苗が眠る場所
朝の田んぼは、昨日より静かだった。
踏み固められた底は安定し、水面は風を映して揺れている。
(いい……田んぼの“器”はできた)
だが、今日はまだここに植えない。
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レオンが不思議そうに田んぼを覗き込む。
「今日は田植えじゃないの?」
「今日は“苗を育てる場所”を作る。
本番の前の準備だ」
「準備……?」
リリアンヌが首をかしげる。
「昨日あれだけ整えたのに、まだ必要なのですか?」
「必要です。
この土地に合った苗を、まず育てたい」
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田んぼの脇、少し高くなった場所を選ぶ。
水が溜まりすぎず、日当たりのいい区画。
「ここを苗代にします」
「なわしろ……?」
「苗専用の畑です。
赤ちゃんを育てる場所ですね」
レオンの目が一気に輝いた。
「赤ちゃん米!」
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土を細かく砕き、表面をならす。
水を薄く張り、指で深さを確かめる。
(浅すぎず、深すぎず……よし)
乳牛のミルカが、少し離れた場所で草を食んでいる。
「ミルカは今日は見学な」
「もー……」
どこか不満そうに鳴いた。
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桶を持ってきて、昨日から水に浸していた種もみを確認する。
粒はふっくらと水を含み、生命の気配がある。
「……起きてきたな」
リリアンヌが、そっと覗き込む。
「小さいのに……重みがありますね」
「中に全部詰まってますから。
芽も、根も、未来も」
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苗代の縁に立ち、指先から静かに種もみを落とす。
ぱら、ぱら、と音もなく水面に広がり、泥へ沈んでいく。
「……きれい」
リリアンヌの声は、ほとんど息だった。
レオンが小声で言う。
「ちゃんと眠れるかな……」
「眠れるさ。
ここは、そのための場所だ」
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水を少し足し、表面を落ち着かせる。
苗代は何事もなかったかのように静まり返った。
(あとは、待つだけ)
農業で一番難しく、
一番大事な時間だ。
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「耕平さん」
「ん?」
「……芽が出るまで、毎日見に来てもいいですか?」
「もちろん。
むしろ、それが仕事です」
彼女は安心したように微笑んだ。
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夕方、苗代は夕焼けを映して淡く染まっていた。
水の下では、まだ何も見えない。
だが確かに、
小さな命が、静かに動き始めている。
(ここからだ)
俺は苗代を一度だけ振り返り、家へ戻った。




