第9話 不協和音のカルテット
高槻涼のアトラス財団での「放課後」は、地獄のような訓練と、世界の裏側の真実を叩き込まれる座学の、息も詰まるような繰り返しだった。
月曜日は、デイビッド教官によるクラヴ・マガ。火曜日は、元SAS隊員によるサバイバル術。水曜日は、元CIAの心理学者による尋問対抗術。木曜日には、フランス外人部隊出身のパルクール専門家による、市街地逃走術。そして金曜日は、霧島冴子本人による、これまでの訓練の成果を試すための総合演習。
週末には、泥のように眠るだけ。友人からの遊びの誘いも、「家の用事」という曖昧な理由で断り続けた。教室での彼は、以前にも増して口数が少なくなり、その瞳に宿るどこか遠い光に、クラスメイトたちは次第に距離を置くようになっていった。
彼は、二つの世界を生きていた。
昼は、平凡な高校生という名の「仮面」を被り、凪の日常を演じる。
そして放課後は、世界の均衡を守る秘密組織のエージェント見習いとして、非日常の現実を生きる。
その二つの世界の境界線は、日に日に曖昧になっていった。時折、彼は自分が本当にどちらの世界の住人なのか、分からなくなることがあった。
そんな、綱渡りのような二重生活が始まってから、一ヶ月が経った頃。
その日、涼はいつものように地下深くの『ホワイトルーム』へと足を踏み入れた。だが、そこにいたのはいつものデイビッド教官ではなく、霧島冴子と、そしてもう一人、見慣れない少女の姿だった。
歳は、涼と同じくらいだろうか。
腰まで届く、艶やかな黒髪。切りそろえられた前髪の下で、人形のように整った顔立ちが、一切の感情を映し出すことなく、ただ静かに涼を見つめている。何よりも印象的だったのは、その瞳だった。深い、深い、夜の湖のような瞳。その瞳は、まるでこの世界のあらゆる光を吸い込んでしまうかのように、どこまでも暗く、そして静かだった。
彼女は、アトラスの制服ではなく、ごく普通の、しかしどこか古風なデザインの黒いワンピースに身を包んでいた。その華奢な身体からは、およそ戦闘要員とは思えない、ガラス細工のような儚さが漂っている。
だが、涼の「目」は、彼女の本質を見抜いていた。
能力を「オン」にするまでもない。彼女の魂が放つ気配は、これまで彼が出会ったどのアルターとも違っていた。それは、まるで絶対零度の氷のように、静かで、冷たく、そして触れるもの全てを凍てつかせるような、圧倒的なプレッシャーだった。
「来たわね、高槻君」
冴子が、涼を手招きした。
「紹介するわ。今日から、あなたと同じチームに配属されることになった、新しい仲間よ」
彼女は、その氷の人形のような少女を、手で示した。
「音無 栞さん。……あなたと同じ、日本の高校に通う、ごく普通の女の子よ」
その、あまりにも普通の紹介。
だが、涼は知っていた。この組織に「普通」の人間など、一人もいないということを。
栞と呼ばれた少女は、涼を一瞥した。そして、何も言わなかった。ただ、ほんの僅かに、値踏みするかのように、その瞳を細めただけだった。
その、あまりにも人間的な感情が希薄な反応に、涼はこれまで感じたことのない種類のやりにくさを感じた。
「……高槻、涼です。よろしく」
彼は、ぎこちなく頭を下げた。
だが、栞はそれに答えることなく、ただ無言で彼を見つめ続けている。
気まずい、沈黙。
その沈黙を破ったのは、部屋の扉が乱暴に開けられる、その音だった。
「ちわーっす! ……って、お? なんだ、新人か?」
入ってきたのは、岩のような体躯を持つ、あの火神猛だった。彼は、涼と栞の顔を交互に見ると、ニヤリと、獰猛な笑みを浮かべた。
「へえ。冴子さん、ようやく俺のチームに、まともな戦力を補充してくれたってわけか。……で、どっちがアタリだ?」
その、あまりにもデリカシーのない言葉。
冴子の眉が、ピクリと動いた。
「猛。あなたには、後で特別に『礼儀作法』の訓練を施してあげるわ」
「げっ! いや、それは勘弁してくださいよ!」
猛は、大げさに首をすくめてみせた。
