二ノ陸
漢字二文字で表すならば怒涛、と表せる日々。
起承転結ならばまだ起の段階? もう承に入った? 物語に変化が起きたのもあって把握し辛い。
――あれからの事。
微影さんはどうなったか分からないが、きっと大丈夫だと思う。
彼女以外の魔術師はその後追ってくる気配は無く、一応尾行されていないかと遠回りをしてみたが杞憂で終わった。
旧校舎の崩壊音によって近所の住民や学校帰りの学生らが旧校舎へ向かっていたのもあって追ってこれなかったのかもしれない。
だからといって、不安は拭いきれるものではない。
夕莉は帰り道で「明人の家、泊まっていい?」ともじもじしながら、上目遣いで、捨てられた子猫のように、うるっとしたその瞳で頼み込んできて僕は一秒足らずで承諾。
断る奴なんているのか? いいや、いないね。いたら僕が直々に駆けつけて殴り倒してやる。
そんなわけで二日続けてのお泊り、二日続けてヒロインと一緒の朝。
てか普通に考えてさ、どうして君が怖がるんだろうね。
物語の設定では夕莉ほど強力な能力を持った登場人物はいない。
他の異術師や魔術師が恐れるなら分かるが最強のヒロインと言っても過言ではない彼女が怖がるのは些か面白いものがある。
魔術師は今回の件で慎重になる、異術師も同様だ。
少しは戦闘の無い生活がくると思う。
僕の書いた物語ならそろそろそういう時期に入るはずだからね。
『それでは朝のニュースの時間です』
ニュースを見ながらゆっくりと食事できて、美味しい朝食をいただけるこの時間は今の僕にはもう最高だね。
ほのぼの日常系物語でもいいな、願わくばそういう物語への変化が起きますようにと両手を合わせたところで叶わないのは分かっているが。
隣にいる夕莉からは薔薇のようないい香りがした。
女性はどうしてこうもいい香りがするのだろうね、心が落ち着いてくる。
『昨日、平輪街で数件の食い逃げ事件が発生して街は一部騒然となりました』
食い逃げ事件が数件だなんて珍しいな。
「兄ちゃん見てよこれ、最近は食い逃げ事件が流行中なのかな」
「食い逃げ事件だけでニュースってのも変なもんだ」
朝食を食べ終えて、僕はお茶を口へ運びながらニュースを見続けた。
『――逃亡した犯人を追った店員は大量の虫に襲われて軽傷、大量の虫がどこから、何故人を襲ったのかが調査中の警察も依然として分かってないとの事です』
僕は思わずお茶を噴き出した。
虫?
虫って言ったよね、今。
「うぎゃーん! 朝から食欲減る話聞いちゃったー! 虫は嫌ー!」
流癒はリモコンを取ってすぐに番組を変えた。
虫が人を襲う、これに関しては思い当たるものがある。
夕莉は僕を見て何か言いたそうで、僕は既に何を言いたいのかは分かっていたので小さく頷いて言葉にはしなかった。
流癒や母さんの前で、これはブラウの仕業だなと言えない。
ブラウの仕業で間違い無さそうではあるが、あの子はてっきり周辺に潜んでこちらの様子を窺って大人しくしていると思ったがまさか街で食い逃げとは……。
変異世界とは違って食べ物は美味しいものがいっぱいあるし彼女の知らないものばかり、夕莉を捕まえるという本来の目的は食欲に飲まれたのかな。
「想像しちゃ駄目だ、想像しちゃ駄目よん、想像しちゃ駄目なの」
流癒はぶつぶつと唱えるようにして、オムライスへスプーンを向かわせるも進み具合は悪そうだ。
「グリーンピースって虫に見えなくもないよね」
「兄ちゃんやめてよっ!」
大量の虫――どんな虫であれ想像すれば目の前のオムライスも食べる気がなくなってくるのは虫が苦手な人なら仕方のない事だね。
「残したら許さないからね」
「……ひゃい」
母さんはニュースを聞いていても特に動じずオムライスを食べていた。
母は強し。
