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月の流れる川

ちんこって書きたかっただけかもしれない。

 夜の川はあんなに真っ暗で流れだってねっとりしているように見えて、そのくせ街の灯りを映してぴかぴかに光って見せたりもして、童話かなんかにあった他の鳥の羽をたくさんくっつけて綺麗に見せてる鴉を思い出させる。

 だからといって俺が夜の川とか童話の鴉が嫌いかって言うとそんなことはなくて、映った月を溶かしてゆるゆると流している川なんかはついうっとりしちゃうくらい好きだし、鴉だってブスだからって諦めないで頑張って化粧してる女の子なんかを思わせて可愛いと思う。

 俺がそんなことを思ってるからって、川とか鴉とかになんかいいことがあるのかって聞かれると、別に、って答えるしかないんだけど。

 吉野ちゃん、と声をかけられて、幼馴染みがカウンターの向こうからおしぼりを出してくれる。ちゃんと厚くて熱いやつ。思わず顔とかごしごし拭きたくなっちゃうような。

「仕事忙しかったん?」

「え、普通。なんで?」

「心ここに非ずって感じだったから」

「俺、いつも魂抜けてる顔してるから」

「魂の抜けっぷり、いいもんな」

「悪かったな」

「褒めてんだよ」

「褒められてねーよ」

 ビール、と注文したのに、いいのが入ってるからとコップで冷酒を出された。

 カウンターだけ七席の、川沿いにある掘っ立て小屋みたいな店は幼馴染みの城で、俺は仕事帰りに時々寄る。壁に貼られた短冊に、綺麗とはいえない筆文字で書かれたメニューは代わり映えしない。だから勝手に食べたいものを言う。

「玉子焼き」

「おおお、またお前は書いてもないもんを」

「ネギかニラ入れてくれよ」

「なんつー勝手なリクエスト」

「砂糖も入れてな」

「お子様」

「うるせぇ、玉子焼きっつったら甘いもんだ」

 十時過ぎの店には隅っこでなんかちみちみと飲んでいる若くもないカップルがいるだけで、かかっている音楽は幼馴染みの趣味でひねくれたポップスだったりして、とりあえず日本酒は似合わない。でも別に気にしない。似合う曲ってなんだ、演歌か、それなら俺は演歌なんて聴きたくない。

 魚焼いてよ、あとキムチチャーハンと、と言ったら、刺身を焼くのかと聞かれたのでバカかと答えておいた。

 今日は仕事で集金に回っていて、嫌味なおっさんもいたし煎餅くれるおばさんもいたし、業務はいたって普通で疲れたのか疲れてないのかいまいち自分では分からないけど、毎日毎日同じことの繰り返しではあるからこのまま年取ってくんかな、とか思ってしまわないこともない。それで、欲しくもないくせに「彼女とか欲しい」なんて言ってみたりして、「とか」ってなんだよ「とか」って、とか自分に突っ込んでみたりする。

「彼女?」

「やっぱいらん。奥さん元気?」

「腹、すげぇ」

「いつだっけ」

「来月、だったかな」

 幼馴染みは春先に結婚したばっかだ。三十二歳。相手は二十二歳。デキ婚。オメデタ婚。ズッ婚バッ婚。まあ、なんだっていい、生でしたら子供ができたっていうから結婚したってわけだ。責任取ったのな、と褒めたら責任なんて取ってないって言われた、神様が可愛くて若い女とその血を引いた子供をくれやがったと惚気られた。まだ腹から出てきてないから、子供はどんな顔か分かんないけど。

 籍だけ入れたっていうから、俺はお祝いに三万やった。

 ご祝儀袋じゃなくて銀行の封筒に入れて渡したら、幼馴染みはやたらとウケてくれてた。

 そんな、感じ。

「立ち会うん?」

「痛そうじゃん」

「そういうもんじゃないっしょ、奥さんついててって言わん?」

「いても邪魔そうだから来るなって」

「あらら」

「それよりきっちり店あけて、しっかり稼いどけって」

「いい奥さんだ」

 はいよ、と殻ごと焼いて塩を振ったエビが出された。二匹。頼んでない。

「突き出し」

「マジでか、ぼったくるんか」

「吉野ちゃんだからよ」

「マジでか、いい奴だな」

「金は取るけど」

「取るんか」

「子供生まれるから稼がないと」

 だからってぼったくってんなよ、と笑ったところで、店の引き戸が勢いよく開けられて女の子が飛び込んできた。十一月も終わりの頃で、夜は風も空気も冷たくて息も白くて、だからかてっぺんにぼんぼんの付いた毛糸の帽子をかぶっていた。でもあんましあったかそうじゃないパーカージャージとぴらぴら長いだけの軽そうなフレアスカートなんかをはいてた。

