第8話 鋼鉄の理論と、因果の舞
月曜日。
その言葉の響きが、これほどまでに重く、そして絶望的な色を帯びて高槻涼の鼓膜を揺さぶったことは、かつてなかった。
週末という名の、あまりにも短く、そしてあまりにも儚い猶予期間。それは、彼の心を癒すどころか、むしろこれから始まる地獄へのカウントダウンとして、彼の精神をじわじわと、しかし確実に蝕んでいった。土曜日は、一日中部屋の隅で体育座りをしながら、「どうすればこの状況から逃げ出せるか」という、答えの出ない問いを反芻し続けた。日曜日には、僅かな希望を抱いてインターネットで「アトラス財団 退職方法」などと検索してみたが、当然、得られたのは無価値な情報の残骸だけだった。
そして、無慈悲に訪れた月曜の朝。
彼は、まるで断頭台へと向かう罪人のような足取りで、学校の門をくぐった。授業の内容など、一文字も頭に入ってこない。友人たちの、昨日見たテレビ番組や、週末のデートの報告といった、あまりにも平和で、あまりにも遠い世界の会話。それら全てが、彼の耳には意味を失ったノイズとしてしか届かなかった。
彼の頭の中を支配していたのは、ただ一つ。
放課後、という名の、審判の刻。
チャイムが、一日の終わりを告げる。
その解放の合図は、今の涼にとっては、処刑の始まりを告げるファンファーレでしかなかった。
彼は、クラスメイトたちの「また明日」という軽い挨拶に、ゾンビのように曖-昧に手を振って応えると、吸い寄せられるかのように、丸の内へと向かう電車にその身を投じた。
ポケットの中の、あの黒いカードキーが、まるで彼の魂の重さを増しているかのように、ずしりと重い。
ビルに到着し、隠しエレベーターで地下深くへと降りていく。その無音の上昇(あるいは下降)は、彼を日常から非日常へと、強制的に転送させるための儀式のように感じられた。
昨日と同じ、あの真っ白な『ホワイトルーム』。
だが、そこにいたのは霧島冴子だけではなかった。
部屋の中央、その広大な空間のど真ん中に、一人の男が、まるで古代の石像のように、静かに佇んでいた。
身長は、火神猛ほどではない。だが、その全身を覆う筋肉は、一切の無駄な脂肪がなく、まるで鋼鉄のワイヤーを編み込んで作られたかのような、凝縮された暴力の塊だった。短く刈り込まれた髪、日に焼けた肌、そして、その顔に刻まれたいくつかの古い傷跡。何よりも印象的だったのは、その瞳だった。
それは、感情という名のフィルターを一切通さない、どこまでも冷徹で、どこまでも分析的な、まるで外科医のメスのような瞳だった。その瞳は、涼の、そのひ弱な肉体と、その奥にある臆病な魂の、その全てを、一瞬で見抜き、値踏みしているかのようだった。
「来たわね、高槻君」
部屋の隅のコンソールを操作していた冴子が、涼に気づいて振り返った。
「紹介するわ。今日から、あなたの専属教官を務めてくださる、デイビッド・ゴラン先生よ」
冴子は、その男を、まるで世界最高峰の芸術作品でも紹介するかのように、誇らしげに言った。
「元イスラエル国防軍、特殊部隊所属。近接格闘術『クラヴ・マガ』の、世界最高の指導者の一人。IAROが、国家予算級の契約金で、三顧の礼をもって迎え入れた、我々の宝よ」
デイビッドと呼ばれた男は、涼を一瞥した。そして、何も言わなかった。だが、その僅かな視線の動きだけで、涼の魂は、まるで裸にされて、値札を付けられたかのような屈辱感を味わった。
(……最悪だ……)
涼は、心の中で呻いた。
(こんな化け物に、俺が何を教わるっていうんだ……)
「さて、と」
冴子は、楽しそうに手を叩いた。
「私は、少し野暮用があるから、席を外すわ。……あとは、先生の言うことを、よーく聞いて、頑張ることね。……死なない程度に、ね」
その、悪魔のようなウインク。
涼が何かを言う前に、彼女はさっさと部屋を出ていってしまった。
後に残されたのは、絶対的な静寂。
そして、その静寂のど真ん中で、ただ二人、獲物と捕食者のように、向き合う涼とデイビッドだけだった。
デイビッドは、初めて口を開いた。
彼の声は、まるで砂漠の砂が擦れ合うかのように、乾いていて、そして一切の感情が乗っていなかった。
その言葉は、涼が一度も聞いたことのない、異国の響きを持っていた。