ブラウと接触した時の、虫に囲まれたのを思い出して僕も食欲は失せかけたが腹が減っては戦は出来ぬ、食べるとする。
ご飯美味し。
「夕莉ちゃんは無理しなくていいからね、残してもいいのよ」
「……あ、大丈夫、ですっ。ちゃんと食べますっ」
「夕莉ちゃんは本当にいい子ね、流癒も見習いなさい!」
「推理ゲームをクリアして知性を高めてから見習うよ!」
「ゲーム取り上げるわよ」
「嘘です、ごめんなさいっ」
朝からにぎやかな食卓だ。
流癒や夕莉が現れてから、静かだった食卓は本当ににぎやかで、おそらく僕の人生で一番楽しいと感じるのはこの食卓で過ごす時間だ。
特に喋る事も無く黙々と食べていた朝食と夕食。
ここ二日はそれが無い。
朝の登校も基本は一人だった。
現実が変化した最初は流癒と、昨日は夕莉も一緒で話し相手がいるというのは退屈しなくていい。
学校に行くと生徒達は学校敷地内に踏み入れるもその中の何人かは旧校舎を見に行っていた。
噂が広まるのは早い、昨日旧校舎がなんらかの爆発で吹き飛んだと通りかかる生徒達は話をしていた。
僕達は見に行くまでもないので教室へと向かう。
見に行ったところで旧校舎を壊した犯人は申し訳なく肩身が狭い思いをして視線を地面へ落とすだけだ。
現に、夕莉は自分の席に座るまで僕の服の袖を掴んで視線を地面へ落としての歩行。
朝のホームルームではやはり旧校舎の崩壊が話された。
原因は不明、当然だ。
僕達にしか分からない。
今日は調査が入るので旧校舎付近には近づかないようにと先生は言い、何か問題があれば午後は休みになるかもしれないと聞くや生徒達は皆があからさまにそれを期待していた。
その日はずっと、兎に角旧校舎の話で持ちきりだった。
特に、
「ねえねえ、昨日さあ。旧校舎に幽霊がいっぱいいたらしいよ」
「あー知ってる! 陸上部の先輩が昨日旧校舎付近で爆発があったあとに骸骨を見たんだって!」
「今時骸骨って」
昼休みで話題は落ち着くかと思ったが、放課後になっても続いていた。
帰る準備をしている生徒らは皆話し足りないと言わんばかりに舌を回していた。
「なんか茂みの中で骸骨が寝てたっていう話も聞いたよ」
「この学校、骸骨がいっぱい潜んでるのかな」
いくつかの骸骨は、すぐには消えずぶらぶらとどこかに行っていたのか、目撃情報がどんどん出てくる。
「夕莉」
「……はい」
「骸骨、ちゃんと管理しないと」
「……ごめんなさい」
次にあれを発動させた時、今度は遊んでたとか近くの喫茶店でお茶を飲んでたとか合コンしてたとかいう目撃情報が出てきたりしたら大変だ。
「まあ、しばらくは敵も来ないようだし大丈夫だとは思うけどね」
結局午後は休みにはならず、しかし授業が終わるまでは何事も無く過ごしていられた。
放課後はどうかは分からないけど、承に入ったのならば僕が書いた物語ではいつもこのあたりで敵も襲ってこない落ち着いた部分なので多分……大丈夫。
「明人君、貴方にお話があると生徒が訪ねておられますよ」
放課後、後は帰宅するだけと教えてくれるチャイムが鳴り終えて数分後にて。
「僕に?」
「はい、貴方に。そして、あちらに」
春名さんが手の平で僕の視線を教室の扉へと誘導。
教室の入り口には少女が一人立っていた。
見覚えのある少女ではあるが、頭には包帯、右腕は骨折しているために大きめの白い布でギプスを施された腕をつって支える処置、左腕では松葉杖を脇に挟んで持っており一日ぶりだが見るからに痛々しくなっていた。
僕はすぐに彼女の元へ駆け寄った。
「微影さん、ど、どうも……」
「時間、ある?」
「はい、勿論。いくらでも」
「ならちょっと付き合って」
遅れて夕莉が追ってきた、微影さんの痛々しい姿に驚愕して駆け寄ろうとするも、
「近寄るな」
彼女はぴしゃりと拒否。
