最初に口を開いたのは
朝の市場は、いつも通り騒がしかった。
野菜の籠、肉の匂い、乾いた麦袋。
その中で、白い壺だけが妙に浮いている。
俺は声を張らず、壺を並べ終えた。
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「……あんた、これ何を売ってる?」
通りがかりの男が、壺を顎で指した。
「ヨーグルトです。
牛乳を発酵させて作った食べ物で、酸味があります」
「発酵?
腐ってるのとは違うのか?」
「違います。
体に害のない菌で、牛乳を変えたものです」
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男は眉をひそめ、壺を一度だけ見下ろした。
「白くて酸っぱい食い物はな……
腹を壊しそうで、どうにも手が出ん」
「そう感じる人が多いのは、分かっています」
男は、それ以上聞かずに去っていった。
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「……やっぱり、簡単にはいかないですね」
リリアンヌが、少し声を落として言う。
「最初は、こんなものです。
知らない食べ物は、味より先に警戒されます」
「説明すれば、分かってもらえるでしょうか」
「説明より、体験です」
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しばらく、足を止める人は現れなかった。
壺の前を、人の流れだけが通り過ぎる。
レオンが、小さく呟く。
「……誰も買わないね」
「焦るな。
売れない時間も、必要だ」
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昼前、
小さな足音が壺の前で止まった。
「……これ、なに?」
幼い子どもが、じっと壺を見上げている。
「ヨーグルトだよ。
牛乳から作った、ちょっとすっぱい食べ物だ」
「すっぱいの?」
「今日は、甘くしたのもある」
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「甘い?」
子どもの声が、少しだけ大きくなる。
「蜂蜜を混ぜたものだ。
一口だけなら、食べていい」
俺は小さな椀に取り、慎重に差し出した。
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子どもは、一瞬だけ母親を見る。
母親が、黙って頷いた。
恐る恐る、口に入れる。
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「……すっぱい」
一瞬、表情が曇る。
周囲の大人が、自然と足を止めた。
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「でも……」
子どもの目が、ゆっくりと丸くなる。
「……あまい。
さっきより、あまい」
その声は、思ったよりもはっきり市場に響いた。
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「もう一口、食べたい」
「いいよ」
俺が椀を差し出すと、子どもは迷わずすくった。
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「……本当に、大丈夫な食べ物なの?」
母親が、少し警戒を残したまま尋ねる。
「はい。
胃に負担がかかりにくく、夏でも食べやすいです」
「子どもが食べているなら……」
母親も、少しだけ口に運ぶ。
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「……なるほど」
その一言で、周囲の空気が変わった。
「悪くない、どころじゃないですね」
「料理にも使えます」
「料理?」
「肉を漬ければ柔らかくなりますし、
香草と混ぜれば、白いソースにもなります」
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「……それなら、使い道は多いな」
「少し、試してみたい」
試食の椀が、次々と差し出される。
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「……あれ?」
レオンが、壺の中を覗き込む。
「もう、半分ない」
「二つ目を出そう」
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「これ、いくら?」
「この値段です」
「じゃあ、一つもらう」
「私も」
硬貨の音が、はっきりと響き始めた。
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「……さっきまで、誰も見向きもしなかったのに」
レオンが、信じられないように言う。
「口に入ったからだ」
「説明より?」
「ええ。
食べ物は、食べて判断される」
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昼過ぎ。
「……これで、最後です」
「全部?」
「はい」
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壺が空になる。
白い器だけが残った。
「……売れましたね」
リリアンヌの声は、少しだけ明るかった。
「ええ。
最初の一歩としては、十分です」
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片付けをしていると、
あの子どもが振り返った。
「ねえ」
「どうした?」
「また、これ、ある?」
「ある。
ちゃんと作る」
「うん」
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市場を後にする。
「……最初に動いたのは、子どもでしたね」
「ええ。
一番、正直な客です」
「大人は……」
「考えすぎます。
腹より、頭で食べるからです」
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白い壺は空だ。
だが、市場の視線は、確かに変わった。
知識でも、説明でもない。
一口が、流れを作った。




