増えていく街の匂い
久しぶりに、領都へ出た。
農園と各村を行き来する日々が続いていたせいで、街に足を踏み入れるのは思った以上に間が空いていた。城門をくぐった瞬間、まず鼻をくすぐったのは、以前にはなかった匂いだった。
焼いた小麦の香ばしさ。 煮込んだ乳の甘い匂い。 それに混じる、ほんのりとした酸味。
(……増えたな)
屋台だ。
通りの両脇に、見覚えのない屋台がいくつも並んでいる。
以前からあった店が姿を変えたものもあれば、明らかに新顔と分かる簡素な屋台もある。鍋をかき混ぜる音、客を呼び込む声、木の器が触れ合う乾いた音が、重なり合って流れてくる。
立ち止まって眺めていると、通りを行き交う人の数も多いことに気づいた。子どもを連れた家族、荷を抱えた行商人、仕事帰りらしい職人たち。
歩調がどこかゆったりしていて、急き立てられるような空気が薄い。
(人が……増えてる)
正確な数は分からない。だが、体感としてははっきりしていた。
街が「息をしている」感じが強くなっている。
少し歩いた先で、リリアンヌが足を止めた。
「……前より、賑やかですね」
「うん。気のせいじゃないと思う」
通りの角に、新しく開いたらしい小さな食堂があった。
木の看板には、簡素な文字で〈乳の煮込み〉と書かれている。昼時を少し過ぎているのに、席はほぼ埋まっていた。
中を覗くと、見覚えのある白い器が並んでいる。
(バター……ヨーグルト)
安定供給ができるようになった、と報告は受けていた。だが、実際に「使われている」場面を見ると、胸の奥で何かが静かにほどけていく。
店主らしき男が、鍋を火から下ろしながら言っている。
「今日はこれで終いだ。 明日の分は、もうアグリから回ってくる」
その言葉に、客が安心したように頷いた。
「なら、また明日来るよ」
日常のやり取りだ。 だが、以前はなかったやり取りだ。
通りを進むにつれて、同じような光景が続いた。
乳製品を使った軽食の屋台、甘みを足した焼き菓子、酸味のある飲み物を売る露店。
どれも派手ではないが、「毎日ある」ことを前提にしている。
(供給が安定すると、使い方が増える)
理屈では分かっていた。だが、街全体がそれを証明している。
レオンが、少し不思議そうに言った。
「前より、人がゆっくりしてる気がします」
「食べ物が安定すると、気持ちも安定する」
そう答えながら、自分でもその言葉を噛みしめていた。
食べられるかどうか分からない不安。
明日、手に入るか分からない不確実さ。
それが減るだけで、人はこんなにも落ち着く。
通りの先で、子どもたちが追いかけっこをしているのが見えた。
以前なら、こんな場所で遊ばせる親は少なかったはずだ。
だが今は、少し離れたところで大人たちが談笑しながら見守っている。
(出生も……増えてるかもしれないな)
確証はない。
だが、街の空気がそれを示している。
リリアンヌが、少しだけ声を落として言った。
「耕平さん……」
「うん?」
「皆さん、あなたの名前を知らなくても、 あなたの仕事の中で生きている気がします」
その言葉に、思わず立ち止まった。
俺は、何かを劇的に変えたわけじゃない。
奇跡を起こしたわけでもない。
ただ、作る人が続けられる形を、少しずつ整えただけだ。
「……それでいい」
そう答えると、リリアンヌは小さく微笑んだ。
夕方、街を出るころには、通りの匂いがまた変わっていた。
昼の賑わいが落ち着き、夕餉の準備が始まる匂いだ。
家族の分を包んでもらう人。
明日の仕込みを考える店主。
明日も同じように開く前提の、静かな動き。
(少しは、この世界に貢献できているのかもしれない)
そう思えたのは、数字や報告書じゃなく、目の前の光景のおかげだった。
農業は、畑の中だけで完結しない。
だが、畑から始まる。
増えた屋台の数。
増えた人の息遣い。
増えた、街の余裕。
それらを背に、俺は農園への道を戻った。
明日もまた、畑が待っている。
そして、その先で―― また少しずつ、世界は育っていく。