「で、でも……」
「ついてこないで、あたしはお前に用があって来たんじゃないの。こいつに用があってきたの、お前は帰る支度でもして日陰で体育座りでもしてろ」
今にも泣きそうな夕莉。
それでも睨みつける微影さんは、僕にその眼光のまま視線を向けて、廊下を歩き出す。
夕莉には教室で待っているように言うと、夕莉は日陰で体育座り。
「本当にしなくてもっ!」
夕莉を椅子に座らせてから、僕は彼女についていった。
歩くのすら大変そうだ、左足を痛めているらしく体重をあまりかけないようにと松葉杖を使って歩行するも松葉杖は片方だけなのでバランスが悪い。
右腕が無事ならばまだ松葉杖を両腕で扱えただろうに、昨日は本当に……夕莉はやりすぎてしまった。
深く反省しているようで、落ち込んでもいるようで、今日の夕莉は口数が少なかったな。
話をするといっても場所を考えていなかったのか、彼女は一階と三階への階段を見つめて、三階への階段を暫し見つめた後に一階へと下りた。
屋上で話をと考えたのかな、でも今の自分では屋上まで行くには一苦労。
ならば帰るついでに一階へ、そういう思考が窺える。
一階の広場にはいくつか座れる場所がある、そこへ行って僕達は丸いテーブルの席に。
周囲に人は何人かいるがこの広場には誰も用は無く、着席してるのは僕らのみ。
今日は皆、帰るか部活か、それと崩壊した旧校舎を見に行くという選択肢で広場はあまり利用されない日のようで好都合。
「魔術師に治療してもらわなかったの?」
気になったのは、彼女の怪我だ。
てっきり魔術師に治してもらっていると思ったのだが。
治療魔術を持つ魔術師が不足して治療できないような設定は書いてはいない、そもそも僕の書いた物語では彼女との戦闘はどうなったんだったかな……?
自分の書いた物語なのに、こうも記憶が曖昧で思い出そうとすると頭痛となると、なんだか思い出そうという行為をするのも諦めたくなる。
「上の連中はあえて治療しない事であたしの行動を制限してるのさ」
「制限?」
「昨日の過激な戦闘、あたしがお前らを殺すつもりで暴れたもんだからね。治療をしたらあたしがまた衝突して同じ事の繰り返しがなんたらとか」
「ああ、上は夕莉を拘束したいからね。しかも君は重要な人材だ、しばらくはひっそりとしてほしいんだろう」
「ひっそりとしてる時に異術師と出会ったらどうしろっていうんだか、この怪我でさあ」
それもそうだが、その怪我でも逃げる術くらいは十分にあるという上の信頼があるからこそだ。
魔術は昨日ほぼ無くしてしまったので回復まで時間は掛かるだろうが、普通の魔術師よりは早く回復するだろう。
その小さなため息は治療魔術を憶えておけばよかったと後悔してるんだね、僕が作った登場人物だから今考えている事もよく分かる。
「上は天元夕莉に関しては観察のみ、もう一人の異術師は明らかに脅威だから街や人々への被害を考えると手が出せずで困ったものよ」
今度は深いため息。
上体がわずかに前のめりになるや右腕がテーブルに当たって表情を歪ませて涙目になっていた。
「……大丈夫?」
「大丈夫、だし痛くないしおすし」
すっごい固い笑顔だね、違和感しかないよ。
「それで、君からの話は何かあるの?」
「……その、お前について調べたんだけど、本当にただの一般人なのね。ごく普通すぎる調査結果だったわ」
調べられてたのか。
「そうだよ、僕はどこからどう見てもただの一般人だよ」
「それでお前はどっちなの?」
「どっちって?」
「敵か、味方か」
……それか。
どう答えればいいのやら。
僕は、顎に手を当てて考える。
視線は面白みの無い白い天井へ。
「敵か、味方か、ねえ……」
彼女の質問を呟いて、反芻。
僕は魔術師という存在は敵として物語に登場させた。
