二ノ肆
振り返るとすぐそこには獣。
「――わっ!」
咄嗟に木刀を向けるが一瞬でそれは粉々に砕かれた。
何をしたのか、獣を見ると拳を握っていた――否、何かを掴んでいた。
拳を開くと木刀の破片と思しきものが床へと落ちていく。
見えた?
全然。
まったく。
見えなかった。
時間が経つにつれて暗くなっていく廊下、光が差し込みにくく周囲の影に溶け込んでいきつつあるので獣の形を捉え辛いのもあり、風圧が遅れて流れてくるほどの速さ。
下手すれば僕の両腕が持っていかれていた。
少しでも僕が両手を高く上げて構えていれば獣の握っているものが、僕の両手だったであろう。
冷や汗が、全身から噴出した。
武器とはいえなくなった木刀を床に落として、僕は後ずさり。
「あ、明人!」
声が、出なかった。
唾を飲んで、目の前の獣に臆して、見たくもないのに交差する獣との視線を逸らせずにいた。
先ず、人間が獣に勝てるか?
それもただの獣じゃない、相手は僕の想像によって作られた獣だ。
現実ではありえない巨躯、攻撃力なんてただの獣の目じゃない。
しかも魔術で動いているから魔力が切れるまで疲れを感じない獣だ。
そんな相手に、勝てるか?
獣は再び腕を上げた。
振り下ろされたら僕はきっと人形のように飛ばされて、壁に叩きつけられて、血に塗れて倒れる。
避ける? 無理。
もう、駄目だな――なんて思った瞬間、
――パンッ。
頬に痛みが走る。
「しっかりして!」
夕莉は僕に覆いかぶさるようにして、後方へ勢いよく飛び込んだ。
壁を削る音と共に、僕のいた場所は粉塵を生じる。
倒れこんだ。
思考が、少しずつおいついてきた。
気がつくと、仰向けの僕に夕莉が乗っかっていた。
「死んじゃうの!」
「あ……」
「何か、しないと、死んじゃうの!」
彼女は、強い。
僕よりも、ずっと、心が強い。
諦めていた僕と、諦めずにいた夕莉。
彼女のおかげで僕は今も生きていられている。
僕達は立ち上がり、粉塵の中でこちらをじっと見つめる獣を見つめ返した。
「ありがとう、助かった」
「諦めちゃ、駄目」
そう、そうだね。
粉塵がゆらりと動くと共に僕達は再び走った。
近くには階段、助かった!
くの字状の階段ならあの巨躯では上るには苦労する。
駆け上がると、案の定獣は肩が突っかかり、寸前で振りかかるその爪から逃れた。
届かないと感づくや爪を伸ばしてくきて危うかった。
我ながら、恐ろしいものを想像してしまったな……。
軋む音からして、下手すれば壁を壊して上がってくる。
夕莉は壁に手を当てて具現を行い、壁の強度を上げていた。
それでも軋む音は止まず、時間稼ぎにしかならないのを悟ると次は、
「重いもの、丸いもの……」
「鉄球?」
「うん!」
両手を上げると彼女の手から光が放出され、ダイエットなどでよく使われるバランスボールほどの大きさと形を成して、黒い鉄球が出現。
一つ、二つと作って獣に投げ込んだ。
獣は鉄球を手で弾くが、鉄球の強度は確かなもの――獣の手が黒い煙と化して床に落ちていった。
その煙は周囲の影へと吸い込まれるように寄っていき、影と同化。
「やった!」
「まだ、まだだよ」
僕は分かっていた。
気休め程度だったと。
周囲の影が揺らめき、獣の失われた手へと再び煙と化して寄っていったのだ。
「あれは……?」
「多くの影がある限り、ダメージを受けても影で回復できるんだ」
「影を光で消せば、どう?」
「無理だ、あれは消せない」
まるで数学の難問にでもぶち当たって公式が思い出せずに苦戦しているような夕莉の表情。
立ち止まっていても仕方が無い。
二階の廊下へと出て、再び僕らは走った。
二階の窓も木材によってさえぎられていた、壁にはやはり御札。
逃げ道を探しても見つからないだろう、何気なく天井を見てみるといくつも御札が貼られていて徹底しているのが見て分かる。
このまま走って奥にあるであろう階段を下りて、微影さんの後ろへと回りこめるかな?
