な道具や物体なら出せるがそれとはまったく異なり、数多くの兵士――軍隊そのものを作り出せる。
その強大な戦力を異術師達は欲している、魔術師とこの世界を支配下に置きたいからと、異術師達の設定は三日くらいかけて書いたな。
「僕はただの人間だから、逃がしても問題は無いと思うよ?」
もう何もかもネタバレ状態、彼女達にとっては知りすぎた人間。
立場的によろしくない、ものすごく。
ブラウは右手をゆっくりと上げる。
左手には原稿、それを読みながら行動しているように思える。
「私はねえ、小さい不安も取り除きたいんだよ。真っ白に、塵も残さずに、完全に、完璧に」
何を言っても駄目な気がする。
僕をどうするか、もうブラウは決定して変更は望めない。
夕莉の靴が、地面の砂をわずかに擦る音を立てた――何かしようとしている。
具現の力を使うつもりか?
「天元夕莉、動くなよ」
虫達が僕だけを取り囲んできた。
言わば僕は人質だ。
「お前が何者か、は気になるがどうせこの原稿はお前の死が書いてあるだけだろう? 今ちょっとずつ読んでるが、お前を殺したら後でまとめて読んで思い出して楽しませてもらうさ」
後で?
「……まだ、最後まで読んでないのかい?」
意外だった。
「字を読むのは非常に不慣れでさあ。それに人間の世界は明るすぎる」
そうだ。
そうだったね。
彼女はほとんどを変異世界で過ごしていた、という設定だ。
原稿には書いていないが、僕が想像して創造したのは薄暗い世界。一日中月夜しか出ていない。
変異世界でも日本の文字はあるが、あまり見る機会は無く、しかし現実世界に来て苦労しないために憶えはする。
読むのも大変だろう。
僕とて話せはするが、難しい漢字は書けなかったり読めなかったりするのと同じで彼女の場合はひらがなすらあまり見慣れないものなのだから。
これは、大きなチャンスだ。
「最後に、聞いていい?」
「いいぞいいぞ。天元夕莉にお別れの言葉でもかけてやれ」
原稿を見ながら、余裕を抱きながら、ブラウは言う。
ブラウの目の色は赤く、やや発光もしていてちょっとした距離からでもその色は確認できる。
フードの下で動く彼女の瞳は実に緩やかだった。
一文字一文字確認して読んでいる、ような動き。
「その原稿は今僕が喋っている台詞も載ってるの?」
「えっと……ああ、書いてあるなあ」
「へえ、そうなんだ。そうなんだって、夕莉」
僕は口数を増やした。
無意味に夕莉へ言葉を投げて、彼女の様子も伺う。
そういう、文章になりそうな動作をいくつもする。
ブラウの目の動きは、慌しくなった。
現状の進行の速さと、文章を読む彼女の速さが大きく変わる。
「あ、明人……何を……?」
読めば先が分かるといってもついていけないのならばそれは自分の足を引っ張るものでしかない、僕はその隙を突いて飛び出した。
「『ここで――』、あ? あっ!」
慣れない行為である原稿を読むというのも隙の一つだ。
僕はブラウの事をブラウ以上に知っている。
原稿用紙に書く前は世界観や登場人物など、設定資料はパソコンに保存していて、彼女という敵役を作る時にどのような力を持っているか、どのような性格かなど細かな設定を書いたものだ。
意外とね、悪い子じゃないんだよ。
それはいいとして、その中には――弱点も書いたのだ。
物語ではこの弱点が活用される事は無いだろうなと思いながらも、弱点はつけるだけつけておくかと僕はキーボードに指を走らせたものだ。
その弱点を今、実行する。
本来ならばブラウから逃げるのはその弱点はつかない。夕莉が隙を突いて具現の力で僕と一緒に逃げるだけだ。
しかし物語の進行は大きく変化して、僕が人質同然で彼女はうまく動けない。
だからこそ、僕が物語の進行を修正してやらねば。
完璧には修正できないがブラウからは逃れられるという物語の進行はできる。
しかしこの方法……。
したくはない。
……えっと、やっぱりちょっとしてみたい。
してみる? してみようかな? してみるしかないよね。
うん、しよう。
悩む暇は無い。
虫が足元を、行く先の地面も取り囲んでいるが僕は上着を投げて一時的な足場にした。
酷い感触だ、表現したくないほどに。
あえて表現するならば、大中小様々な菓子類を踏み潰している感じ。音はもっと酷い、表現したくない。
これでもう上着は使い物にならないな、母さんになんて言い訳しよう――なんて、先ずは生き延びられたらそれは考えるとする。
足場に右足をついて、一秒。
ブラウは原稿を見て、僕が次に何をするかを把握しようと僕と原稿、交互に視線を揺らした。
虫を呼び寄せて、僕を撃退しようと右手の人差し指を伸ばした。
僕は知っている、その指の動きを。
人差し指で対象を決めて、小指を伸ばしたら対象に攻撃。
小指を立ててから虫が攻撃をするまでは一秒未満。
小指を立てていないので、間に合う。
間に合わせて――みせる!
