静かに集まる波紋
市場の空気が、いつの間にか変わっていた。
値札そのものは、急激に跳ね上がったわけではない。
だが、昨日と今日でわずかに違う。
先週と比べると、確かに違う。
その「わずか」が、人を落ち着かなくさせていた。
粉の引き合いが増え、油の注文が重なり、これまで一度で済んでいた取引が、二度三度と確認されるようになる。
商人たちは帳面を閉じるたびに首を傾げ、農家たちは納品のあと、妙に長居をするようになった。
「……何か、おかしくないか」
最初に聞こえてきたのは、怒りではなかった。
戸惑いだった。
「前は、こんなに確認しなかった」 「値段が上がる理由が、見えない」
疑問は、説明があれば収まる。
だが今回は、その説明が追いつかなかった。
アグリの仮事務所の前に人が集まり始めたのは、そんな声が重なってからだ。
怒鳴り込む者はいない。
だが、誰も帰ろうともしない。
重たい沈黙の中で、視線だけが集まってくる。
ミーナは帳面を抱え、いつも通り淡々と数字を示していた。
納入量。
分配比率。
販売先。
どれも変わっていない。
操作も、特別な優遇もない。
それでも、空気は晴れなかった。
「……数字は分かる」 「でも、腑に落ちない」
そんな声が、ぽつりぽつりと零れる。
(“おかしい”じゃない。 “納得できない”んだ)
俺は、そう感じていた。
その背後で、エマは壁にもたれかかり、腕を組んだまま市場の人の流れを眺めていた。
普段なら何か一言挟みそうな彼女が、今日は黙っている。
だが、目だけは忙しかった。
人の動き。
声の強さ。
視線の向き。
「……うまいね」
小さく、独り言のように呟く。
「露骨じゃない。 でも、“誰かが得をしてる気配”だけは、ちゃんと残してる」
「分かるのか」
「分かるよ。 理屈じゃなくて、配置の問題。 欲しいところに、ちょっとだけ遅れる。 代わりに、別の所には早く届く」
偶然と言われれば、否定しきれない程度。
だが、重なれば流れになる。
(市場原理、か)
その言葉が、頭の中をよぎる。
正しい。
だが、正しさは時に、人を追い詰める。
リリアンヌは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
表情は穏やかだが、目は真剣だ。
「耕作さん」
静かに声をかけられ、俺は振り返る。
「……不安、ですね」
断定ではない。
だが、逃げない言葉だった。
「皆さん、怒っているというより…… 置いていかれる気がしているのだと思います」
その一言で、腑に落ちた。
「今までは、“分からなくても信じられた”。 でも、今は“分からないまま進んでいる”」
リリアンヌは、そう続けた。
「だから、誰かの顔を探してしまう。 責める相手を、探してしまう」
アグリが前に出過ぎたのか。
それとも、出なさすぎたのか。
答えは、まだ出ない。
その日の夕方、仮事務所に一通の書状が届いた。
封蝋を見た瞬間、場の空気が変わる。
ヴァルガスからの招集だった。
理由は書かれていない。
だが、理由が分からない者はいなかった。
エマが、肩をすくめる。
「ついに、呼ばれたね。 “上”に」
ミーナは、帳面を閉じる手を止めなかった。
だが、その背筋は、わずかに伸びている。
リリアンヌは、一歩前に出て言った。
「……行きましょう。 説明する場がある、ということです」
「説明で済めばいいがな」
俺はそう答えながら、胸の奥に沈むものを感じていた。
アグリは、誰かを支配するための仕組みじゃない。
だが、「誰も独占できない形」を示さなければ、いずれ誰かに使われる。
畑で始まった話が、
いま、市場という別の畑に立たされている。
書状を畳み、深く息を吸う。
(逃げる段階は、もう過ぎた)
次は、仕組みそのものを問われる。
それでも――
続く形を、選ぶために。
俺たちは、ヴァルガスのもとへ向かう準備を始めた。




