水が走った日
朝、畑に立つと、昨日よりも土の色が暗く見えた。
ひび割れはまだ深いが、その底にわずかな湿りが残っている。
(……水が、届きはじめてる)
昨日掘った“道筋”が、ほんの少しだけ仕事をしていた。
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レオンが、溝の先に膝をついて土をつまんだ。
鼻に近づけて、息を吸う。
「……上がってきてる。
水の匂いが昨日より近いよ」
「まだ流れは弱いけどな。
今日はしっかり“つなげる”」
「つなげる……?」
「水路を、川につなぐんだ。
あとは水が勝手に走る」
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川へ向かい、昨日の浅い溝を再確認する。
地面の傾きはわずかだが、それで十分だ。
「リリアンヌ、ここで見ててください。
水が動く瞬間を」
「動く……?」
「はい。
水は、生きてるみたいに“走る”時があります」
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鍬を構え、最後の“せき止め”になっている土を崩す。
ぐ、と重さが伝わり、泥が崩れた瞬間――
ばしゃっ。
音を立てて、水が溝へ飛び込んだ。
「……っ!」
リリアンヌが思わず息を飲む。
細い流れがまっすぐ畑に向かい、
溝の上を滑るように走っていく。
「ほんとうに……動いていく……」
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レオンは全身を震わせた。
「すごい……!
水、ぜんぶ“あっちに行きたい”って言ってる!」
「言ってないだろ」
「いや、言ってるよ!
鼻でわかる!」
意味不明だが、レオンの表情は真剣だった。
(こいつ……やっぱり才能あるな)
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畑に戻ると、乾いた表面に、細い湿りの線が走っていた。
まだ心もとないが、確かに“水が触れた証拠”だ。
「耕平さん……
畑が、昨日とは違って見えます」
リリアンヌは土を触れ、そっと手のひらを見つめた。
「土の温度が……昨日より、温かい気がします」
「微生物が動き出すと、土はほんの少しだけ熱を持つんです。
水を得て、息をし始めた証拠ですよ」
「……畑も、生きているのですね」
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レオンが、湿った部分を踏みしめて言った。
「ここ、呼んでる。
もっと水、連れてこいって」
「じゃあ、連れてくるぞ。
水路を広げて、流れを太くする」
「うん!!」
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三人で溝を広げ、段差をならし、
水が迷わないように道を整える。
水は、流れれば流れるほど“道”を覚える。
夕方には、畑の湿った部分が広がり、
乾いた地面との境目がゆっくりと押し広がっていった。
(いい……この調子なら、明日には“田んぼの底”を作れる)
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「耕平さん」
「ん?」
「……わたし、この光景を見るとは思いませんでした」
リリアンヌは泥に手をつけながら、微笑む。
「魔法でも戦いでもなく……こうして“地面が変わる”なんて。
とても静かで……でもすごく大きなことです」
「こういうのが、農業の醍醐味ですよ」
リリアンヌは少しだけ、嬉しそうに頷いた。
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「よし。
明日は“踏む”作業をします」
「ふむ……?」
「田んぼの底を作るために、土を踏み固めるんです。
水を逃がさないように」
「やる! 踏みまくる!」
「俺より元気だな」
そのやり取りに、リリアンヌがくすりと笑った。
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夕陽が畑を赤く照らす。
湿りの帯が、まるで未来の境界線のように伸びていた。
(ここから一気に田んぼにする)
三人は夕陽に背を押されながら、畑を後にした。




