静かな報告
領主館を訪れるのは、久しぶりだった。
農園と各村を回る日々が続き、書面でのやり取りは増えていたが、直接顔を合わせて話す機会はしばらく取れていなかった。
執務室へ案内される廊下は相変わらず静かで、外の賑わいとは切り離された空気を保っている。
扉をノックすると、すぐに声が返った。
「入れ」
中では、ヴァルガスが机に地図を広げていた。
視線は地図の上に落としたまま、こちらを迎える気配だけを向けてくる。
「呼ばれていないが、報告か」
「はい。アグリの現状を」
「ちょうどいい」
そう言って、彼は地図を軽く畳んだ。
「話せ」
俺は、順を追って説明した。
各村への導入状況。
耕うん機、水の散布装置、水車小屋と製粉の流れ。
個々の収穫量ではなく、安定して回る量が増えていること。
農家が売り先を気にせず、作ることに集中できていること。
数字は最小限にした。
ヴァルガスは、数字よりも構造を見る。
「税の回収は」
「今のところ、減っていません。 むしろ、遅延が減りました」
「ほう」
「納める物が明確になったことで、 村側も計算しやすくなっています」
ヴァルガスは、顎に手を当てたまま黙って聞いていた。
否定も肯定もせず、途中で口を挟むこともない。
しばらくして、彼はようやく口を開いた。
「……急ぎすぎてはいないな」
「拡げすぎないよう、意識しています」
「それは正しい」
短い言葉だったが、評価だと分かった。
だが、次の言葉で空気が変わった。
「一方で、商業ギルドの方では、 少し気になる話も聞こえている」
俺は、視線を上げた。
「噂、ですか」
「噂だ。 だが、放っておく類のものではない」
ヴァルガスは、机の端を指で軽く叩く。
「農協が力を持ち始めている」
「価格を左右できるようになる」
「流通を握られる前に、関係を作るべきだ」
「……随分、具体的ですね」
「だから噂は噂だ。 誰が言い始めたかまでは掴んでいない」
彼は、こちらをまっすぐ見た。
「金を積めば、融通が利くのではないか。 特定の商人を優先するのではないか。 そう考える者が出始めている」
その言葉は、責める調子ではなかった。
むしろ、確認に近い。
「誤魔化すつもりはありません」
「だろうな」
即答だった。
「だからこそ、聞いておく。 今後、どうするつもりだ」
俺は、少し考えてから答えた。
「仕組みで防ぎます。 記録を残し、流れを見える形にする。 誰かの裁量で動かせないように」
「……人を見るより、形を見るか」
「はい。 人は変わりますが、形は残ります」
ヴァルガスは、しばらく黙っていた。
その沈黙は、重くはない。
考えている沈黙だ。
「覚えておけ」
低い声で、そう言った。
「農業が安定すると、 次は必ず“金の話”が前に出てくる」
「分かっています」
「分かっている者ほど、狙われる」
それだけ言って、彼は視線を外した。
「今は、見ているだけだ。 だが、妙な動きがあれば、 こちらからも声をかける」
「助かります」
「勘違いするな。 守る気はない」
そう前置きしてから、はっきり言った。
「続くなら、認める。 歪むなら、止める」
脅しではない。
条件提示だ。
「それで構いません」
俺がそう答えると、ヴァルガスは短く頷いた。
「なら、続けろ」
執務室を出たとき、背中に感じる視線はなかった。
だが、完全に自由になったわけでもない。
(見られている)
それは、圧ではない。
責任だ。
農園へ戻る道すがら、商業ギルドの建物が目に入った。
表向きは、いつも通りだ。
だが、その奥で何が動いているかまでは見えない。
アグリは、まだ静かだ。
だが、静かなものほど、目立ち始める。
拡大は始まっている。
そして同時に――
試される段階にも、入った。
俺は馬車の揺れに身を預けながら、
次に来るであろう「金の匂い」を、静かに警戒していた。