事実、彼女は敵として現れて昨日敵対した。
けれどそれだけだ、その後はどうなるのか……思い出そうとしても頭痛によって無駄であり、何より物語は変化している。だからこそ、予測できないこの先の展開に僕は警戒せざるを得ない。
これから夕莉を強引に拘束してしまうかもしれない、微影さんよりも強力な魔術師が異術師に恨みを持っていて夕莉を襲うかもしれない。
そんな不安に煽られてどう接していいのか分からない、敵対の意思は無くとも味方だと直ぐには寄り添えないな。
「天元夕莉のつくのは異術師に加わると同じ、と……あたしは思っている」
「夕莉は異術師の血を引き継いでるけど、異術師との交流は一切無かったんだよ。あいつは異術の力を持ってるだけで僕らとは変わりない」
「変わりない? これほどの力を持っていて?」
彼女は右腕を見せてくる。
「正直、あたしは自分が生きてるのが不思議なくらいよ。あの時、上半身が吹っ飛んでいてもおかしくなかったわ。魔術師として必死に鍛練してきたのに、何も鍛練していないであろうあいつにこのざまよ。これで変わりないって? 馬鹿を言うんじゃないっての。天元夕莉と書いて危険物だわ」
「そんな、危険物だなんて……自分には大きすぎるものを与えられたら誰もが使い方が分からないものじゃない? あいつはまだ自分の力を制御しきれていないんだ。昨日のは不可抗力さ」
「異術師は破壊や殺人を快楽とする奴等でしょう? 人と考え方も違うっていう話よ。昨日のは不可抗力ではないかも。やりたかっただけ、かもしれない」
「違うよ、それは絶対に……」
「吹っ飛ばされて瓦礫の中であいつの顔が少しだけ見えてたんだけど、どんな表情だったと思う?」
……どんな表情か、それは僕も見た。
口篭るしかなく、僕の返答を待たずに彼女は先に答えを言う。
「笑ってたのよ、あたしを見て」
「それは……変異世界での、異術師の血を引き継いているから……あいつの中にはそういうのが、少しはあるかもしれない」
かもしれない?
嘘をついた。
夕莉の中には破壊や殺人を求める衝動は確かに、ある。
変異世界ではそういう感情が溜まって、異術師の中に留まるからだ。
でも現実世界で過ごしていけばその衝動は薄れていく、能力を発揮したのがきっかけでその衝動に駆られる、若しくは駆られた後に快感を得る事はあるが引き戻せばいい。
僕の考えた設定だ、必ず引き戻せる。
「でも能力の使用を抑えて、ごく普通の生活を送っていれば大丈夫。もし能力を使う時があったとしても、夕莉は自分の意思で人を傷つけようとはしない、誰かを守るために使うよ」
「……どうして分かるの?」
「僕は夕莉の事は夕莉以上に知ってる、彼女の力の事も彼女以上に知ってる、それだけさ」
「……何者なのか、本当によく分からないよなお前」
何者なのか、教えてあげたいけどきっと理解してもらえないだろうなあ。
「物知りな学生だよ」
「どこでそんな知識を?」
「……どこでっていうと、自分の部屋の机? あとは想像?」
「お前、頭大丈夫か?」
大丈夫じゃないかも。
「まあいい、どこで得たかなんて。お前の知識が正しいならばそれで、いい」
あまり納得はされていない様子だったが、僕が喋りたがらないのを察したと思われる。
「しばらくは監視下にある、自分達の立場を理解して動くといい。あたし達を敵か味方かにするかはお前達次第だ」
「分かってる。ただ、君達魔術師が夕莉を拘束しようとか、飼い慣らそうっていう考えなら僕は君達の敵になるよ」
その時は、僕の唯一武器となるこの物語の設定、憶えている事全てを使って立ち向かおう。
「あたしはそんな気はない、てか殺したい」
「抑えてくださいお願いしますっ」
それとその殺意に満ちた瞳をどうか僕に向けるのは止めていただきたい。