……回り込んだとして、策は何も無いが獣を相手にするよりはに直接戦いをしかけたほうがまだ勝算があるってものだ。
廊下を走っていると、獣が追ってこない事に気づいて僕は足を止めた。
「どう、したの?」
「……追ってこない」
「すぐ、来るかも」
階段から上がってくるような音はしなかった。
壁を削る音は確かに聞こえてはいる、階段の方向ではないが。
ならば、どこから?
――ベキン。
その音と同時に、そして唐突に、僕達は“落下”した。
一瞬何が起きたか分からなかったが、気がついたら背中の激痛と共に、また廊下。
……一階の、廊下だ。
ぼんやりとした視界、立ち上がるもふらついてうまく歩けず、痛みに顔を歪ませた。
夕莉はすぐ近くに倒れていた、出血も無く無事だ。
――が、目の前には獣が立っていた。
二階から引き摺り下ろされたのだ、僕達は。
「おかえり、まさか目の前に落ちてくるとは思わなかったよ。廊下を上がって回り込もうとしていたのかい? 浅はかだな、実に、浅はかだ」
目の前には微影さんがいた。
持っていた本を閉じて、彼女の隣にいる獣の腰に手を当てて軽く撫でていた。
気がついた夕莉は獣を前に言葉を失い、立ち上がろうとするも落下によるダメージが効いているらしく中々立ち上がれない。
「待っているのも退屈だ、もういいかな。殺しても」
僕はすぐに駆け寄ろうとするが獣は口を開いて、噛み付きにかかった。
「夕莉!」
間に合え――!
後先考えずに僕は飛び出した。
獣に、そのまま真っ直ぐ、僕は突っ込んだ。
「――ぐ、うぁ……」
ぐしゃりっていう音を、はっきりと聞いた。
肉がつぶれる音? さあ、どうかな。
僕はこのぐしゃりって音を、漫画や小説などでよく目にはしていたが、こうして自分の耳で聞いてみると確かにぐしゃりは正確な表現だ。
物語の主人公である颯太が影の獣に噛み付かれてぐしゃり――となる展開は、書いた記憶が無いが、そういう展開をもし書くとしたらこのぐしゃりは使うだろうね。
まあ……生きていられたらの話だ。
次に、骨の折れる音と砕ける音が僕の思考をめちゃくちゃにしていった。
口の中に広がる血の味、続いて吐血。
激しい痛みが全身を駆け巡る。
まだ意識があるのが辛かった、不思議だった。
「明人――!」
獣は僕の体に食い込む牙を離し、平手をかまして僕は壁に叩きつけられた。
鮮血を撒き散らして、僕は倒れこむ。
夕莉は僕の傍へと駆け寄った、今にも泣きそうな、目に涙を溜めたその表情――ああ、僕のヒロインはこんな表情をしても可愛い。
とか、思ったりして。
すると夕莉は、獣へと視線を移した。
表情が変わった、怒気に塗れたその表情、夕莉は怒っている。
彼女の力が見れる。
本気になった夕莉の具現が。
物語の設定を書いている時は想像をフル稼働させていたあの、力が。
ただの具現ではない。
今までの具現ではない。
これから発動する彼女の力は、何もかもが違う。
獣は何かを察知したのか、夕莉に唸り声を上げた。
夕莉はすっと立ち上がって、両手は下がったままだったがその手からは光があふれ出していた。
光は床へ、床から更に広がっていく。
僕の体にもその光が流れ込み、包まれていった。
壁に光が包まれていくと、壁に張られていた御札は激しい炸裂音と共に弾けて壁から離れ、床に落ちていった。
光は天井をも包み込み、獣は周囲の異変に戸惑いを見せていた。
僕はさっきまでの痛みが消えていくのを感じ、ぼやけた視界もはっきりとし始めていた。
夕莉の具現の力、その応用によって傷が治っていってるのだ。
しかしすぐには動けず、目の前で起きる光景を今は見るのみ。
周囲の光は植物が生えるように伸びて形を成し始めていた。
それも十、二十と恐ろしいほどに増えていく。
最初は青白かった光は黒くなり、廊下は形を成し終えたものが――人とは言えない異形の、骸骨の顔をしたものが溢れていった。
