苗を植える手
朝の空気は、ひどく静かだった。
田んぼの水面は揺れもせず、空をそのまま映している。
(今日は……植える日だ)
苗代で育った稲は、短く、細く、それでも確かな緑を宿していた。
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レオンがしゃがみ込み、苗を一本持ち上げる。
「ちっちゃ……でも、ちゃんと草だ」
「それでいい。
最初は弱そうに見えるくらいが、ちょうどいい」
「ほんと?」
「無理して伸びた苗は、あとで倒れる」
レオンは真剣な顔で頷いた。
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苗を数本ずつ束ね、田んぼの縁に並べる。
水に浸った泥は、昨日よりも落ち着いていた。
リリアンヌが、そっと足を入れる。
「……沈みますね」
「はい。
この沈み方なら、苗はちゃんと立ちます」
「……田んぼが、受け入れてくれている感じがします」
その表現に、思わず微笑んだ。
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俺は苗を一本取り、腰を落とす。
「こうやって……
指で穴を作って、根をまっすぐ入れる」
泥に指を差し込み、苗を立てる。
水が揺れ、すぐに静まった。
「……立った」
「それでいい。
深すぎず、浅すぎず」
レオンが真似をする。
「えっと……こう?」
「いい。
雑でもいいから、倒さないことだけ意識しろ」
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三人で横一列になり、ゆっくり進む。
苗の列が少しずつ、水面に並んでいく。
リリアンヌは慎重に、一つひとつ植えていた。
「……急ぐものではないのですね」
「ええ。
田植えは、速さより“揃い”です」
「揃い……」
「全部が同じ条件で立てば、
あとで管理しやすくなります」
彼女は納得したように、間隔を揃え始めた。
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乳牛のミルカは、畦の外からこちらを見ていた。
もぐもぐと草を食みながら、のんびりと。
「ミルカは今日は見守り役だな」
「もー」
「文句言うな」
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しばらくすると、腰にじわりと疲れが溜まってきた。
だが、誰も止めようとはしない。
(……この感覚)
大学の実習でも、
祖父の田んぼでも、
同じように感じた重さだ。
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最後の一列を植え終えたとき、
田んぼは一面、細い緑で満たされていた。
風が吹く。
苗が一斉に揺れ、水面にさざ波が立つ。
「……きれい」
リリアンヌの声は、ほとんど祈りだった。
「ちゃんと……立ってるね」
「ああ。
今日はそれで十分だ」
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畦に上がり、三人で田んぼを見下ろす。
まだ弱々しく、収穫の姿など想像もできない。
それでも――
(確かに、植えた)
この土地に、
この世界に、
米を植えた。
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「耕平さん」
「ん?」
「……今日は、忘れない日になりますね」
「ああ。
農業をやってると、そういう日が時々ある」
レオンが胸を張る。
「俺も忘れない!
今日、米を植えた日!」
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夕方、田んぼは夕焼けを映し、
苗の影が水に細く伸びていた。
まだ何も始まっていないようで、
それでも確かに、すべてが始まった日だった。




