三ノ壱
今日は学校を遅刻するかもしれない。
……遅刻どころか、休むかもしれない。
僕は登校中にそんな事を考えながら歩く。
登校中? 登校中だった、うん、それが正しいな。なんていったって今僕は学校とは真逆の方向へと歩いているのだから。
途中まではちゃんと登校していた。
今日は雲はやや見られるも陽光を遮るほどではない晴天だった。
清々しく、冷蔵庫にあったペットボトルのお茶を口へと運びながら僕はいつものように夕莉がいるであろう街の近くを目指していたのだ。
道中にある食堂までは順調。
その食堂は朝早くサラリーマンや学生のために営業時間はかなり早く、朝は主に朝食を求めたサラリーマンらが食堂を賑わせている。
今日は更に、賑わっていた。
「食い逃げだぁぁぁぁあ!」
食堂の前を通ったところで店員の大声と同時に何者かが目の前を横切った。
その人物は身軽にも目の前の塀へと軽々と飛び移り、追いかけよう店から出てきた店員はどこからか現れた蜂の大群に襲われて即座に店内へと逃げ込んでいた。
ペットボトルからお茶が零れ落ちて、慌てて蓋をして鞄へ。
同時に、蜂からすぐに逃げる。
逃げるといっても、僕は目的地も無く逃げてはいなかった。
先ほど食い逃げした人物が逃げた方向へと、足を進めていたのだ。
何故かって?
その食い逃げをした人物は、見覚えのある人物だったからだ。
率先して探したいわけではないが、相手の行動を把握しておきたい。
それに本来の目的を忘れて今は何をしているのか、気になる事は山々だ。
夕莉はもう待ち合わせ場所に来ているかな、連絡しておくか? なんて言おう……まあ、そのうち、連絡するか。
「えっと……塀を乗り越えて、誰かの家の敷地内を横切ったとして……」
ここらの住宅街は小道が入り組んでいて把握し辛い。
大体の方向を決めて僕は足を進めた。
小道に入って、更に小道がいくつかあり、通学や通勤する人らとは逆の方向を歩くのは抵抗があるしやっぱり諦めて学校へ行こうかなと思い始めていたその時、何か音が聞こえた。
カチャカチャと、細いものが軽く接触しあうような音、それも小刻みに。
すぐ近くだ。
二階建ての空きビルによって日陰が目立つ狭い小道、周辺にはゴミが転がっていて、頻繁に人が通るような場所ではないような道。
空きビルに体を寄せて角から顔だけを出して見る。
……けれど、誰もおらず。
しかし、音はする。
ふと、この空きビル、窓が開いている事に僕は気づいた。
音はそこからだ。
窓の下にはどこからか持ってきたのか、木箱が置いてあり、砂が付着していたので足場として使われているような印象。
その木箱に乗って、ギシリと軋む音に不安を抱きつつも僕は空きビルの窓へと手を掛けた。
どうせ周辺に人はいない、見られたところで空きビルの中を覗く行為は別に違法ではないので構わない。
中を覗いてみると、先ず頭があった。
後ろ向きでしゃがみこんでいる、こちらには気づいていない。
見覚えのあるフードだ。
さっきから聞こえてくる音の正体は、この人物が右手に持っている箸だな。
持ち方が分からないのだろう、握りこぶしでそのまま掴んでいるのでご飯粒が宙を舞っていた。
香りからしてカツ丼? 美味そうな香りだ、朝食を食べていなかったらここで腹の虫が騒いでいたかもしれない。
しかしこの室内、散らかり放題だな。
ゴミや食器が散乱している、部屋の隅には折り畳まれたダンボールがいくつも重なっていた。もしかしてあれがベッドじゃないだろうなあ……。
ここを拠点にしているとしたら、僕の家から何気に近いよりにある。
「……むっ?」
すると、箸が止まり、フードから声が漏れた。
まずい、気づかれた!
慌ててこの場から離れようとしたものの、服の袖が窓枠の破損した尖った部分に引っかかって抜けなかった。
フードが動く。
フードの下から覗かせる赤い瞳。
目と目が合う。
心臓の鼓動が、跳ね上がり、僕は引きつった表情で、その瞳を――彼女、ブラウ・ファニヴァの瞳を見つめた。
「ほ」
……ほ?