廊下だけじゃない、天井からも骸骨達は突き破って隙間から沸いてくる蟻のように増えていく。
大きさは大中小様々で獣を見ると四方八方から襲い掛かった。
獣は腕を振るうが、振った先には骸骨の口、全てが食らいついて一瞬で腕が無くなった。
ミツバチはスズメバチを包み込んで熱殺する、いつだかテレビでそんなのを見たがそれと同じような光景が目の前で起きていた。
包み込まれた獣は見る見るうちに小さくなっていく。
近くの影へと同化する前に、獣の影を残らず食べていく骸骨達に獣はなすすべも無く食い潰されていった。。
そんな中、近くで新たに生まれた骸骨が僕へと寄ってきた。
僕も敵と思われた? それは、ちょっとまずいな……。
でも、気になるのはその骸骨の服装。
白衣を着ていたのだ。
更に新たに生まれた骸骨は看護婦のような服装。
二人と呼んでいいのか、二体と呼んでいいのか定かではないが獣を食っている骸骨達よりは人間の体形を保っているので二人と数えよう。
「心配しないで」
夕莉は僕を見て、穏やかな表情で言う。
もう怒気は消えうせていた、彼女のその表情に僕は落ち着きを取り戻していた。
骸骨らは僕の体をまじまじと見て、傷ついているところを見るや床に残っていた光を救い上げて僕の怪我した部分へと塗ると、傷口は見る見るうちに消えていった。
治りの遅い重症部分は骸骨達が自ら施してくれて急速に治療してもらえる――そんな設定を書いた記憶があったな、忘れていたよ。
治療を終えると骸骨達は床に沈んでいくように消えていった。
「これが……一人軍隊と呼ばれる所以か……」
獣が食い潰された廊下の奥、微影さんは唖然として骸骨達で埋め尽くされたこの光景を見ていた。
骸骨達はじっと彼女を見つめた。
骸骨達の中にも隊長など役割を持った者はいる。
鎧で身を纏っているのもいれば、豪華な椅子に座って偉そうな態度の骸骨もいる。
その骸骨は狭い空間が不服なのか、左右の壁と周囲にやや窮屈ながら並ぶ骸骨達を見てため息をついたような動作をしていた。
肺が無いのでため息なのか分からないが。
そんな隊長格の骸骨達は、しばらくして夕莉へと視線を送っていた。
命令を待っていたのだ、目の前の敵を倒す命令を。
「化け物め……!」
彼女は床に手をついて、影を再び出そうとした。
「世界のためじゃない、魔術師のためでもない、あたしのために死んで!」
彼女の目の前には巨大な円形の紋章が浮かび上がり、黒い影を纏わせて――魔術をエネルギーとして影の砲弾を作っていた。
あれは策がなくなった時に彼女の最後の強力な攻撃方法として僕が設定した魔術だ。
この建物なんて簡単に吹き飛ばせるほどの威力がある。
逃げなくては――!
「ゆ、夕莉!」
避難をしなくてはと彼女を呼んだ。
「あの、骸骨さんが、何とかしてくれるっ」
夕莉は冷静だった。
骸骨達は忙しそうに床から――青白い光から何かを取り出していた。
ものすごく大きい、まるで大砲だ。
そう――大砲だ。
骸骨達の使える武器の一つ、その中でも飛び切り強力な武器だ。
書いた記憶があったな、今それを使うとは思わなかったが。
「夕莉、それ、使った事はある?」
一つ、心配事がある。
「……無いよ? どうして?」
その武器、恐ろしいほど強力であると僕は設定した。
微影さんの今やろうとしている魔術はこの建物を吹き飛ばせるほどの威力を持っているが、こいつらの大砲はここら一帯を吹き飛ばせる。
やめたほうが――僕は止めようとするも、骸骨達は点火。
「吹っ飛ばしてやるよ化け物共があァァァァア――――!」
お互いに、鼓膜を激しく刺激する爆発音。
僕達は耳を塞ぐ余裕もなく、風圧で体は押され、エネルギーとエネルギーとの衝突によって生じた爆発は、更なる風圧を巻き起こして周囲一帯を粉微塵に吹き飛ばした。
一瞬、周囲は真っ白となり、気がついたら僕は橙色に染まる空を見ていた。