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一ノ壱

 授業中、僕はいつも考える。

 ノートはきちんととっているが、授業を真面目に受けて授業内容について考えているのではない。

 ノートの下には、別のノート。シャーペンが優雅に走るのはそのノートのほうが多い。

 何をしているかというとそれは授業とはまったく関係の無いもので、皆にはなるべく見せたくはないもの。

 別に疚しい事をしているのではないが、ちょいと見られるのは恥ずかしい。

 座席は前から三番目、教室のど真ん中の席なので人の視線が気になる。

 しかしながらどうしてこうも、“これ”に没頭してしまったのか。

 ああ、そうだ……。

 子供の頃に、母さんが気まぐれに書いた小説を読んだ事がある。

 面白い物語だった、主人公がヒロインと共に多くの怪物に立ち向かっていく、ありきたりな物語ではあったけど、主人公の天喜颯太てんぎそうたは僕の心を刺激して、僕は惹かれていった。

 ――彼と、小説というものに。

 それから趣味で始めた小説、いや、ライトノベルのほうが正しいかな? 兎に角だ、物語を書くというのは楽しいって事。

 最初は誰にも読ませるつもりもなく、母さんにも読ませた事は一度も無い。

 僕が物語を書いてるのも母さんは知らない。

 物語を書くのはずっと続けている。

 中学校の時には入学祝いで買ってもらったパソコンでそれは更に加速。

 インターネットは素晴らしいね、調べたい事を検索するとすぐに出てくる。

 おかげで様々な知識を得る事が出来た。

 更には小説の投稿サイトを見つけてそこでもちまちまと書き始めもしたり。

 特に取り上げられる事も無く、読んでくれる人はいるのかと思うくらいに感想も無かったが、僕は自分の思うままに書けているだけで楽しかった。

 最初は結末すら考えずに書いて、行き詰って書けなくなって結局小説を消してしまったり、後先考えずに無茶苦茶な設定にした結果、収拾がつかなくなってまた消したりの繰り返し。

 自分は小説を最後までちゃんと書けるのだろうか、書くのは楽しいけど自分には向いていないのかもしれないと思う事もあった。

 一度書くのを止めた時もあったけど、高校生になった今も僕はこの趣味を続けていた。

 内容がどうであれ、僕が作った登場人物を僕が作った物語で自由気ままに動かすのは最高だった。

 書いているうちに、この登場人物はこの後こうするだろう、この時はこう思うだろうと、書いているうちに文章も多くなり、登場人物が勝手に成長していくような感覚、何よりも楽しかった。

 何も無いとこから物語を考えるのも、展開や続きを書くのは苦しいと思う時もあった。何度も何度も書いてはやり直してを繰り返したが、書き終えた時の達成感……たまらないね。

 創作という素晴らしさを一度味わうとやめられない。

 高校に入学して一ヶ月が過ぎた今も、続けていられている。

 今後もきっと僕は、趣味として書き続けるだろう。

 しかし時に人というのは上を目指してみたくなるものだ。

 だってそうだろう?

 コンテスト、新人賞、そのような文字を見るたびにどこか心揺さぶられて一度は挑戦してみたいと思うはずだ。

 今年の僕はちまちまと休日を使って近くの本屋から取り寄せてもらうよう頼んだ原稿を購入して、この時のために万年筆も用意した。

 まったく……今思うとくだらないかなとは思ったが万年筆を握り締めているとモチベーションが高まる要素の一つとなって筆が進む。

 パソコンを持ってるのならばパソコンで書けばいいと、本来ならばそれが手っ取り早いけれど、自ら原稿に万年筆で書くくらいに気合が入っているという――言ってしまえばただの意気込みが勢いづけた結果なのだ。