「ビール、ください」

 俺の隣の隣にドカッと座って、俺との間にあった背もたれのない丸椅子をすっ転ばした。ぺっちゃんこの座布団が縫い付けてある、木の椅子。小学校の図工室にあったようなやつ。

「図工室、懐かしいな」

「は? はいよ、ビール。吉野ちゃん、椅子起こしとけよ」

 はいよビール、は女の子にで、椅子起こしとけよ、はもちろん俺に向けてだ。俺が倒したんじゃないのに、なんて文句を言うのは野暮なので、ヤダ、と答えておいた。

 そしたら女の子が謝りながら起こした。

「女の子にそんなことさせて」

「うん、俺悪い奴だから」

「エビ追加してやろう」

「やめて、食べたくもないもんで金加算しないで」

 女の子は真っ赤な鼻の頭をしていた。

 トナカイか。

 そうか、トナカイか、来月はクリスマスだから、サンタのとこから逃げてきたのか。

「なるほど」

「なにがなるほどだよ、ほれ玉子焼き」

 一晩で世界中の子供にプレゼント配るって、重労働だもんな。こんな可愛いトナカイなら、他に職もあるだろう。いや、可愛いと思ったけど実はよく見てない。ちょっとくるんとした感じの髪が肩まで伸びてて、顔がよく分からないのが本当だ。鼻の先は見えるけど。顔全部が赤かったらどうしよう。トナカイじゃなくて、赤鬼なのかも。

「あげる」

「は? お前、作らせといて返すのかよ」

「違う、女の子にあげる」

「持ち帰りか?」

「違う、今きた女の子」

 四角くて灰色で、いかにも手焼き、という風情の皿に乗せられた黄色い玉子焼きを、俺は隣の女の子に片手で突き出した。幼馴染みの奴、ネギもニラも入れてくんなかった。

 女の子はびっくりした顔で、俺の方を見た。思っていたよりも若くないみたい。目のところに疲れがくっきり出てた。でも俺より年下だろう。そして赤鬼ではないようだった。トナカイかどうかはまだ分からない。