「שב(シェヴ)」
「……え?」
涼が、困惑の表情を浮かべると、デイビッドは心底うんざりしたような顔で、床を指さした。
「……Sit down」
「あ、はい」
涼は、慌ててその場にあぐらをかいた。
デイビッドは、涼の目の前に立つと、まるで虫けらでも見るかのような目で、彼を見下ろした。そして、再び、あの異国の言葉で、しかし今度は少しだけ長々と、何かを語り始めた。
涼には、その言葉の意味は全く分からなかった。だが、その声のトーンと、侮蔑に満ちた表情から、ろくなことを言われていないことだけは、確かだった。
(……多分、『なんだこのひょろひょろのガキは』とか、『本当にこいつが、あの大層な報告書にあった逸材なのか』とか、そんな感じだろうな……)
その、あまりにも的確な推測。
彼の、そのどうしようもない状況下でも冷静に分析してしまう癖が、働いていた。
デイビ-ッドは、ひとしきり語り終えると、ふう、と息を吐いた。
そして、今度は分かりやすい英語で、しかし命令口調で言った。
「……Warm-up. Push-ups, fifty. Start」
「……ふぃ、ふぃふてぃ!?」
涼は、絶叫した。
50回? 腕立て伏せを?
体育の授業で、10回やるのがやっとの、この俺が?
「……Sixty」
「えっ」
「……Seventy. Now」
デイビッドの目が、冷たく光る。
涼は、これ以上逆らえば、数が無限に増えていくことを悟った。
彼は、泣きそうになりながら、床に手をついた。
一回。二回。腕が、プルプルと震える。
三回。四回。視界が、霞み始める。
五回。……限界だった。
彼は、床に突っ伏したまま、動けなくなった。
「……Pathetic(情けない)」
デイビッドは、吐き捨てるように言った。
その後の数十分間は、涼にとって、人生で最も屈辱的な時間となった。
腹筋、背筋、スクワット。その全てが、彼の、そのあまりにも脆弱な肉体の限界を、完膚なきまでに彼に思い知らせた。
彼は、汗と、涙と、そして僅かな鼻血でぐちゃぐちゃになりながら、ただひたすらに、この地獄が終わることだけを祈っていた。
§
「……さて」
地獄のウォームアップが終わり、涼が床の上で死んだ魚のようになっていると、デイビッドは、何事もなかったかのように、次の段階へと移った。
「Basic stance. Watch me」
彼は、クラヴ・マガの、極めて実践的な構えを取ってみせた。重心は低く、両手は顔の前に。一切の隙がない、機能美の塊のようなフォーム。
「Do it」
涼は、ふらふらと立ち上がると、その動きを必死に真似しようとした。だが、彼の身体は、まるで出来の悪い操り人形のように、ぎこちなく、そして滑稽にしか動かない。
デイビッドは、巨大なため息をつくと、涼の背後に回り、その手足の位置を、まるで物でも扱うかのように、無慈悲に修正していく。
「……Idiot. Relax your shoulders. Lower your hips. You look like a frightened chicken」
その、あまりにも的確な罵倒。
涼は、屈辱に顔を赤くしながらも、必死にその形を覚えようとした。
その後も、基本的なパンチの打ち方、蹴りの出し方、そして最も重要な、急所への攻撃方法。デイビッドは、それらを淡々と、しかし一切の妥協なく、涼の身体に叩き込んでいった。
そして、訓練開始から一時間が経過した頃。
デイビッドは、言った。
「……Good. Now, sparring」
「……すぱーりんぐ……?」
「I'll punch you. You block it. Simple」
シンプル。
シンプルだが、それは涼にとっては、死刑宣告と同じ意味だった。
「……Ready?」
デイビッドは、そう言うと、何の予備動作もなく、涼の顔面に向かって、ゆっくりとした、しかし寸分の狂いもない右ストレートを放った。
涼の脳が、反応するより早く、その拳は彼の頬を、軽く、しかし確かに捉えていた。
パシン、という乾いた音。
衝撃で、涼の身体がよろめく。
「……痛……」
「Too slow」
デイビッドは、容赦なく、二発、三発と、同じようにゆっくりとしたパンチを、涼の身体のあちこちに打ち込んでいく。