冴子は、深く、深いため息をつくと、改めて三人の前に立った。
「いいこと、三人とも。今日、あなたたちを集めたのは、他でもないわ。……あなたたちに、最初の『チーム』としての任務を与えます」
任務。
その言葉に、涼の心臓がどきりと跳ねた。猛の顔には、待ってましたとばかりに好戦的な笑みが浮かび、そして栞の、その無表情だった顔にも、ほんの僅かな興味の色が宿った。
冴子は、部屋の中央の空間に、立体的なホログラムの地図を映し出した。それは、都内にある、とある名門私立女子高の見取り図だった。
「現場は、ここ。『聖マリアンヌ女学院』。都内でも有数のお嬢様学校よ」
「数週間前から、この学院で奇妙な噂が広まっている。『誰もいないはずの旧音楽室から、深夜、悲しいピアノの音が聞こえてくる』。……そして、その音を直接聞いてしまった生徒が、次々と原因不明のノイローゼや、登校拒否に陥っている」
「警察も、最初はただの集団ヒステリーとして処理していた。だが、被害者の数が二桁を超え、その全員が同じ『幻聴』を訴えていることから、我々はこれをアルターが関与した特殊案件として、調査を開始することを決定したわ」
その、あまりにもオカルトじみた事件の概要。
涼は、ごくりと喉を鳴らした。
「……幽霊、ですか?」
「さあ、どうかしらね」
冴子は、肩をすくめた。
「それを、突き止めるのが、あなたたちの仕事よ」
彼女は、三人の顔を一人一人見回しながら、それぞれの役割を告げた。
「猛。あなたは、先行して学院に潜入し、物理的な脅威に備える。万が一、敵が攻撃を仕掛けてきた場合、生徒たちの安全を確保するのが、あなたの最優先任務よ」
「御意!」
「栞さん。あなたのスキルは、【精神感応】。物体や場所に残された、強い感情や記憶を読み取る力。あなたには、その旧音楽室に直接赴いてもらい、そこに残された『残留思念』から、事件の原因を探ってもらうわ」
「…………」
栞は、無言で、しかし確かに頷いた。
「そして、高槻君」
冴子は、最後に涼の瞳を、まっすぐに見据えた。
「あなたの役割は、全体の『観測』。あなたのその目で、事件に関わる全ての人間、全ての場所、その間に張り巡らされた『因果の糸』を読み解きなさい。そして、猛君と栞さんを、最も確実な真実へと導く。……あなたには、このチームの『目』であり、『脳』になってもらうわ」
「……はい」
涼は、緊張で乾いた唇を舐めながら、答えた。
「いいこと、三人とも」
冴子は、最後に釘を刺すように言った。
「これは、訓練ではないわ。本物の、任務よ。失敗は、許されない。……そして、何よりも忘れないで。あなたたちは、今日から一つの『チーム』なのだということを」
その、あまりにも重い言葉。
だが、その時の彼らはまだ、その言葉の本当の意味を、理解してはいなかった。
§
その日の夜。
聖マリアンヌ女学院は、月の光の下、まるで巨大な幽霊屋敷のように、静まり返っていた。
涼、猛、栞の三人は、学院の裏門から、音もなくその敷地内へと潜入した。猛が、その鋼鉄の拳で、いとも簡単に電子ロックを破壊したのだ。
三人の間には、会話はなかった。
ただ、気まずい沈黙だけが、彼らの間を支配していた。
涼は、絶え間なく能力を「オン」にしていた。彼の目には、この古い校舎の、その隅々にまで張り巡らされた、何十年という歳月分の因果の糸が見えていた。卒業生たちの、喜びの糸。失恋の、悲しみの糸。そして、ほんの僅かに、この学院の暗い歴史を物語る、黒く、淀んだ糸。
だが、事件に直接繋がるような、禍々しい赤い糸は、どこにも見当たらなかった。
猛は、そんな涼の様子などお構いなしに、ただひたすらに前へ、前へと進んでいく。その歩みには、一切の迷いも、警戒心もない。彼の頭の中は、おそらく「敵はどこだ。早く出てこい」という、単純な思考だけで満たされているのだろう。
そして、栞。
彼女は、二人から少しだけ距離を取り、まるでこの世の全てがどうでもいいとでも言うかのように、ただ静かに、その漆黒の瞳で闇を見つめているだけだった。
