疑念の芽
アグリの仮事務所に、見慣れない男が現れたのは昼過ぎだった。
派手な服装ではない。
だが、安物でもない。
歩き方に無駄がなく、周囲を自然に見渡している。
「失礼します。ここが、農業協同組合――アグリで、間違いありませんか?」
声は低く、柔らかい。
押しつけがましさがない。
「そうですが」
ミーナが応対すると、男は軽く頭を下げた。
「私は商人です。名は……サイード」
その名を聞いても、誰も反応しなかった。
少なくとも、この場では。
「噂は、かねがね」
サイードは室内を一度だけ見回す。
帳面。
積み上げられた書類。
壁際に並ぶ見本袋――粉、砂糖、ナタネの種。
「農家の皆さんが、作ることに専念できる仕組みを作った、と聞きました。
素晴らしい取り組みです」
言葉に、嘘は感じられなかった。
「ありがとうございます。
それで、ご用件は?」
俺がそう尋ねると、サイードは微笑んだ。
「ええ。単純な話です」
そう言って、彼は椅子に腰を下ろす。
「アグリは、今や複数の村の作物を一括で扱っている。
量も、品目も、安定している」
一拍、間を置く。
「それはつまり、取引先から見れば――
“非常に魅力的な窓口”だということです」
その言い方は、事実だった。
「私なら、もっと高く売れます」
直球だった。
「宿屋、食堂、行商。
彼らは小口です。
まとめて買う相手ではない」
サイードは、指を一本立てる。
「軍需。
遠隔地の都市。
保存食を必要とする大商会」
次に、二本目。
「価格は、安定します。
交渉も、私が引き受ける」
三本目。
「農家の方々は、今まで通り、作るだけでいい」
静かだが、強い提案だった。
「……見返りは?」
俺がそう言うと、サイードは少しだけ肩をすくめる。
「適正な手数料を。
誰も損はしません」
「誰も?」
「ええ。農家も、アグリも、私も」
その言葉に、違和感はなかった。
だが――だからこそ、危うい。
ミーナが、慎重に口を挟む。
「価格は、どのように決めるのですか?」
「市場に合わせて」
即答だった。
「需要が上がれば、値は上がる。
下がれば、下がる。
自然な話です」
「では、価格が不利になる場合は?」
「それも、市場です」
冷たい言葉ではない。
むしろ、淡々としている。
「私は、お金で誰かを不幸にするつもりはありません」
サイードは、はっきりと言った。
「お金は、流れるものです。
滞らせるから、腐る」
その思想は、一理ある。
「……ただ」
俺は、静かに続けた。
「その流れを、誰が握るかで、世界は変わる」
サイードは、初めて俺を正面から見た。
「さすがですね」
感心したように、微笑む。
「だからこそ、私は“協力”を申し出ている」
支配ではない。
敵対でもない。
――協力。
それが、最も断りづらい形だった。
「今日のところは、提案だけです」
サイードは立ち上がる。
「急ぎません。
ですが……」
扉の前で、振り返った。
「アグリほどの仕組みが、
“誰の手にも握られない”ままでいられるとは、私は思っていません」
穏やかな声だった。
だが、それは忠告でもあり、予告でもあった。
男が去ったあと、室内はしばらく無言だった。
ミーナが、ぽつりと言う。
「……正論でした」
「そうだな」
レオンも、珍しく黙っている。
「でも」
俺は、帳面を閉じた。
「正論だけで動く仕組みは、
いつか誰かの“都合”になる」
サイードは敵ではない。
だが、味方とも限らない。
アグリは、次の段階に進まなければならない。
誰も独占できず、
誰も締め出されず、
それでも続く形へ。
穏やかな男の来訪は、
その必要性を、はっきりと突きつけていた。