「食う?」

「お前、いつからそんな人懐こいキャラになったんだよ、びっくりさせんなよお客さんを。ごめんなさいね、この人ちょっと、バカなんで」

「バカってなんだよ、せめて酔っ払ってるんで、とかって言えよ」

「酔っ払ってねーじゃん、まだ飲んでねーじゃん」

「飲むよ、飲みゃいいんでしょ、飲みますよ、俺を誰だと思ってんだよ、お前の幼馴染みの吉野ちゃんさんだぜ?」

「自分にちゃんもさんもつけんなよ、って、ああ!」

 コップ引っ手繰って一気に飲み干して、日本酒実はそんなにいける口じゃないんだけどなー、とか思いながら、一気飲みは良くないよ? うん。

「おかわり」

「無理すんなって」

「酔っ払うんだ、今日は!」

「どこのなんのスイッチ入ったんだよ、お前は」

「ヤル気スイッチ?」

「飲む気スイッチだろ、吉野ちゃんのは」

「あんましいい語感のスイッチじゃないね」

「酒の勢いでナンパする男って最低」

「あ、俺自慢じゃないけどナンパしたこととかないから!」

「本当に自慢じゃねーな」

「どうせ女の子なんかやらしい目でしか見れないんだからさ、ナンパとかじゃなくてじっくりゆっくり吟味して選んで手をつけたのの乳とか満足するまで揉みたい」

「お客さんドン引いてるって、ごめんなさいね、本当に!」

 幼馴染みの手が伸びてきて、俺の頭をパカンと殴っ、たりはしなかったけどペチンとは叩いた。

「ごめんなさい」

「もっと真摯に!」

「ごめんなさい!」

「もっと心を込めて!」

「ごめんなさいぃぃぃぃぃぃぃ!」

「……あの、芸人さん、とかなんですか?」

 やっと女の子が口を開いてくれた。ぼそぼそしゃべる系だ。よく言えばウィスパー系。悪く言うとお前もそもそしゃべってんじゃねーよ聞こえねーんだよバーカ系。

「そんないいもんじゃないよな」

「ただの銀行マンです」

「あれ、吉野ちゃん銀行マンだっけ」

「お前、俺ってば大学卒業してからずっとそうよ? 転職とかしたことないのよ? マジよ?」

「え、じゃあ金持ってんの?」

「人の金ならいっぱいあるよ! でも強盗の手引きはできないから」

「しねーよ、吉野ちゃんが強盗して、どうしてもっていうなら金だけもらってやるけど」

「せめて横領にして」

「すんの?」

「しねーよ」

 バカじゃねーの、と幼馴染みとゲラゲラ笑っていても、女の子はちっとも笑わなかった。

「玉子焼き、いただいていいんですか?」

「ん? 食う? いいよ、あげる」

 くっきり二重、とかのでっかい目ではないけど、バランスがいい。左右の。対称、つり合ってる。口がちょっと小さめなのもいい。俺は口の小さな女が頑張ってなにかを頬張ってるのを見るのが好きだ。なにかっていうのは、なにかだ、まあ、なにか。

 女の子はするするとビールを飲んでしまうと、おかわりをした。おかわりの分もするするすると飲んでしまうと、オススメのものがあったら、とカウンターに声をかけた。それで出された日本酒をこれまたするすると飲んで、おかわりをした。すごい。

「酒、強いんですね」

「強くもないです、多分お酒が弱いんです」

「うん? ああ、アルコールの。度数が? え、そうなの?」

「いや、それ口当たりいいけど結構度数高いよ」

 幼馴染みが口をはさむ。ついでに、キムチねーよ、と俺に言った。

「じゃあケチャップご飯」

「赤いところが同じってのでいいのか、お前は」

「魚肉ソーセージ入れて」

「そんなもんもっとねーよ、あ、あった」

「愛だな」

「ソーセージに愛されてんのか」

「もっといいもんに愛されたい」

 女の子は俺達のバカみたいなな会話をつるりとスルーして、コップで酒を飲んでいる。割り箸を丁寧にゆっくりと割って、玉子焼きをつついた。幼馴染みの作るそれは、実のところうちの母ちゃんが作るのよりよっぽど旨い。さすがプロ。褒めてやらんけど。

若くないカップルが帰るらしく、お勘定を、と手を上げた。幼馴染みがそっちに行ったから、俺は改めて女の子に声をかける。

「逃げてきたの?」

「……え、」

 女の子は驚いた顔をしている。目がまん丸くなって、げっ歯類のぽかんとしたような顔を思わせた。

「そんなような感じだから」

 サンタさんがこき使うんだろ、とは言わなかった。

 酔っ払ってるわけではないけどなんかふらふらすんなー、女の子またドン引きかなー、とか思ったけど、向こうは箸をぱちんとテーブルに置いて、こっちに身を乗り出してきた。

 お。

「男って、どうして別れた女は未だに自分のもんだって思う生き物なんですか?」

「あー、種をまく生き物だからじゃないかと」

「腹立つ、あー、本当にもう腹が立つ、自分で私を捨てたくせに、ちょっと新しい彼女と上手くいかなくなるとこっちに連絡してきたりして、家にまで押し掛けてきたりして」

「でもドア開けてやっちゃうんだろ?」

「……そうですけど。でも、お前がやっぱ良かったとか、彼女と別れらんないかもしんないけど一回やらしてとか、あんまり都合のいいことばっかり言うし、頭くるから外に追い出して、とりあえず股間蹴飛ばして、二度と顔見せるなって言って、でもまだ腹の虫がおさまらないからここに飲みに来て、私逃げてきたんですか? 逃げる? 背中向けて、卑怯に?」

「ちんこ蹴ってきたの?」

「ち……ええ、まあ。でも、私が逃げたってことになるんですか? 逃げたとかって言われるとすごく心外なんですけど」

「あ、それは俺が悪かったです、へー、でもちんこ蹴って逃げ……あ、違った、戦ってきたのか、すげーなー」

「……すごく痛がってましたけど」

「え、全力でちんこ蹴ったの?」

「全力……より、もっとこう、なんか憎しみ込めました」

「わ、そりゃ玉潰れてんじゃないの? 彼氏さん、泡とか吹いてなかった?」

「……倒れて動かなくなってましたけど、彼氏じゃないですし、もう」

「あ、元彼ね、元彼。いやでも、すげー! 全力プラスの憎しみ! 痛そー! 想像しただけでもうなんかきゅんとするー!」

 蹴ってから実は踏みました、と女の子はスカートをへろっと持ち上げて、履いてるものを見せてくれた。スニーカーとかを想像してたら、なんか雪山とかも登れそうなゴツいブーツだった。