(……最悪だ……)
涼は、心の中で呻いた。
(なんだ、このチーム……。チームワーク、ゼロじゃないか……)
彼が、そんな絶望的な感想を抱いた、まさにその時だった。
「――ここか」
猛が、足を止めた。
彼の目の前には、蔦の絡まった、古びた木造の建物があった。校舎の最も奥まった場所に、まるで忘れ去られたかのように、ひっそりと佇んでいる。
旧音楽室。
「よし、行くぞ」
猛は、そう言うと、何の躊躇もなく、その建物の扉に手をかけようとした。
「待って」
それを、静かに制したのは、栞の声だった。
「……何だよ」
猛が、苛立ちを隠さずに振り返る。
栞は、猛の言葉を無視した。彼女は、ゆっくりと扉へと近づくと、その古びた木材に、そっと自らの白い指先を触れさせた。
そして、目を閉じる。
スキル【精神感応】。
数秒間の、沈黙。
やがて、彼女が再びその瞼を開いた時。その、夜の湖のようだった瞳には、初めて明確な感情の色が宿っていた。
それは、深い、深い「悲しみ」の色だった。
「……聞こえる……」
彼女は、呟いた。その声は、震えていた。
「……悲しい……。とても、悲しい、ピアノの音が……」
「……そして、たくさんの、後悔の念が……。『ごめんなさい』って……。ずっと、誰かに謝り続けてる……」
その、あまりにも詩的で、あまりにも曖昧な報告。
猛は、盛大な舌打ちをした。
「……ちっ。だから、何だってんだよ。そんなポエム、何の役に立つ。さっさと入って、物理的にぶん殴れば、それで終わりだろ」
彼は、栞を押しのけるようにして、再び扉に手をかけようとした。
だが、その手を、涼が掴んで止めた。
「……待ってください、猛さん」
「……ああん? なんだよ、お前まで」
「……彼女の言う通りかもしれない。……この事件は、ただの暴力じゃ、解決できない気がする」
涼の目には、見えていた。
栞が扉に触れた瞬間、彼女の魂と、この建物全体を覆っている、一つの巨大な、そしてどこまでも悲しい色をした「青い糸」が、確かに共鳴したのを。
それは、悪意の糸ではない。
それは、癒えることのない、魂の傷跡だった。
涼が、そう言った、まさにその瞬間だった。
キィィィィィィィィン……。
どこからともなく、あの噂のピアノの音が、静かに、しかし確かに聞こえ始めた。
それは、耳で聞いている音ではなかった。
それは、三人の脳内に直接響き渡る、精神的な音波。
その旋律は、絶望的に美しく、そして絶望的に悲しかった。聞いているだけで、胸が締め付けられ、涙がこぼれ落ちそうになる。
「……う……っ!」
猛が、苦悶の表情で頭を押さえた。彼の、その単純で屈強な精神が、このあまりにも濃密な悲しみの波動に、耐えきれずに悲鳴を上げていた。
涼もまた、同じだった。頭が、割れるように痛い。
だが、栞だけは違った。
彼女は、その悲しい旋律を、まるで子守唄でも聞くかのように、静かに、そしてどこか懐かしそうに受け止めていた。
彼女の【精神感応】が、この音の正体を、完全に理解していたのだ。
「……大丈夫……」
彼女は、呟いた。
「……怖くない……。ただ、悲しいだけ……。……ずっと、一人で、寂しかっただけ……」
彼女は、まるで夢遊病者のように、ふらふらと扉へと歩み寄った。
そして、その鍵のかかっていない扉を、ゆっくりと開いた。
ギィィィ、という軋む音。
扉の向こう側には、月の光が差し込む、埃っぽい音楽室があった。
そして、その中央。
一台の、古びたグランドピアノの前に、半透明の、青白い光を放つ、一人の少女の「姿」が、静かに座っていた。
彼女は、誰もいないはずの鍵盤の上で、その細い指を滑らせ、あの悲しい旋律を奏で続けていた。
「……幽霊……!」
猛が、絶叫した。
「……いや、違う……」
涼が、それを否定した。彼の目には、その少女の正体が、はっきりと見えていたからだ。
彼女は、実体を持たない。彼女は、この場所に残された、あまりにも強すぎる「残留思念」そのもの。