 授業が終わったら家に帰って早く万年筆を握りたい。

 僕の一日で最も楽しみしているのはそれだ。

 しかし、趣味に没頭しすぎてよろしくない事が一つ。

 よく一人で物語りについて考え事をしているからか、今のところ友達はまったく出来ていない。

 中学の頃には仲のいい友達はいたが同じ学校に進学せず、クラスでは不幸にも同じ学校の生徒もいないために一人ぼっち。

 話し相手くらいはいる。


「おーい明人あきとちゃーん、ノート見してくんねー?」


 お隣さんの行儀の悪い姿勢でいる女子生徒。

 名前は榛名大河はるなたいが

 入学当初の髪の色は黒、入学して一週間後には金髪。

 ピアスをするわエクステ? とかいうのをするわ、化粧ばっちり、アクセサリーはじゃらじゃら、授業中に隠れて携帯電話を見たり居眠りしたりとやりたい放題。

 居眠りした時は毎回僕のノートを求めてちゃっかり授業には遅れないようにしていて中々のやり手だ。

「はい、どうぞ」

 拒否すると非常に厄介。

 叩かれるし罵倒されるし仕舞いには分身かと言いたくなるほど似た格好の生徒を召還して全員で精神攻撃。

 そうされた生徒が一人いたおかげで、彼女に逆らおうとする生徒はこのクラスにいない。

 窓側でため息ついている疲れてますと言わんばかりのクラスメイトの二の舞になりたくないので僕も従うしかない。

 先生ですら注意できずにいて、聞くに彼女の父親は学校に強い立場の人らしく、彼女を怒らせて父親が動けば自分の首が飛ぶ事になるとか。

「さんきゅー、明人ちゃん最高♪」

 お褒めの言葉ありがとう。

 体育の時間や休み時間に他のクラスメイトに時々話しかけられる事がよくあったな。

 ――お前、あいつの隣の席で残念だな。

 同情してくれるも僕には正直なところ、どうでもよかった。

 僕は物語を書いている時や考えている時の周囲への興味はまったく無くなる、隣で耳障りな大笑いをされようが携帯電話で音楽をじゃんじゃん鳴らそうが僕は頭に入ってはこない。

