牛が倒れ始める
試験農園の一件が片付いた翌朝。
城の中は、妙にざわついていた。
廊下を駆ける足音。
鎧の擦れる金属音。
いつもの“貴族の朝”とは、明らかに違う。
「……嫌な予感しかしないんだけど」
外へ出た瞬間、使用人の一人が青い顔で駆け寄ってきた。
「さ、佐倉様……!
牛が……牛が、倒れ始めているんです……!」
胸の奥が、すっと冷えた。
(来たか……次は“作物”じゃないな)
案内されたのは、領都郊外にある大きな牛舎だった。
扉を開けた瞬間、鼻を突く異臭。
腐った草の匂いと、獣の熱気。
そこに混じる――血の混じった乳の臭い。
「……ひどい」
床には横たわる牛。
立っている牛も、脚を震わせ、今にも崩れそうだ。
「昨日までは、何ともなかったんだ!」
管理責任者が、声を荒らげる。
「今朝になって、
急に倒れ始めて……!」
俺は、もっとも症状の重い一頭に近づいた。
荒い呼吸。
異常な体温。
腹部の不自然な膨張。
(感染症……?
いや、広がり方が速すぎるし、偏りもある)
そのとき、後方から重たい足音がした。
「くだらん」
振り向くと、そこにはヴァルガスが立っていた。
「牛が病もうが何だろうが、
放置すれば被害は広がるだけだ」
そして、あまりにも簡単に言った。
「全頭、処分しろ」
空気が、凍りついた。
「……え?」
「迷うな。
病が広がれば、さらに損害が出る」
兵たちが、槍に手をかける。
俺は、気づけば一歩前に出ていた。
「待ってください」
ヴァルガスの視線が、鋭く俺を射抜く。
「……また、卑しい土いじりが口を挟むのか」
「これは、土の話じゃない」
自分でも驚くほど、声が静かだった。
「命の話です」
牛たちを見渡す。
「少なくとも、
一頭だけ、俺に調べさせてください」
貴族たちが、ざわついた。
「調べるだと……?」
「解剖でもするつもりか?」
ヴァルガスは、しばらく無言で俺を睨みつけ、
やがて、つまらなそうに言った。
「いいだろう。
一頭だけだ」
そして、はっきりと告げた。
「それで原因が分からなければ、
全頭処分する」
(猶予は……一頭分か)
俺は、すでに動かなくなっている一頭の前に立った。
大きな体。
まだ、体温は残っている。
「……ごめんな」
小さく呟いてから、腹部に耳を当てる。
腸鳴が、異常なほど激しい。
(消化器系……内側から壊れてる)
次に、餌置き場を見る。
積み上げられた草の山。
その一角に――
不自然な黒ずみ。
俺は、指で少しだけすくって鼻に近づけた。
「……カビだ」
「カビ?」
リリアンヌが、不安そうに聞き返す。
「かなり悪質です。
これ、毒になります」
貴族たちが、どよめいた。
「草が、毒に……?」
「そんな馬鹿な……」
さらに、水桶を覗き込む。
表面に、薄く光る膜。
嫌な予感がして、ほんのわずか指先につけ、舐める。
「……苦い」
即座に吐き出した。
「水にも、何か混じってます」
ヴァルガスが、苛立ちを隠さず言った。
「結局、何が言いたい」
俺は、はっきりと答えた。
「これは、
病気じゃない。中毒です」
一瞬、誰も言葉を失った。
「腐った飼料と、汚れた水。
その両方が、牛の内側を壊しています」
ヴァルガスは鼻で笑った。
「だから何だ。
原因が分かっても、
牛が元に戻るわけではあるまい」
俺は、真正面から言った。
「戻せます。
……殺さなければ」
兵たちの動きが、止まった。
そのとき、リリアンヌが一歩前に出た。
「兄上……
この人に、任せてみてください」
ヴァルガスは、しばらく黙ったまま、
牛と俺を交互に見た。
「……三日だ」
低く、重たい声。
「三日で結果を出せ。
できなければ、全て焼く」
三日。
作物と同じ時間。
だが、相手は“牛”だ。
(これは、農業じゃない。
獣医学の領域だ……)
それでも。
「……分かりました」
俺は、はっきりと頷いた。
「この牛たちは、
俺が、生かします」
牛舎の中に、
重たい沈黙が落ちた。
こうして――
今度は**“作物ではなく、命そのもの”**を賭けた三日間が、始まった。
牛が倒れ始める




