パンはある、米はない
酪農の騒動が落ち着いて数日。俺は久しぶりに、仕事としてではなく市場を歩いていた。隣には、なぜか当たり前の顔でリリアンヌがいる。
焼きたてのパンの匂いが、朝の空気に溶けていた。
「……すごい人出ですね」
「ええ。今日は定例市ですから」
荷車に積まれた小麦袋。豆、芋、干し肉、チーズ。どの店にも、必ず“粉にして焼く”前提の食べ物が並んでいる。
(……完全に麦の世界だな)
俺は無意識に、白くて細長いものを探していた。だが、どこにも見当たらない。
「……米、見ませんね」
ぽつりと呟くと、近くの商人が首をかしげた。
「こめ? 香辛料の名前かい?」
「いえ。白くて、粒のまま炊く穀物です」
「粉にしない穀物? 変わった食い方だな」
別の商人も笑う。
「主食は麦だろ? 炊くって、鍋に放り込むのか?」
(……やっぱり、この世界には“稲作”がない)
リリアンヌが、少し不安そうに俺を見る。
「……そんなに大切な作物なのですか?」
「はい。俺の国じゃ、“帰る場所の味”みたいなものです」
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ここで、不意に足取りが少しだけ遅くなるのを、俺は横目で感じた。
リリアンヌは、少しだけ距離を取りながら市場を見回している。だが、その視線は人ではなく、ずっと俺の背中に向いていた。
(……そういえば)
俺は、何気なく聞いてみた。
「リリアンヌ、どうして今日は一緒に来たんです?」
一瞬、彼女の足が止まる。
「……お邪魔でしたか?」
「いえ、そういう意味じゃなくて」
少しだけ間を置いて、彼女は静かに言った。
「……あなたが、“どこへ行くのか”を見ておこうと思っただけです」
それは、いつもの彼女らしい、少し曖昧な答えだった。
だが、その声はわずかに揺れていた。
市場の喧騒の中、彼女は小さく続ける。
「あなたは、牛舎でも、畑でも……
いつも“選んで”います。救うか、見送るか。育てるか、捨てるか。誰にも押し付けず、全部、自分で」
一瞬だけ、彼女は視線を逸らした。
「……置いていかれるのが、少し、怖かっただけです」
胸の奥が、わずかに締め付けられた。
「だから、ついて来ました。
あなたが“何を拾ってくる人なのか”、ちゃんと見ていたくて」
その言葉は、重すぎず、軽すぎず、奇妙に胸に残った。
「……勝手ですね」
そう言って、彼女は小さく笑った。
「ええ。今さらです」
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市場のさらに奥。香辛料、薬草、魔導素材、魔獣の餌が並ぶ一角で、俺は不意に足を止めた。
布袋の口から、見覚えのある細長い粒が、わずかに覗いていた。
(……まさか)
「これ、なんですか?」
露店の老人が、面倒そうに答える。
「南の湿地で採れる“水草の実”じゃよ。乾かせば食えるが、水に沈めるとすぐ腐る。畑に植えても実らん。今じゃ魔獣の誘い餌くらいだ」
俺の背中に、ぞくりと寒気が走った。
(腐るんじゃない。腐らせてきただけだ)
布袋から一粒、指先でつまみ上げる。細く、硬く、淡い光沢。
(……稲だ)
胸の奥が、熱を帯びる。
「……これ、全部ください」
「こんなもん、本気で?」
「はい。俺にとっては、主食の原石です」
リリアンヌが、少し驚いた声で聞く。
「……パンでは、足りないのですか?」
「足りる足りないじゃなくて、“戻りたい味”なんです」
老人は首をかしげながらも、袋をまとめて渡してきた。
「変わった人だねえ……腐る実を、金で買うなんて」
(腐るんじゃない。これから育つんだ)
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市場を出たあと、小さな橋の上で足を止めた。袋の中で、かさりと乾いた音がする。
「……また、厄介なものを拾いましたね」
リリアンヌが、半ば呆れたように言う。
「ええ。たぶん、今までで一番、時間がかかります」
「どれくらい、ですか?」
「……一年。最低でも」
彼女は少し目を丸くしたあと、静かに頷いた。
「……長いですね」
「長いです。でも、その分、世界が変わる」
川面に映る光を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。
(パンの世界に、“米の時間”が流れ込む)
誰にも気づかれないその場所で、この世界をひっくり返す種は、静かに袋の中に眠っていた。




