牛乳は、温かかった
朝の牛舎は、昨日までとはまるで別の場所みたいだった。
ぴちゃり、と水を飲む音。
もぐもぐと草を噛む音。
そして、ゆっくりとした呼吸。
――生きている音だけが、そこにあった。
俺は、桶を抱えながら、そっと一頭の前にしゃがみ込む。
「……じゃあ、少しだけな」
昨日、最初に立ち上がった牛。
まだ足取りはおぼつかないが、目にはもう力が戻っている。
乳房に触れると、温かかった。
(……本当に、戻ってきたんだな)
慎重に手を動かす。
きゅっ、きゅっ、と小さな音。
白い線が、ぽとり、ぽとりと桶に落ちていく。
「……出てる」
背後で、誰かが息を飲んだ。
管理責任者だ。
目を見開いたまま、まるで夢でも見ているみたいな顔をしている。
「……出てる……
ちゃんと、乳が……」
「まだ少量ですけどね」
俺がそう言うと、彼はぶるぶると首を振った。
「いや……
この一滴が、どれだけの希望か……」
その声が、少しだけ震えていた。
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昼前。
搾ったばかりの牛乳を、火にかけた。
鍋の中で、白い液体が、ゆっくりと揺れる。
ふつ、ふつ、と小さな泡。
リリアンヌが、すぐ隣で様子を見ていた。
「……本当に、飲めるのですね」
「ええ。
ちゃんと煮沸すれば、安全です」
「……不思議です。
あれだけ苦しんでいた命から、
こんな穏やかなものが生まれるなんて」
俺は、少しだけ考えてから答えた。
「だから、
“命の産業”なんだと思います」
火を止め、木の器に注ぐ。
白い湯気が、ふわりと立ち上った。
「……あったかい」
リリアンヌが、そっと両手で器を包む。
最初の一口は、
本当に、ほんの少しだけ。
「……!」
彼女の目が、丸くなる。
「……甘い」
管理責任者も、恐る恐る口をつけ――
次の瞬間、両目から、ぼろぼろと涙をこぼした。
「……生きてる……
あの子たちが……
こうして……」
俺は、何も言わず、ただ黙って頷いた。
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午後。
牛舎の前に、自然と人が集まり始めていた。
「飲めるって、本当か?」
「昨日まで、あんなだったのに……」
不安と期待が入り混じった視線。
俺は、少しだけ息を吸ってから言った。
「量は、ほんの少しです。
だから――
今日は、みんなで“一口ずつ”にしましょう」
小さな器が、順番に回っていく。
「……あったかい」
「……生きてる味だ」
「……牛の匂い、ちゃんとする……」
誰かが、泣いた。
誰かが、笑った。
それだけのことなのに、
牛舎の前は、ひどく穏やかな空気に包まれていった。
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夕方。
牛たちは、もう自分から水を飲みに歩き、
干し草にも、しっかりと口を伸ばしている。
俺は、柵にもたれながら、深く息を吐いた。
(……やっと、終わったんだな)
そこへ、リリアンヌが並んで立つ。
「……兄上が、
“次の投資は酪農だ”と呟いていました」
「それは……
ちょっと、怖い報告ですね」
彼女は、小さく笑った。
「でも、
あの人なりに、
今日の光景は、衝撃だったのでしょう」
夕焼けに染まる牛舎を見ながら、
彼女が静かに言う。
「……あなたは、
“救った”だけじゃなく、
“残した”のですね」
俺は、少しだけ考えてから答えた。
「……残せたかどうかは、
これから次第です」
「それでも――」
リリアンヌは、はっきりと言った。
「今日は、
“未来の味”がしました」
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夜。
牛舎の見回りを終え、
俺は、もう一度だけ、白い器を見つめた。
まだ、ほんの少ししか残っていない牛乳。
それでも――
昨日までは、絶対に存在しなかったもの。
(……酪農は、ここからだ)
(でも、その前に……)
頭の中に、別の風景がよぎる。
石畳の市場。
焼きたてのパンの匂い。
そして――
まだ知らない、この世界の“作物たち”。
(……そろそろ、
見に行くか)
この世界が、何を持ち、
何を持っていないのかを。
酪農編は、
静かな温度を残したまま――
次の扉の前に立っていた。