「あ、そうそう。あとはもう一人の異術師がいるだろう?」
「ああ、ブラウ?」
「ブラウっていうの? 名前は別にどうでもいいけど、そいつね、街で食い逃げしまくってるとか」
……ニュースにもなってたね、あの人は何をやってるんだか。
夕莉を捕まえる任務はどうしたんだ。
「街で奴を見た監視員は、奴の様子が変だったってさ」
「変?」
「詳しくは知らないわ、度々お前の様子を遠くから窺ってるらしいの」
どこからか感じた視線、気のせいではなかったようだ。
問題は彼女が次にいつ接触してくるか、不安の種は尽きないな。
「魔術師側、特に上層部は動けずにいるけどチャンスがあればあいつをどうにかしたいって考えなのよね、既に一人殺されたから」
「えっ? こ、殺された?」
「最近、ニュースになったでしょう? ニュースは見ないほう? 全身を虫に食われたっていうえげつないニュースがあったんだけど」
「あっ……」
一言漏らすと同時に、ブラウと遭遇したその日、昼休みに生徒達が話していたのを僕は思い出した。
……そうだった。
あれはブラウという敵がどういう奴かを読者にそっと教えるために通りかかる生徒の会話を使って話させて主人公もそれを聞いてちょっと興味を持つ布石の役割だったが、もう一つあった。
その裏で、事件はブラウと魔術師との戦闘であり魔術師がブラウに殺された事件、というもの。
自分で書いた物語なのに、先は思い出せないわ過去は忘れてしまうわで僕は本当にどうしようもない作者だな。
「そいつもそいつで命令を無視して異術師に襲い掛かったのが悪いんだけどね。あたしはそいつ嫌いだったから別にいいけど、なす術もなく肉の塊にされて危険指定は最高値、天元夕莉と違って警戒態勢は別ものよ。どっちも同じようにすればいいのに」
異術の力としては夕莉は異術師の中でも最高位なので危険指定の最高値を受けるべきは夕莉なのだけれど、言わないでおこう。
どんなに強力であっても本人がそれを使わなければいいだけの話だ。
夕莉には身を守る時以外は力を使わせず、力を完璧にコントロールできるようにさせて魔術師達に無害を強調したいね。
「夕莉は、誰も殺さないよ」
「そうだといいけど。正直魔術師でも異術師でもないお前があいつと一緒に行動してるなんてねえ、不思議でならないわ」
「不思議?」
「化け物じゃない、あんなの」
その言葉に、僕は少し怒気を込めて言葉を返した。
「夕莉は、そんなんじゃないよ。絶対に」
そうかしら。
彼女は、小さく呟いて席を立った。
そうだよ。
僕は、心の中で彼女に返答し、怒気を鎮めた。
「ま、いいわ。ブラウとかいう奴は近いうちに魔術師側で対策を考える……が、お前からは何かいい案は?」
「うーん……そうだなぁ……」
ブラウの異術は強力だ、虫がいなくとも虫を生成して攻撃できるので苦手な場所も無く、拘束しても虫を使って逃げられるだけ。
「殺虫剤?」
「……そう」
大きなため息をつかれた。
一番の対策は異性がブラウにキスする事だよ! って言える? 言えないね。
思い出しただけで顔が火照ってくる。
「お前はブラウと天元夕莉を近づかせないように努力して。あと助けが欲しければ近くにいる魔術師っぽい奴に話しかければいいわ、監視員が必ずいるから」
「監視されてるけど、助けにもなるってのは複雑な気分だ」
「我慢して、それにこの街は夜の監視や見回りは厳しいから夜の襲撃の心配も無く安心して眠れるわよ。ありがたく思いなさい」
「ありがとうございます」
感謝しておく。
「あと、ここ」
彼女は手を動かしたくないらしく、まあそりゃあその体の怪我の具合から動かしたくないに決まっているが、自分の胸ポケットへと瞳を動かした。
「取って」
「何?」
「折り畳んだ原稿用紙、入ってる」