「ほぎゃぁぁぁぁぁぁあ!」
「ちょっ」
唐突な悲鳴。
転げ落ちそうになったが、服の袖が未だに引っかかっていて僕を支えてくれていた。
ブラウは後ずさり。
右手には箸、左手にはどんぶり。
「お、お、おっ、おまっ、お前ぇ……」
呂律は大丈夫かい、とても不安定そうなんだけと。
箸とどんぶりを置き、彼女は身構えた。
僕は必死に服の袖を引っ張り、新しく換えたばかりの上着なのにこれがもし破れたりしたら母さんはまた怒るだろうなあとか一瞬考えちゃったりして、いやいやそれどころじゃなくて――と 雲散。
まずい、袖のボタンも引っかかってるんだこれ!
窓枠くらいちゃんと直してくれよ、いつまでも空きビルのままだぞ!
「その、お前っ、あの、お前っ」
何かぶつぶつと呟きながら近づいてくる、ものすごく怖い!
フードを取って、赤い瞳で彼女は僕を睨むようにして見つめていた。
顔が真っ赤だ、風邪でも引いてるのかな……?
気になるのは指、虫を呼び出したら人差し指で対象を、小指で攻撃命令を出すのだが彼女の指はまだ何も動いておらず、虫も沸いてこなかった。
いつでも追いかけて殺せるという余裕からか?
もしかしたら振り返ればもう虫に囲まれてるとか?
「お前の、せいでっ、私はっ」
すると、ブラウは。
ブラウは……鼻血を出した。
「はわっ」
「だ、大丈夫!?」
敵ながら思わずその様子に心配せざるを得ない。
「私に何をしやがった、お前っ!」
「……何を?」
彼女は何を言ってるのだろう、何をした? 別に何もしてないけど。
僕は鼻血を出させる事が出来るっていう地味な能力も無いただの一般人だ。
「お、お前の顔が浮かぶと、は、鼻から血が出るっ! 異術か!? 魔術か!? にぽんの最新技術か!?」
にぽんて。
何がなんだか分からないが勝手に混乱してくれているので僕は冷静に窓枠に引っかかっていた袖を対処して自由に動けるようにした。
けれど、すぐには逃げずに僕は様子を伺う事にする。
それがどんなに危険な事かは分かっているが、どうにも彼女の様子がおかしい。
虫ですぐに攻撃してくる気配も無く、じっと僕を見ているだけ。
「僕はただの一般人だよ」
「一般人!? 一般人だって!? この野郎! 虫唾が走る! 嘘つきは嫌いだぞ!」
「嘘じゃないよ!」
どういう状況なのだろうこれは。
敵にめちゃくちゃ怒られてる、襲われてはいないけど、兎に角怒られてる。
「うるさいうるさいうるさいさい!」
鼻血を乱暴に袖で拭いて、箸とどんぶりを手にとってどんぶりに盛られていたものを口へと放り込んでいた。
やはりカツ丼、最後にカツをほおばってどんぶりを勢いよく床に置いて、咀嚼しながらまた僕を見る。
すると、
「むぐっ!?」
唐突に、表情が変わる。
喉を詰まらせたのか、胸を叩いて苦しそうに悶えていた。
思わず僕はポケットに入れていたお茶を彼女へ投げ込んだ。
「よ、よかったら……」
飲み物を前にして、ブラウは何も考えずに必死にペットボトルを取り、キャップを銅はずすのか苦戦していたので僕はジェスチャーで教えてやり、彼女はなんとかお茶を飲むことに成功した。
「ぶはぁ……はぁ……ひぃ……」
「大丈夫?」
「これで恩を売ったと思うなよ! こんなの全然いらなかったわ!」
その割りにお茶をぐびぐび飲むんだね君は。
「ここに住んでるの?」
そこはかとなく漂う生活感。
気になった事を聞いてみる。
「そうだぞ、べ、別にお前が住んでるとこの近くを選んだんじゃねーぞ! た、たまたまだ!」
会話をできるだけして、僕を虫で襲おうという思考はなるべく生ませないようにしたい。
あとは出来れば彼女とは友好的な関係を築きたいね。
あのお茶で少し、気持ち程度なら築けたかも。
「夕莉を狙う任務はどうしたの?」
「その前にこの世界で過ごすのが大変なんだよ! けーさつとかいう奴らや魔術師に追い回される気になってみろ!」