 だから何も感じない。

 僕が気をつけるべきなのは彼女を怒らせない事、何事も無く過ごせればそれでいい。

 友達ができない原因はもしかしたらあまり席を立たず、結果的に榛名さんと一緒にいるような状態が多いからかな。

 ……まあ、それもどうでもいいか。

 放課後になると、実にほっとする。

 これから家に帰ってただ只管に書くだけ。

 なんて思ったのに、先生に呼ばれて出鼻を挫かれる僕。


「最近の学校生活はどう?」


 担任の戸塚とつか先生は心配そうな目で僕を見つめていた。

 何故、そんな目をしているのかが僕には少々疑問だ。

「別に、何も問題は無いですけど?」

「本当に?」

 先生も独身生活のほうはどうですかね、そろそろ三十路が見えてるのでそっちの心配をしたほうがよろしいんじゃあないでしょうか。

 って言ったら怒られるかな? 怒られるな、殺されるかもしれないな、やめておこう。

 綺麗な人なのに何故相手がいないのやら。

「何故そんな質問を?」

「その……榛名さん、いるでしょう? 困ってるんじゃないかと思ってね」

「特に困ってはいませんよ」

「そうなの? いじめられたりしてない?」

 僕はいじめられるような生徒に見られてたのかな。

 確かにそりゃあ身長も高くなくどちらかといえば口数は多くない、おとなしい生徒に分類されるけど何故口数が少ないのかは考え事をしているだけだ。

 物語を常に、考えているだけなのだ。

「何かあったら相談してね」

「分かりました、何かあったら相談します」

 何も無いと思うがね。

 榛名さんは怒らせなければいいのだろう? ならば簡単だ、何も考えずに対応すれば言いだけの事だ。

 僕は職員室を出て、ため息をついてから足を進めた。

 一度教室に戻ると、すっかり生徒がいなくなって閑散とした教室の中に榛名さんがいた。

 僕の机に腰掛けて、せめて椅子に座ってほしいなと彼女を見ていると何か持っている事に気づいた。

 ノート、だけどいつも彼女に渡しているノートではない。

 別の――僕の物語の展開や設定が書かれているノートだ。

 物語を書きかけの原稿用紙も何枚か挟まっている、他人には見られたくないものだ。

「榛名さん……?」

「明人ちゃん、変な趣味してんねえ」

 ノートと僕を交互に見て、榛名さんは笑顔で見ていた。

 整った顔立ちから生み出されるその天使とも言える笑顔、中身は悪魔なのが残念。

「あのぉ……そろそろ帰るから返してくれない?」

 頬が熱い、見られたのが恥ずかしくて。

 すぐにこの場から離れたい。

「小説? この原稿用紙見るとそういうもんだよねー」

「まあ……」

「大まかな流れ? みたいなの書いてたからさあ、ノートちょっと見てたんだあ、暇だったから」

「そうですか……」

 鞄を取って、僕は手を差し出してノートの返却を求めると彼女は素直に応じた。


「あのさあ……何か面白くねー。もうちょっと鬼やばい話を書いたほうがいいんじゃね?」


 鬼やばい? めちゃくちゃすごいみたいな?

