切る覚悟
牛舎の奥に、白い布が掛けられていた。
その下にあるものが、
もう“生きてはいない”ことは、見なくても分かる。
だが――
誰一人として、その布をめくろうとしなかった。
「……本当に、やるのか」
かすれた声で呟いたのは、牛舎の管理責任者だった。
「この子はな……
今朝まで、ちゃんと息をしてたんだ……」
村人たちは、皆、俯いている。
泣いている者も、歯を食いしばっている者もいた。
“解剖”。
この世界ではそれは、
死者を二度、殺す行為に近い意味を持つ。
「そんなことをしたら……
天に顔向けできん……」
誰かの声が、震えた。
俺は、ゆっくりと前に出る。
「……分かっています」
一度、深く息を吸う。
「でも、
このままでは、ほかの牛も全部死にます」
空気が、はっきりと張りつめた。
そこへ、ヴァルガスの声が落ちる。
「やれ」
短く、冷たい声。
「どうせ三日後には、全て焼く。
一頭切ったところで、損は変わらん」
俺は、その言葉を聞き流しながら、刃を受け取った。
手のひらが、じっとりと汗ばむ。
(救うために切る。
全部を救うために、
一つの命に、手を入れる)
白い布を、そっとめくる。
そこにあったのは、
さっきまで確かに“命”だった、大きな体だった。
「……すまない」
誰に言ったのかも分からないまま、
俺は、刃を腹部に当てた。
皮膚を切り開いた瞬間、
生々しい匂いが、空気に広がる。
「……っ」
誰かが、堪えきれずに顔を背けた。
それでも、俺は止まらない。
腹腔を開き、胃に手を伸ばす。
そして――
中身を見た瞬間、確信した。
(……やっぱり、これだ)
内容物は、
正常な草の色ではなかった。
黒ずみ、粘り気を帯び、異様な匂いを放っている。
さらに腸をたどると、粘膜はただれ、ところどころ出血している。
「……中から、焼けてる」
思わず漏れた俺の言葉に、
リリアンヌが、はっと息を呑んだ。
「焼けて……?」
「はい。
体の中から、毒に侵されています」
俺は、立ち上がり、皆の方を向いた。
「これは、
呪いでも、瘴気でもありません」
一拍、間を置いて――
「人が与えた“餌”で、起きた事故です」
ざわり、と牛舎が揺れた。
「……餌、だと?」
「俺たちが……
毒を、食わせてたっていうのか……?」
「違います」
俺は、首を横に振る。
「知らないうちに、毒に“変わるもの”を、与えていたんです」
そして、静かに続けた。
「この牛は、
それを、体を使って教えてくれた」
村人の一人が、震える声で言った。
「……じゃあ、この子は……
無駄に死んだのか……?」
俺は、はっきりと首を振った。
「いいえ」
そして、こう言った。
「この牛は、
ほかの牛を、生かすために、死んだんです」
重たい沈黙が、牛舎を包む。
やがて、リリアンヌが、震える声で呟いた。
「……同じ命なのに、
ある命は、切られて……
ある命は、守られる……」
俺は、静かに答えた。
「命は全部、同じ重さです。
でも――」
一呼吸置く。
「役割が、違うだけです」
俺は、解剖を終えた牛の前に立ち、深く頭を下げた。
「……ありがとう。
必ず、他の命を助ける」
やがて、村人たちも、
管理責任者も、
リリアンヌも――
静かに、頭を下げた。
ヴァルガスだけは、腕を組んだまま黙っていたが、
その顔から、もはや軽蔑の色は消えていた。
こうして――
“救うために切る”という選択は、取り消せない現実になった。
次は、
この命が残した“答え”を、最後まで突き止める番だ。第十三話・切る覚悟




