増やすという選択
市場から戻った家の中は、妙に静かだった。
洗い終えた壺を伏せ、俺は革袋を机の上に置く。
硬貨の音がしない。
それでも、中身の重さははっきり分かった。
(……今まで、ずっと)
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「リリアンヌ。少し時間をもらえますか」
声をかけると、彼女は手を止め、こちらを向いた。
「はい。改まった言い方ですね。どうしましたか」
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俺は革袋を机の中央に押し出す。
「これが、ヨーグルトの売上です。
量は多くありませんが、俺にとっては初めて“自分で回した金”です」
「ええ。市場の様子も見ていました。
最初は警戒されていましたが、最後は見事でしたね」
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「……実は、ずっと気になっていました」
少し言葉を探す。
「農機具の手配、土地の管理、最初の乳牛。
全部、あなたの力がなければ始まっていなかった」
「そうですね。否定はしません」
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「だからこそ、です」
革袋を、もう一度彼女の方へ押す。
「金が回り始めたら、少しずつでも返そうと決めていました。
これは、その最初のつもりでした」
息を吐く。
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リリアンヌは、革袋には触れず、俺の顔を見ていた。
「……耕平。
あなたは、最初に私が言ったことを覚えていますか」
「“貸しではない”……ですよね」
「ええ。
私はあなたに金を貸した覚えはありません」
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「ですが……」
「聞いてください」
穏やかだが、はっきりした声だった。
「私は、人と考え方に賭けただけです。
結果が出なければ、それまで。
出たなら、それで十分です」
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「それでも、俺の中では区切りが欲しかった」
正直に言う。
「借りたまま前に進むのは、どうしても落ち着かなかった」
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「なら、区切りの形を変えましょう」
「……形を?」
「返して終わりにするのではなく、
次に進むために使うという形です」
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「具体的には?」
「そのお金で、乳牛を二頭増やしましょう」
一瞬、言葉が出なかった。
「……返金ではなく、投資ですか」
「ええ。
ヨーグルトが売れたという事実が、すでに根拠です」
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「牛が増えれば、世話も、失敗の可能性も増えます」
「承知しています。
それでも今が一番、安全に拡張できる時期です」
「……よく見ていますね」
「見ていなければ、提案しません」
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横で聞いていたレオンが、目を輝かせる。
「ミルカだけじゃなくなるんだよね。
牛が増えたら、できることも増えるよね」
「そうだな。
でも、その分、仕事も増えるぞ」
「やる。ぜんぶやる」
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俺は、もう一度革袋を見る。
返すために握っていた金。
「……分かりました」
顔を上げる。
「この金は、返しません。
代わりに、責任を増やします」
「それでこそです」
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午後、家畜市へ向かう。
若く、健康で、落ち着いた乳牛を二頭選ぶ。
歩き方、目の動き、腹の張り。
「この二頭でお願いします」
「良い選び方だ」
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牛舎に戻ると、ミルカが低く鳴いた。
「仲間だ」
新しい乳牛たちは、静かに藁を踏む。
「……牛舎、狭くなりましたね」
「すぐに整えます」
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水場を広げ、
柵を補強し、
藁を厚く敷く。
汗は出るが、不思議と気持ちは軽い。
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夕方、三頭の乳牛が並んで草を噛んでいる。
リリアンヌは、その光景を静かに眺めていた。
「……耕平」
「はい」
「あなたは、返すよりも、増やす方を選びました」
「ええ。
その方が、この仕事には正直だと思いました」
「良い選択です」
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夜、帳面を開く。
牛乳量、加工量、次の計画。
書く行が、確実に増えている。
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窓の外では、田んぼが夕焼けを映していた。
牛舎の中では、命が静かに息をしている。
俺は帳面の余白に、一本線を引いた。
そこには、次の仕事を書くつもりだった。