よく見れば胸ポケットに窮屈そうに紙が挟まっていた。
原稿用紙を無理やり胸ポケットに収まるようにした雑な折り方だった。片手で折ったのかな。
左手では右ポケットに原稿は入れづらく、左ポケットは何か入っているようで使えず、仕方なく胸ポケットに入れたようだが、彼女のふくらみのある胸に原稿は更なる窮屈さを強いられていた。
僕は、それを取らなければならない。
「し、失礼します」
震える腕、右手、指、親指、人差し指、中指。
触ってはいけない魅力的な弾力を前にして、僕は原稿だけをその三本の指で挟む事に成功して、ゆっくりと抜き取った。
「この原稿は、誰から……?」
「さあね、顔を隠してたから分からないわ。声は女だったけど。知り合い?」
僕は首を横に振った。
――上位魔術師かしら、と彼女は小さく呟く。
伝える事は全て伝えたようで、じゃあね――と一言僕に言って彼女は踵を返した。
彼女の背中に、またね――と僕は投げた。
……女か。
原稿を彼女に渡した人物は、一体何者なのだろう。
僕の書いた物語では絶対にこの不思議な原稿を人に渡すような登場人物はいない、困ったものだ。
こういう場合、物語を考える上で素性が分からない敵、黒幕は大抵が――
生徒会長。
教師。
それに、クラス委員長の三つが疑わしい。
あと共通するのは主人公と接点のある生徒、かな。
これらから疑わしいのは誰だ?
先生なら戸塚先生?
生徒会長……は、入学式や学校行事の時に何度か目にした記憶はあるが名前すら憶えておらず接点も無い。
クラス委員長は榛名さんだ、何度も僕らと話をしていて登場回数は多い。
先ず生徒会長は、抜かそう。流石に今後も絡みは無さそうだ。
先生は、どうだろう。いやあ、どうだろう? どうだろうなあ、分からない。
榛名さんは、うーん。
結局。
分からない。
考えるのを僕は一度止めた。
教室へ向かうと夕莉は榛名さんと話をしており、二人ともとても楽しそうだった。
こういう場面は苦手だ、入りづらくて。
僕の人生で女子生徒らが会話しているところへ話しかけたのは二回しかない。
先生に呼ばれてるよ、と小学校の頃に言った時と、高校に入って物語によって変わる前の榛名さんに貸したノートの行方を聞いた時くらいだ。
ちなみにその時榛名さんに貸したノートは行方不明、悲しい。
ここで様子を伺っていても仕方が無い、特に何かされるわけでもないのだから、気にしないでいこう。
中に入ると二人の視線を浴びて僕は少々ぎこちない笑みを浮かべて二人のもとへ。
夕莉は僕を見て嬉しそうに帰る準備を始めた。
君って奴はさ、一つ一つの仕草が可愛らしくて卑怯だよね。
「おや、恋人がいらっしゃいましたね」
「こ、こ、恋人、だなんてっ」
「えっ? 違うのですか?」
「妻です」
「あ、あ、あわっあわわっ、明人っ!」
顔が見る見るうちに真っ赤になっていく夕莉。
とても楽しい。
夕莉は席を立って僕の肩をぽこぽこ叩いて、叩き終えるや早足で教室を出て行った。
「さて、帰りますか。榛名さんは?」
「私はまだやる事がありまして、少々夕莉さんと会話が弾んでしまってすっかり忘れていました」
「その資料、クラス委員長の仕事?」
「はい、そうですね。先生に資料のコピーを頼まれて、コピーは終えたのですが、夕莉さんとお話をしていたので提出が遅れてしまいました」
彼女の右手には束になった紙、問題用紙か何かだろうか、細かな文字がA4サイズの大きさの大半を占めていた。
ついうっかりと言いたげに、榛名さんは微笑みを浮かべて頬をその細い指でぽりぽりと掻く。
「なら急がなきゃね」
「はい、急ぎますっ」
榛名さんを見送るとする。
廊下を走るまいと決して駆け足では行かず、やや早歩き。
軽く頭を下げたので僕は小さく手を振った。