 それより彼女の感想には納得できない。

 シナリオの構成を書いた物語のあらすじ――プロットをノートには書いていたが、話の全体が詳しく分かるようには書いていない。

「これはなんていうか、ちゃんとしたものじゃなくて下書きみたいなのでね」

「これだけでも分かるっつうの」

 ……ショックだ。

 実は家にこの話を最後まで書いたものがある。

 最近はちょっとした設定の追加やシナリオの悪い部分を修正するべく忘れないようにノートに書いていたが、少なくとも最初に書いたものよりは面白くなったと思っていた。

「なんかさー、退屈っていうかねー」

「……そう?」

「てか設定? 能力? ってやつがださいわー。ヒロイン強すぎじゃね? 設定読んだけどあれは無いわー。あと登場人物さあ、みんな変な名前だよねー」

 心臓をナイフで直接突かれてる気分。

「原稿用紙の右上の数字はページ数? もしかしてさー結構書いてんの?」

「……うん」

 原稿用紙は家の机の上に何十と積み重なっている。

「全部書き直ししたほうがよくね? つまんねーよ」

 ……泣きそうっ。

 いいや待てよ、彼女は僕の原稿はまだちゃんと見ていない。

 プロットは所詮プロット、彼女が読んだ原稿用紙もただの一部。

 現時点でつまらないと言われても気にするものではないさ。

「……考えとく」

 気にしない気にしない。

 教室を出た後に僕は職員室を出た時よりも深いため息をついた、結局気にしてた僕。




 次の日の朝になっても、彼女の言葉がはっきりと心に残っていた。

 朝から、休日だと喜ぶ事もなく落ち込んだままの起床。

 しばらくだらだらと朝食を食べたりテレビを見たりして、ようやく僕は自分の部屋へ。

 実は昨日、榛名さんの言葉が突き刺さって何も書けなかった。

 心と体を休めてぐっすりと眠ったので少しは楽になった、気休め程度ではあるが指は動く、今なら書けるな。

 僕は万年筆を握った。

 この万年筆、売っていた本屋の店主によれば実はすごい力を持った万年筆なんだよとか言っていたけどそれにしては二千五百円はすごい力って言葉が泣いてるぜと思ったり。

 クーラーをつけた室内は最適、最高、最良な環境だった。

 おかげで原稿の束に、原稿は一枚二枚三枚と積み重なっていく。

 これこれ。

 パソコンなら早く済むし楽だ。

 けれどこうして自分の手で書いて原稿用紙を積み重ねるのが僕は最高の達成感、満足感を得られる。

 書き終えるまであと少し、今日中に終わるな。

 榛名さんに昨日言われた事が頭の中でこだまするが、僕はそのたびに一瞬だけ目を閉じて無心になって、目を開けると同時に筆を進めるの繰り返し。

 持ってきたジュースを飲むのも忘れて書き続け、時間が経つのは早く、いつの間にか昼過ぎに。

 夢中になりすぎたかな。

 そんでもって、書き終えた。


「……駄目だなあ、何か面白くない」


 書き終えて、榛名さんと同じ感想を僕は抱いていた。

 満足感による喜びも、達成感による喜びも無く、落胆しかなかった。

 原稿は半年ほどの時間をかけて二百枚以上は書いたと思う。

 書いていたのは現代に退屈に生きる平凡な高校生が異質な存在と遭遇したり、ヒロインが現れて巻き込まれたり……っていうお話。

 子供の頃に、最初に僕が考えた物語だ。

 なんて面白いものを考えてしまったんだ! と、思っていたのは幼い頃の僕。

 あの頃の記憶を思い返して書いたものの、書き終えても当時と同じ感情は抱いていない。

 きっと書いていれば面白くなるかもとか浅はかな考えだった。

 僕はため息をついて暫し原稿を見続ける。

 榛名さんの言う通りに、全部書き直すか……?

 題名すら付けていない、この物語。

 書き終えて、納得のいく出来なら題名をゆっくり考えようと思っていた。

 悩んだ末に、原稿は机の引き出しに放り込んでベッドへ横たわった。

 しばらくだらだらと過ごすのもいいかもしれない、気分転換すれば面白くないと思った何かが分かるかも。

 原稿用紙は余分に買っておいた、書き直すのも十分な枚数はある。

 父さんは単身赴任、母さんは今日明日と家を空けると言っていたので二日間、この一軒家は僕の城だ。

 一人っ子なので誰にも邪魔されない二日間、嗚呼、素晴らしすぎて笑みが浮かぶ。

 今は気分転換に昼寝でもしようかな。

 目が覚めたらまた物語の事を考えるとする。

 一度はどこでもいいからこの物語を投稿したいが、投稿する前からこうも行き詰ってはどうしようも無い。納得のいかないものは出したくもない。

 勢いで書いた結果、内容の薄い酷いものを作ってしまっただけだったのかもしれない。

 書いている時の物語っていうのはすごく面白くて楽しいのに、書き終わって読んでみると何か違う、不思議なものだ。

 難しい、しかし楽しい。

 どうしてもやはりまた頑張ろうって前向きに考えられる。

 飛び込むようにベッドへ転がり、僕はそのまま目を閉じた。

 ぶっ続けは流石に疲れた、今ならすぐに眠れるかもしれない。

 やってくるまどろみに身を任せて数分。

 重石でも乗せられたかのような瞼。

 目を閉じればすぐに夢の中。



 今は夢と現実の間、そんな気分。

 ぼんやりと、僕はベッドで自分の机を見ていると、何か白いものがやってきて、僕の机の前に立っていて……引き出しを開けているのか、白いものは煙みたいで何とか人型を保っているも分かりづらくてしょうがない。

 体を動かそうにも動かせなかった。

 ああ、もう夢の中なんだなこれは、と僕は視線を天井に向けて、また目を閉じた。

「この物語、どんなものなのか教えてもらってもいい?」

 何だろう、誰か近くにいる。

 その声――人間の声にしては妙なもので、複数の人間が同時にその言葉を喋ったかのようなやや気持ち悪い声だった。

「……ん」

 妙な夢だ、思考は結構はっきりとしている。

「気になるんだ」

「……主人公のヒロインが、特別な力を持ってる子で、その子を巡った争いの、物語だよ」

 簡単には説明できないなあ、知りたいのなら原稿がそこにあるから見ればいいのに。

 まあ、これは夢なのだからどうでもいいか。

「それで?」

「えっと……事故に遭うけど、ヒロインの力で助かって、その後は異術師っていう敵に襲われる……」

「次は?」

「次は……」



 ……どれくらい眠っていたのか。

 不思議な、長い夢を見ていた気がする。

 今も、夢かな?

 目が覚めたかのようで、まだ夢うつつの自分。

 頬が冷たい。

 クーラー……つけっぱなしだったな、クーラーの風が当たっている右の頬だけやけに冷たくて僕は寝相を変えた。

 二度寝もありだ。

 ベッドがひんやりして心地よすぎる。

 このまままた寝てしまおう、そうだ、そうしよう。

 明日はまた学校、心地良い昼寝なんてできやしないのだから今やれるならばやるべきだ。

 僕は一度目を開けたものの再び目を閉じる。

 

「……ちゃん」


 何だ……体が揺れる。

 聞き覚えの無い声もする。


「……きて」


 煩わしい。

 気持ちよく寝ている時に無理やり起こされるのは僕がされて嫌な事の第三位に入る。


「兄ちゃん!」


 目を開けるや、目の前にあったのは見知らぬ少女の顔だった。

「は?」

 思わず間抜けな声を出して、僕は口をあんぐりと開けた。

「兄ちゃん! 遅刻するよ!」

「……誰っ!?」

 僕の部屋に勝手に入って何を言ってるんだこの子は!

