実らなかった田
朝の田んぼは、妙に静かだった。
風がないわけじゃない。
水も、昨日と同じように張っている。
だが、音がない。稲が、鳴かない。
俺は畦に立ち、一本の稲を手に取った。
穂は出ている。
形も悪くない。
色も、病気じみてはいない。
なのに――
指で軽く押すと、穂はあっさりと潰れた。
中が、空だ。
「……」
何本か確かめる。
どれも同じだった。
穂は立派だ。
だが、実が入っていない。
(……結実不良)
頭の中では、冷静に言葉が出てくる。
だが、それを口にする気にはなれなかった。
背後で、足音が止まる。
「……どう、でした?」
リリアンヌの声だった。
俺は、振り返らずに答える。
「穂は出た。でも……中身がない」
少しの沈黙。
「全部、ですか?」
「……今のところは」
レオンが、畦を飛び越えてきて、同じように稲を触った。
「……軽い」
それだけ言って、何も続けなかった。
畑の端では、カイルとミーナも様子を見ている。
二人とも、声を出さない。
誰も責めない。
誰も言い訳をしない。
それが、ひどく重かった。
(ああ……)
俺は、ゆっくりと田んぼを見回した。
水管理は、悪くなかった。
苗代も、手順通りだった。
土も、昨年よりは確実に良くなっている。
それでも、結果がこれだ。
「……この土地に、米は向かないんじゃないか」
誰かが、ぽつりと呟いた。
責める声じゃない。
諦めに近い声だった。
俺は、何も返せなかった。
言葉は、あった。
理屈も、あった。
・気温
・日照時間
・水温
・品種
全部、説明できる。
だが、今それを言ったところで、
何が変わるわけでもない。
昼前、作業は早めに切り上げた。
誰も「どうする」とは言わなかった。
決められないのを、皆が分かっていたからだ。
納屋の陰で、俺は一人、腰を下ろした。
(……失敗だな)
はっきりと、そう思った。
奇跡も起きない。
知識だけで、世界は動かない。
リリアンヌが、少し離れた場所に座る。
「……責められないのは、つらいですね」
「……ああ」
責められた方が、楽な時もある。
「俺が、やるって言った。
俺が、できるって思った」
「でも……誰も、あなたのせいだとは思っていません」
「それが、余計にきつい」
正直な言葉だった。
夕方、もう一度田んぼに立つ。
夕焼けに照らされた稲は、相変わらず美しい。
見た目だけなら、成功と言ってもいい。
だが――
食べられない。
(農業は、結果だ)
途中経過も、努力も、全部含めて。
最後に残るのは、収穫だけだ。
俺は、稲を一本抜いた。
根は、張っている。
弱くはない。
「……なんで、だ」
答えは出ない。
今日は、出さない。
ただ、受け止める。
夜、家に戻っても、何もする気になれなかった。
道具も、図面も、触らない。
考え始めると、逃げ場がなくなる。
灯りを落とし、床に横になる。
(……終わりじゃない)
そう言い聞かせるほど、心は動かない。
今日は、失敗の日だ。
立て直すのは、明日以降でいい。
俺は目を閉じ、
実らなかった田んぼの景色を、何度も思い返していた。




