牛が立ち上がった日
夜明けの空気は、ひどく冷たかった。
牛舎の前に立つ俺の指先は、かじかんで感覚が鈍い。
それでも胸の奥だけが、やけに熱かった。
(……結果が出る)
生かすと決めた牛。
見送ると決めた牛。
環境を変え、餌を変え、水を変え、
できることは、すべてやった。
あとは――
命が、自分で答えを出すだけ。
俺は、静かに扉を押し開けた。
朝の光が、牛舎の中に差し込む。
床に横たわる牛たち。
まだ動かない牛。
そして――
「……っ」
最初に声を漏らしたのは、管理責任者だった。
「……あ、
あの牛……」
視線の先。
一番手前の一頭が、ゆっくりと前脚を折りたたんだ。
「……立つ……?」
ぎこちなく、震えながら、
それでも確かに――
自分の脚で、体を持ち上げた。
「……立った……」
誰かの呟きが、牛舎の中に溶ける。
次の瞬間。
「……う、うわあああ……!」
誰かが、声を上げて泣き出した。
二頭目。
三頭目。
一気に、というわけじゃない。
だが、確実に――
“生き残った側”の牛たちが、順番に立ち始めた。
倒れたままの牛も、いる。
もう二度と、目を開かない牛も、いる。
それでも。
昨日の絶望と比べれば、
この光景は――
奇跡と呼んでいい現実だった。
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「……勝ちましたね」
リリアンヌが、涙を浮かべたまま言った。
俺は、ゆっくりと息を吐く。
「……ええ。
でもこれは、“完全な勝利”じゃない」
立ち上がる牛を見ながら、続ける。
「助かった命と、
助けられなかった命が、両方ある」
管理責任者が、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました……
この子たちの命、
繋いでいただきました……」
俺は、首を横に振る。
「繋いだのは、
この子たち自身です」
そして、静かに言った。
「俺は、
“死なない環境”を、作っただけです」
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その日の昼。
生き残った牛たちに、
少しだけ、餌の量を増やした。
腸を休ませる餌から、
“戻るための餌”へ。
牛は、ゆっくりと咀嚼し、
確かな力で飲み込んでいく。
「……顔つきが、違う」
誰かが言った。
「昨日まで、
あんなに苦しそうだったのに……」
俺は、頷いた。
「毒が抜けて、
内臓が、やっと“仕事”を思い出したんです」
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夕方。
試験的に、一頭だけ搾乳した。
管理責任者が、震える手で器を持つ。
「……出るのか……?」
白い線が、
ぽつりと落ちる。
次の瞬間――
しっかりとした量の乳が、器に溜まり始めた。
「……白い」
誰かが、呆然と呟いた。
「……血が、混ざってない……」
俺は、小さく頷く。
「ええ。
この牛は、もう“戻りました”」
リリアンヌが、そっと言った。
「……命が、戻ったんですね」
「はい」
俺は、乳の入った器を見つめながら答えた。
「だから、
ここからが、本当の“酪農”の始まりです」
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日が沈むころ。
牛舎の外には、
立ち上がった牛たちの穏やかな呼吸だけが残っていた。
俺は、静かに空を見上げる。
(……間に合った)
たったそれだけの事実が、
胸の奥で、じんわりと広がっていく。
そのとき、背後からヴァルガスの声がした。
「……見事だな」
低く、硬い声。
「正直に言おう。
俺は、半分以上死ぬと思っていた」
俺は、振り返らずに言った。
「ええ。
俺も、その可能性は、捨てきれませんでした」
ヴァルガスは、しばし沈黙し、
やがて、静かに続けた。
「……だが、
お前は“生かす方”に賭けた」
「はい」
「……理解できんが、
否定はできん」
それだけ言って、
彼は踵を返した。
リリアンヌが、少し驚いた顔で俺を見る。
「……兄上が、
あなたを否定しなかったの、初めてです」
俺は、苦笑した。
「まだ、
“認めた”わけじゃないですよ」
彼女は、小さく笑った。
「それでも、
今日は――
大きな一歩です」
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牛舎を離れる前、
俺は、もう一度だけ振り返った。
そこには、
立って草を食む牛たちの姿があった。
ゆっくりと。
静かに。
当たり前のように。
だが、それは――
必死に掴み取った“当たり前”だった。
俺は、心の中で小さく呟く。
(……よし。
次は、“育てる”だけじゃない)
(“残す”ための農業だ)
酪農編は、こうして――
“生き直す一日”を、越えた。
牛が立ち上がった日