「誰って、るいだよ、兄ちゃんの妹だよ!」

「俺に妹なんているか!」

 兄ちゃん? 僕は一人っ子なのだからこんな可愛い少女が妹なわけもなくもし妹だったら今頃妹を兄ちゃん大好きっこにすべく計画を立てて成人するまで最高の家族生活を企てていたに違いないが、ありえない。

「酷い! お父さーん! お母さーん! 兄ちゃんが酷い事を言う!」

 部屋からどたどたと騒がしく出て行った、残念だが母さんは今日明日いない。

 何だったんだあの子は……。

 容姿を思い返していくと何故だろう……何か引っかかる。

 肩までかかるくらいの赤毛、つぶらな瞳に潤いのある唇、童顔……あの子をどこか知っている自分がいる気がする。

 気がするってだけで、どうかは分からないが先ず僕は自分の頬を抓ってみた。

「……痛い」

 現実だ、この痛みは。

 時計を見るや時刻は七時、カーテンが遮っている光の具合から朝の七時。

 まさか昼寝で朝まで寝てたと?

 いやいやそんな馬鹿なと時計を見るがどう見ても朝の七時。

 そうだとしたら最悪な休日の過ごし方をしてしまった。

 しかも目が覚めたら少女が僕の部屋で騒ぐわ、最悪な日曜日だ。

 てか……誰だったんだあの子。

 ……寝ぼけてはいない、よな。

 ちゃんと、僕は起きてる。さっきの痛みも現実。

 とりあえずあの子が何者なのか、問いただす必要がある。

 どうやってこの家に上がりこんだのかも、ね。

 新手の泥棒という可能性もあるな、一応警戒しておこう。

 僕は武器になるものは、とプラスチックのおもちゃのバットをクローゼットから取り出した。

 いつ使ったのかすら覚えていない、武器としては頼りないバットだ。

 部屋を出て首を左右に振って廊下を見る。

 誰もいない、すぐに階段を下りていったようだな。

 僕は階段を下りて、居間へと向かった。

 階段を一段、一段と降りるたびに何か鼻腔を心地良く刺激する香り。

 卵を焼く香り?

 母さんはいないのだから早朝にキッチンを使う人はいない、だとしたらあの少女が?

 ちょっと勝手に家に入り込んで僕の部屋に来て僕を起こしにくるわ、キッチンを勝手に使うわで何なんだあの子は!