そして、その彼女の胸元からは、一本の、今にもちぎれそうなほど細く、そしてどこまでも悲しい色をした青い糸が伸びていた。その糸は、どこにも繋がってはいなかった。ただ、虚空に向かって、救いを求めるかのように、頼りなげに揺れているだけ。
「……ああ……。あなた、だったのね……」
栞が、呟いた。
彼女は、その幽霊の少女へと、一歩、また一歩と、近づいていく。
「栞さん! 危ない!」
涼が、叫ぶ。
だが、栞は振り返らなかった。
彼女は、ピアノの前に立つと、その幽霊の少女の隣に、そっと腰を下ろした。
そして、彼女は、歌い始めた。
それは、この国の古い、古い子守唄だった。
彼女の、その透き通るようなアルトの声が、幽霊の少女が奏でる悲しいピアノの旋律と、奇跡のように、完璧に重なり合った。
その瞬間。
音楽室を満たしていた、あの胸を締め付けるような悲しみの波動が、すぅっと和らいでいくのを、涼と猛は感じた。
幽霊の少女が、初めてピアノを弾く手を止めた。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
その、涙で濡れた瞳が、初めて、栞の姿を捉えた。
『……あなたは……。……誰……?』
その、声にならない声が、涼と猛の脳内にも響き渡った。
「……私は、あなたと同じよ」
栞は、静かに答えた。
「……ずっと、一人で、寂しかった」
二つの、孤独な魂。
その間に、言葉は必要なかった。
栞は、そっとその手を伸ばし、幽霊の少女の、その半透明な手を、優しく握りしめた。
その瞬間。
少女の、その悲しみに満ちていた顔が、ふっと、安らかな笑みに変わった。
そして、彼女の身体は、ゆっくりと青白い光の粒子へと変わり、月の光の中へと、溶けるように、静かに、消えていった。
後に残されたのは、絶対的な静寂。
そして、ピアノの前に並んで座る、一人の少女の後ろ姿だけだった。
ピアノの音は、もう聞こえない。
だが、涼の目には、まだ見えていた。
栞の、その小さな背中から、無数の、温かい光の糸が、まるで天使の翼のように、ふわりと広がっていくのを。
それは、彼女が、この場所に残されていた魂を、完全に癒し、そして解放したことの、証だった。
§
事件は、解決した。
幽霊の正体は、数十年前に、この学院でピアニストになる夢を病で絶たれ、誰にも看取られることなく、この音楽室で一人寂しく息を引き取った、一人の生徒の無念の魂だった。
彼女は、ただ誰かに、自分の悲しみを聞いてほしかっただけなのだ。
その魂の叫びに、唯一、栞だけが気づき、そして寄り添うことができた。
帰り道。
三人の間には、まだ会話はなかった。
だが、その沈黙の質は、来た時とは全く違う、どこか温かいものに変わっていた。
涼は、隣を歩く栞の、その小さな横顔を盗み見た。
彼女は、まだ少しだけ、魂の交感の余韻に浸っているのか、どこか遠い目をして、夜空を見上げていた。
(……すげえな、あいつ……)
涼は、心の底から、そう思った。
猛もまた、同じだった。彼は、ぶっきらぼうな口調で、しかしその声には確かな敬意の色を宿して、ぽつりと呟いた。
「……おい。……お前、結構やるじゃねえか」
その、あまりにも不器用な賞賛の言葉。
栞は、はっとしたように、猛の方を向いた。そして、その無表情だった顔に、初めて、ほんの僅か、しかし確かに、はにかんだような笑みが浮かんだ。
「…………どうも」
その、あまりにも小さな、しかしあまりにも大きな変化。
涼は、それを見て、思わずふっと笑みをこぼした。
そして、彼は見ていた。
涼と、猛と、そして栞。
その三人の間に、これまで存在しなかった、新しい、そしてどこまでも力強い「金色の糸」が、確かに、そして固く結ばれた、その瞬間を。
それは、チームの誕生の瞬間だった。
不協和音しか奏でられなかった三つの魂が、初めて一つのハーモニーを奏で始めた、その奇跡の始まりの音だった。
彼の、非凡で、そしてどこまでも面倒な非日常が、今、ほんの少しだけ、温かい色を帯びて、輝き始めた。