「そ、そうだね……ごめん」
ブラウは一度夕莉をさらうのを失敗している、その日の夜や次の日の朝昼晩、無一文で過ごすのは辛い。
変異世界ならば味は悪いが食料は配られたりするので問題は無いがこの世界ではそうはいかない。
室内は食器や箸、それに食べ物の袋や空き缶などが転がっており、どれも盗んできたものだと一目で分かる。
「魔術師に変異世界の入り口は閉ざされるわ、虫を使って連絡を取ってみるも返事が無いわ、踏んだり蹴ったりだ! 全部お前のせいだ! あと原稿返せ!」
あっ、やばいっ。
真っ赤な顔に怒りが込められている。
すぐに逃げようとしたが、後方からは嫌な音が聞こえ始めていた。
カサカサ。
そんな音。
大量の、カサカサ。
振り返りたくない、振り返ったら今日はきっと嫌な夢を見ると思う。
生きていたら、の話だけど。
「ちょ、ちょっと待って! 落ち着いて! 僕のせいにされるのもおかしいし、原稿は一応あるけど読んでも意味はないと思うよっ」
「兎に角中に入れこの野郎!」
言われるがまま、僕は中に入る。
選択肢は与えられていない、中に入るしかないのだ。
原稿はいつも持っている、特に何か役に立つわけではないが。
原稿を彼女に一応渡すが、読み終えるまで時間が掛かりそうだ。
「最後のほう読めば分かると思うけど、未来はもう書いてないんだ。僕が他に手に入れた原稿もあるけど、読んでみる? 未来が書いてないのは同じだけどさ」
「……お前、これが何なのかは知ってるのか?」
訝しげに彼女は原稿を見つめていた。
「……僕にもよく分からない、ただ未来が分かる不思議な原稿としか。あと何の目的か分からないけどあの原稿を僕達に渡して何かさせようとしている人物はいると思う」
「ふぅん……」
彼女は原稿に目を通す。
下手に動かないほうがいいな、今はじっとしていよう。
僕に言われたとおり、瞳の動きから読んでいるのは最後の行あたりだ。
「……くそっ! もう、いらんっ」
そこに書いてある未来はすでに過去、未来が分からないのならばと、彼女は原稿を投げ捨てるように渡してくる。
床に落ちる前に僕はそれを取った。
数歩前進して取ったためにブラウとの距離が縮まったが、それに対して彼女は過敏に反応して距離をとる。
……同時に、虫が沸く音が聞こえる。危険を思わせる音だ。
「あの……どうかね、落ち着いてくれるとありがたいんだけど」
朱に染まった頬、顔全体の色は赤と表現していいかもしれない。
「お、お前なんか! あの、その、あれだっ」
「ね、ねえ……落ち着いて話し合おうよっ」
「うるさいっ! お前のせいで、寝つきも悪くなった! も、もう最悪だ!」
どうしよう、何故か錯乱していらっしゃる。
頭を両手で掻き毟って、また鼻血を出してる。
落ち着かせるべきだ、あとよろしければ殺さないで頂きたいので命乞いを聞いてもらいたい。
「落ち着かないと……ま、またキスしちゃうぞっ!」
「なっ!? なななっ!?」
「間接キスはしちゃったけど」
「か、間接?」
僕はペットボトルを指差した。
すると、ブラウは更に顔が赤くなり、激しく鼻から出血。
ペットボトルを落として、よろめいて壁に背中をくっつけてしりもちをつき、ぐるぐると目を回していた。
これほどまでに異性に対してはっきりとした反応を見せるなんてね、君という登場人物を作った僕が思うのも何だが意外だ。
「大丈夫?」
「ふわぁ……」
大丈夫じゃなさそう、まだ目を回している。
今なら逃げるのも可能だが、このまま放置は可愛そうでもある。
僕はポケットティッシュを鞄から取り出して鼻血を拭いてやった。
僕の考えた登場人物なだけあって敵であっても愛着が沸いてどうにも放っておけない、たとえ殺されるかもしれないとしてもだ。
「よかったら、話を聞いてくれる?」
とりあえず……殺されるかもしれなくても、殺されないようにするために話をしようと思う。