 不法侵入の時点で警察沙汰だな、若いからってやっていことと悪い事があるんだ、覚悟してもらおう。

 僕は階段を下りると玄関には、

「起きたか、なんだそのバットは。早く朝ごはん食べなさい明人。今日も気をつけて学校行くんだぞ、行ってくる」

 父さんがいた。

 単身赴任中である、父さんが。

 しかも今、気をつけて学校に行くんだぞって言わなかった? 今日は日曜日なのに。

「え、あ、ああ、行ってらっしゃい……」

 行ってらっしゃい? と疑問系で言いたくなった。

 昨日にでも帰ってきた? いやいやまさか。

 なんだか……よく分からない。

 僕は居間に行くと、食卓にはあの少女が座っていて、頬を膨らませて待っていた。

 随分と余裕だな、それに何故頬を膨らませているんだこいつは。

「駄目でしょあんな事言っちゃ、何よそのバットは。あほたれ」

「……母さん!?」

 キッチンから片手にフライパンを持って顔を出してきたのは母さんだった。

 紛れもなく。

 紛れもなく、母さんだ。

 昨日今日といないはずの、母さん。

「何してんのあんた」

 母さんは僕の持っていたバットを奪い取って、頭に一打拳を食らわせてバットをソファに投げ込んだ。

 私こと最上下明人もがみしたあきとは現在混乱しております、これは二度寝が必要ですわ。

 先ほどの痛みは気のせいで、きっと僕はまだ夢の中。

 ベッドに飛び込んで眠れば現実に戻ってこられるはずだ。

「明人、聞いてるの?」

「え? 何が? てか、母さん、今日明日いないはずじゃ?」

「何言ってんの、寝ぼけてないで顔洗ってらっしゃい」

 何だ、何だこれは……?

 状況がまったくわからなくてついていけない。

 言われるがままに顔を洗って、歯磨きをして、鏡を見て僕は再び頬を抓る。

 ……痛い。

 夢じゃない。

 頭の中が真っ白だ。

 僕は食卓について、向かいに座ってまだ頬を膨らませてる少女をちらりと見る。

 当然のように食卓についている、普段は空席で誰も座らない席だったのに。

 名前はなんていったっけ。

 るい?

 はて、まただ。

 どこかで聞き覚え、見覚え? 頭の中でその二文字に何かが反応している。

 流れるに癒すと書いて流癒るい

 ――悪いものを流して癒してくれるような子に。

 どうしてか、僕は彼女の名前をどう書くのか、名前の由来も知っていた。

「……目が覚めた?」

「……あ、はい」

 彼女は実に不機嫌そう、少しでも刺激したら爆発しそうだ。

「あの、君は誰?」

「兄ちゃん、まだ寝ぼけてるの……?」

 呆れられた。

 説明が必要だ、この子は誰なのか、誰かが説明すべきなのだ。

「……母さん」

 僕は説明を求めるべく、キッチンでフライパンを振る母さんを呼んだ。

「何ー?」

「この子誰!」

「誰って、流癒じゃない。あんたの妹、私の娘、夫の娘、一族の娘」

 そんな馬鹿な……。

 そんな馬鹿な!

 僕には妹はいない、それだけは確かだ。

「ほうら、出来たぞー」


 ――流癒の好きな海老チャーハン。


「流癒の好きな海老チャーハン」

 頭の中に思い浮かぶ一文と、母さんの台詞が一致した。

 何だろう、僕はこの状況を知っている……。

 ――ふと、床に何か落ちているのを見つけた。

 原稿……? 

 どうしてこんなところに?

 僕は拾い上げると、原稿には何行かの文章が記載されており、読んでみる。



 流癒はスプーンを持って海老チャーハンを美味しそうに口へ運ぶ。

 頬にはご飯粒がついており、ため息混じりに明人は『ついてるぞ』と教えてやると彼女は照れながらそれをつまんで口へ放り込み、彼に微笑を浮かべるや再び海老チャーハンを頬張る。



 これは見覚えがある――僕が書いた原稿……?

 筆跡も似ている、同じ? どうだろう、ちょっと違和感。それに登場人物の名前が変わっていた。

 明人は――だって? そこには僕の書いた主人公である颯太の名前が来るはずだ。

 ……何なんだ? これは。

「兄ちゃん、何してるの? それは?」

「え、いや……あの、なんでもない!」

 見せてはいけない気がする。

 僕は二つに折って机の端に置いた。

「早く食べなさいあほたれ」

 原稿に構っていたら母さんにあほたれと言われたので僕は落ち着くためにも食事を始るとした。

 この原稿に書かれている文章と状況はほぼ同じだ。

 今は僕の妹らしい、流癒とやら。

 チャーハンを口に運ぶ中、彼女をちらりと見てみると頬にはご飯粒。

 試しに。

 試しに、文章に従うように、僕は言ってみる。

「……ついてるぞ」

 教えてやった。

 すると、文章と同じ行動を流癒は行い、海老チャーハンを頬張る。

 つまんで口へ放り込んだ。

 微笑も浮かべた。

 頬張りもした。

 原稿の通り、まるで台本を読んで演劇をした役者のように。

 ……思考が、停止しかけている。


 わけがわからなすぎて。


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