羽虫がいないのは好都合、目の前に飛んでいたら邪魔だったな。
だって、僕は彼女にこれから飛びついていかなきゃならないからね。
「お、おま――」
僕が飛びつくところの書かれた文章は読んだかな?
どうであれ、小指を立てて攻撃命令を出すのを忘れてるよブラウ。
「あ、明人!」
後ろから夕莉の声。
虫を自分にひきつけてブラウと心中を? と考えているに違いない。
君の考えている事は何でも分かる、だって僕が書いた物語のヒロインなのだから。
「――えっ」
慌ててブラウは小指を立てようとするが、僕はブラウの両肩を掴み、
「――んむっ!?」
唇に唇を重ねた。
やわらかい感触だった、ぬくもりもあって、マシュマロのようで。
数秒が流れた、そのままの状態で。
虫は襲ってこない、虫達は激しく地面を駆け巡ってはいるが散り散りになり始めていた。
「……明人?」
夕莉は困惑を込めた震え声。
彼女には僕の後姿しか見えず、ブラウに何をしたのかは見えてはいない。
僕はゆっくりと唇を離した。
ブラウのフードはぱさりと後ろに、そして彼女の素顔が露になる。
銀色の髪、毛先は黒く染まっていて僕の想像していたものと同じ。
八重歯が似合う魅力的な敵、普段は常に怒っていると言わんばかりの表情をしているが今は違う。
驚愕と困惑をミキサーにでもかけたかのような落ち着かない動きをする瞳、口はぽっかりと開けてぱくぱくとさせていた。
鼻からは流血、僕が飛びついてぶつけたとかいう鼻血ではない。
極度の興奮による鼻血だ。
「お、お、お、おあアァァあ?」
言葉すら見つからず、彼女の手は糸が途切れた人形のように垂れ下がり、同時に虫達は散っていった。
「ごめんなさい」
一応、謝っておく。
鼻血は止まらず、顔は真っ赤。
「あ? あうっ」
ブラウは言下に目がぐるぐると回ってブラウは倒れこんだ。
これで、安心だ。
「な、何をしたの……?」
「えっと……ちょっと、倒す秘策を」
「秘策?」
説明し辛い。
ブラウは異性との交流が今まで無く、接触するだけで赤面する。
フードをかぶっていたのは表情を隠すのと、異性に話しかけただけでも冷や汗が出ていたからそれを隠すためでもあった。
強がった口調でいたものの、会話している時の彼女の心臓の鼓動は激しかったであろう。
そんな彼女が、もしもいきなり異性と接吻なんてすれば、興奮のし過ぎで倒れてしまう。
それが、ブラウの弱点。
まさかね、こんな場面で活きると思わなかったよ。
ファーストキスは物語の登場人物、しかも敵でした。
「それより逃げよう!」
「う、うん……!」
一体何をしたのだろう?
頭の上にクエスチョンマークを浮かべているようだったが、僕としてはなんとか有耶無耶にしたい。
「おっと、そうだ」
ブラウの持っていた原稿、忘れてはならない。
まだ目を回していて、原稿を奪っても起きる気配は無く、僕達は安全にこの場を離れる事に成功した。