老魔法使い、土を揺らす
朝の田んぼは、静かだった。
苗はまっすぐ立ち、水面は穏やかに光を返している。
(……今のところ、悪くない)
だが、農業は「今」だけを見ていても意味がない。
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そのとき、背後で杖が土を叩く音がした。
「ほっほ……これはまた、丁寧に作った田んぼじゃな」
振り返ると、灰色のローブをまとった老人が立っていた。
背は曲がっているが、ただ者ではない雰囲気がある。
「……どちら様で?」
「オルドじゃ。
昔は宮廷魔法使いをやっとったが、今は引退した身じゃよ」
リリアンヌが、はっと息をのむ。
「宮廷……魔法使い……?」
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オルドは田んぼを一瞥し、ゆっくりとうなずいた。
「土の扱い方が、素人ではない。
踏み、水を読み、待つことを知っておる」
「……農学の知識が、少しあるだけです」
「知識だけでは、こうはならん。
土と会話しとる者の手じゃ」
その言葉に、思わず黙り込んだ。
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オルドは杖を地面に向け、軽く叩いた。
「――《土呼の揺り籠》」
次の瞬間、田んぼの底がわずかに揺れ、
水の流れが整い、土の締まりが均一になっていく。
「……え?」
目に見える派手さはない。
だが、確実に“仕上がった”感覚が伝わってきた。
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レオンが目を見開く。
「うわ……土が、落ち着いた……」
「土はな、無理を嫌う。
わしは少し“元に戻した”だけじゃ」
俺は、唖然としたまま田んぼを見つめた。
(……俺が何日もかけて微調整した場所が……)
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オルドは水路へ歩き、杖先で軽く示した。
「ここ、水が少し迷っておる。
ほんの指一本分、傾きを変えればいい」
軽く振るだけで、水の筋が一本にまとまった。
「昨日までの俺の苦労……」
「耕平さん、大丈夫ですか?」
リリアンヌが小声で尋ねる。
「……すごい、ですね」
(すごすぎて泣きそうだ)
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オルドは満足げに息をついた。
「若いの。
そなたの農業は“積み上げ型”じゃ。嫌いではない」
「……ありがとうございます」
「じゃが、時には魔法も使え。
人の手と魔法は、対立するものではない」
その言葉は、妙に重かった。
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「週に数度なら、手を貸そう。
田んぼも、畑も、水路もな」
「本当に……?」
「老いぼれの余生にしては、悪くなかろう」
レオンが勢いよく頷く。
「やった! すごい人だ!」
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オルドは杖を肩に担ぎ、帰り際に振り返った。
「忘れるな。
魔法は“近道”じゃが、“答え”ではない」
「……はい」
その背中は、静かに畦道を遠ざかっていった。
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残された田んぼは、完璧に整っていた。
水も、土も、申し分ない。
(……便利すぎる)
正直な気持ちだった。
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「耕平さん、すごい味方ですね」
「強すぎる味方だよ。
……でも、使い方を間違えなければ、な」
田んぼを見つめながら、そう答えた。
汗と魔法が交差する農業。
それもまた、この世界でやるべき形なのだろう。
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夕方、苗は変わらず揺れていた。
だが、土の奥は、確かに一段落ち着いている。
(……よし)
俺は、次の作業を頭の中で組み立て始めた。