榛名さんはクラス委員長、だからといって黒幕とは決まったわけじゃない。
何一つとして証拠も無い今は、彼女はクラス委員長である――のみ頭の中に留めておく。
ごく普通の、生徒だ。
……生徒になった――が正しいか。前はごく普通とは言いがたい、漢字で称号を与えるとしたら自由奔放か唯我独尊、若しくはそれら二つを足したもの。
ほんの数日前はそうだったのに、懐かしささえ抱いてしまうね。
ただ、一つだけ疑う要素はある。
それは、彼女だけが唯一僕の書いた物語を読んでいた事だ。ほんの少しではあるけどね。
今のところ、疑わしくはあるが問い詰めようにもどうすればいいのか分からない。
帰路について、いつもより少々遅い時間の帰宅だったが社会人の帰宅ラッシュの時間帯でもあるので人気は十分。
「魔術師はしばらく君を監視するのみにするらしいよ」
先ずは、彼女の報告すべきはこれだ。
「えっ、ほ、本当?」
「うん、だから安心して」
夕莉はほっと胸を撫で下ろて安堵のため息。
校門を出てからは周囲に視線を振りまいて落ち着きが感じられなかったから、不安の蓄積はよほどだったようだ。
「問題はブラウかな」
それを聞いて、悲しそうなため息。
「ま、まあ……あれから人気のある場所ばっか通ってるしブラウは学校や家を襲ってもこないようだから、すぐに襲ってはこないと思うけど。それに魔術師が夜は見回りをしてるから、夜は安全だよ」
監視されてるのは伏せておく。
「で、でも、魔術師が襲う可能性も……」
「無きにしも非ずだけど、先ず襲おうとはしないと思うよ」
「ど、どうして?」
どうしてって、そりゃあ……ねえ?
そんなに不安そうな目で見られても、困るな。
「君は強いから」
「そ、そう?」
あっ、ちょっと口元がふにゃりと動いた。
蝋燭のように小さかった自信の火が徐々に大きくなっているみたいだ。
「僕よりもずっと強い、もうめちゃくちゃ強いよ!」
「ふ、ふふっ」
「なんたって旧校舎を木っ端微塵にするくらいだからね!」
「はひっ!?」
自分のした事を思い出して夕莉は縮こまる。
凹む君も可愛らしい。
慰めるべく頭を撫でるとする。
本当はそのさらさらな髪に触れたいだけだろって? そうだよ。
「今日はどうするの?」
しばらく歩数を重ねた後に丁字路にて。
どうするの? は僕の家に泊まるか否かの意味を込めている。
「摂理さん、しばらく家にいられるから、今日は大丈夫」
「そっか」
残念、今日も泊まっていけばいいのにとか思ったり。
しかし摂理さん、どういった設定にしたのかあまり憶えていない。
夕莉の母の知り合いで、えーっと、結構な力を持ってたんだったっけ、彼女がいればここら周辺は安全、僕も安全――みたいな。
「あの、摂理さんはね、私もよく知らないけど……私を守ってくれる、強い人なの」
「そうだね、確かそんな設定だったかな」
「設定?」
「あ、いや、こっちの話」
魔術師とも繋がりがあったかな? 設定を書いた記憶はあるも後付けで追加したのが悪かったな、殴り書きで設定なんて考えて書くもんじゃない。
変な登場人物になってなければいいけど、彼女の不安が感じられない表情を見る限り大丈夫だとは思う、思いたい。
一応家まで送って僕は、アパートに入る夕莉を確認して、摂理さんを一目見れないかなと二階の階段を上がって扉を開けて、中が少しだけ覗ける角度で粘るも結局見れず。
僕は自分の家へと向かい、原稿が落ちていたりしないかと地面へ視線を配りながら帰り、自宅にたどり着くや家に入る前に僕は空を見上げた。
次は何が起こるんだろう。
橙色の空に答えを求めたところで、空は何も答えてはくれない。それは分かっている。
もはや物語は作者を置き去りにして一人歩きしてしまっている、だからこそ僕は、不安と恐怖を感じざるを得なかった。