「うーむ、すごい。これは死ねる。あー、俺もなんかちんこ痛てぇ」

「……死んじゃいますかね?」

「でもひどい男だったんっしょ? いーんじゃない?」

「そうなの、浮気ばっかしてて、なんかもう、思い出しただけで腹立つ」

「そんなのは子孫残さない方がいいから、ちんこでも玉でも潰れちゃっていいんじゃない?」

 俺は蹴られたり踏まれたりしたくないけど。

「よーしのちゃーん、お前さんはなにをちんこちんこ連呼してんの、やめてちょーだいよ、店の品位が疑われるからー」

「品位って酒のつまみになる? 貧相の間違いじゃなくて?」

「吉野ちゃん今日からツケきかないから」

「わあーん、ごめえええええーんってば、でも俺ツケたことなーい」

 変なの、と女の子が言った。

 でも今度は声がちょっと笑ってた。

 良かった良かった、女の子っていうものは笑ってた方がいい。笑ってると可愛さが何倍にもなる。

 酒をおかわりしたから、俺も真似しておかわりしたけどなぜか烏龍茶を出された。

「スーツにネクタイってことは、お仕事帰りなんですね」

 お。

 なんか声も可愛くなった気がする。

「うん、仕事帰り。家帰っても母ちゃん飯作ってくれてないから」

「母ちゃん、って」

「奥さんじゃなくて、母親って意味の母ちゃん」

「いい年して吉野ちゃんはママのご飯が好きなんだもんなー」

 幼馴染みが茶々を入れる。

 嫌いじゃないよ、ずっと食ってきた飯だし。でもそんな風に言えば、マザコンとかって嫌がられるんかな。マザコンの線引がイマイチ分かんないから、まあどうでもいいんだけど。俺を好きっていう女が勝手に判断してくれりゃいいだけの話だ。親を親として大事にするのは悪いことじゃないもんな、って別に大事にしてないけど。

 大事にするってのも、なに?

「はいよ、ケチャップライス」

 でっかいカレー皿みたいなのに、真っ赤なご飯がもわもわと湯気を立ててるのがどかんと出された。でっかいスプーンもついてる。こんなに食えねーよ、と言ったら、隣の子にもあげれば、と当然のように言われた。

「俺、ナンパしたことないんすけど」

「さっきしてたじゃん、玉子焼きですでに」

「ネギ入れてくんなかったよなー、ニラ入れてくんなかったよなー。あ、食う?」

 俺はスプーンを女の子にずいっと差し出してみる。

 別にナンパなんかしないね。

 元彼のちんこ蹴ってきたような女の子、面白いとは思うけどだからってナンパなんか怖くてできないね。

 でもまあ話を聞くのは楽しそうだ。

 それに万が一俺がナンパしたとしても、男に嫌気がさしてそうなこのタイミングって間が悪いだろう。

「じゃあ、次の飲み物は私がおごります」

「え、やった、ラッキー。でもまた烏龍茶飲まされそう」

「次は水道水出してやる、タダだよ」

「わー、ひでー、お前本当に俺の幼馴染みかよー」

 カウンター向こうの幼馴染みのさらに向こうで、カーテンもない窓が月を覗かせている。

 満月に近いけどちょっと歪だ。いいねぇ、月が綺麗な夜。形だってちょっとくらい歪な方が可愛いってもんだ。

 月が綺麗ですね。

 あ、まずいまずい、うっかり告白になってしまう。ただの世間話としてなのに、うっかり月も褒められん。

「どしたの、吉野ちゃん。烏龍で酔った?」

「酔えるか、魚早く焼けよ」

「あ、忘れてた」

 店の外では暗い川が流れてる。見なくてもわかる、ねっとりと黒いくせにあの歪な月を溶かして流してるんだ、なんか卑猥な感じでふたりきりの世界みたいで、そんなこと考える俺が卑猥なのか、まあいいや。

 女の子の鼻の頭が赤くなくなってきていたので、それを見て俺はつまんないと思った。

 でもケチャップご飯を頑張って大口開けて食べてる顔は可愛くて、唇の端にご飯粒つけてたからそういうのはなんかいいなーって、思ってた。

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