涼は、それをただ、為す術もなく受け続けることしかできなかった。
彼の、その「事なかれ主義」の魂が、悲鳴を上げていた。
痛い。
怖い。
もう、やめたい。
家に、帰りたい。
彼が、本気でそう思い、その場に蹲ろうとした、その瞬間だった。
彼の脳内で、何かが、ぷつりと切れた。
パニック。
恐怖。
そして、純粋な、生存本能。
それが、引き金だった。
彼が、無意識のうちに、自らの能力の蛇口を、全開にした。
「オン」。
その瞬間。
彼の目の前の世界が、再び、あの因果のタペストリーへと、その姿を変えた。
だが、今度の光景は、これまでとは全く違っていた。
彼の目の前に立つ、デイビッド。
その、鋼鉄のような肉体の、その中心から。
一本の、燃えるような、そして鋭利な刃物のような「赤い糸」が、凄まじい速度で、彼の眉間へと向かって伸びてきていたのだ。
それは、昨日まで見ていたような、ただの予兆の糸ではない。
それは、純粋な「攻撃意志」そのものが、具現化したかのような、殺意のベクトル。
涼の、思考が反応するより、早く。
彼の身体が、勝手に動いていた。
彼は、ほんの僅か、首を傾けた。
すると、デイビッドの拳が、彼の髪を数本だけ掠め、空を切った。
「……ほう?」
デイビッドの、その無表情だった瞳に、初めて、ほんの僅かな興味の色が宿った。
彼は、今度は左のフックを放つ。
涼の目には、デイビッドの左拳から、弧を描くような赤い糸が見えた。
彼は、その糸の軌道を予測し、上半身を後ろに反らすことで、それを完璧に回避した。
デイビッドは、攻撃を止めない。右、左、そしてミドルキック。
だが、その全ての攻撃が、まるで最初からそこに涼がいなかったかのように、空を切っていく。
涼は、もはやデイビッドの肉体の動きを見ていなかった。
彼は、ただ、その赤い糸から逃げ惑うように、踊っていた。
その動きは、ぎこちなく、不格好で、およそ武術のそれとは程遠い。だが、結果として、彼は世界最高峰の格闘家の攻撃を、その全て、完璧に回避し続けていたのだ。
デイビッドの動きが、ぴたりと止まった。
彼の、そのメスのような瞳が、この奇妙な現象の本質を、見抜こうとしていた。
そして、涼もまた、気づき始めていた。
赤い糸だけではない。
デイビッドの、その全身から。
無数の、銀色に輝く、蜘蛛の巣のように微細な糸が、常に揺らめきながら放たれていることに。
それは、彼の「意識の糸」。
彼が次にどこを狙おうとしているのか、どこに体重を移動させようとしているのか。その、思考の予兆。
そして何よりも。
その、完璧に見える銀色の網の中に、ほんの僅かな、しかし確実な「隙間」や「淀み」が存在していることに、涼は気づいてしまった。
デイビッドが、次の攻撃のために、ほんのコンマ数秒だけ、呼吸を整える。その瞬間、彼の喉元を守る意識の糸が、僅かに緩んだ。
(……ここか……!)
涼の身体が、再び、勝手に動いていた。
デイビッドの、その懐へと潜り込む。
そして、先ほど教わったばかりの、クラヴ・マガの基本技――貫手を、その無防備な喉元へと、叩き込んだ。
もちろん、その威力は、赤ん坊のそれに等しい。
だが、それは確かに、当たった。
デイビッドの、その鋼鉄の肉体に、初めて、涼の攻撃が届いた瞬間だった。
「……っ!」
デイビッドの目が、驚愕に見開かれた。
彼は、咄嗟に後ろへと飛びのいた。
そして、目の前の、このひ弱な、しかしあまりにも不気味な少年を、まるで未知の生物でも観察するかのように、睨みつけた。
涼は、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返しながら、その場に立っていた。
自分でも、何が起きているのか、分からなかった。
ただ、分かる。
この力を使えば、俺は、この怪物と、戦える。
その、あまりにも異様で、あまりにも美しい、攻防のダンス。
それを、部屋の隅のモニター越しに見ていた霧島冴子は、その美しい唇の端に、満足げな笑みを浮かべていた。
(……やはり、天才ね、あの子は)
彼女は、紅茶のカップを、優雅に口へと運んだ。
戦いは、さらに数分間続いた。
デイビッドは、その速度と、攻撃の複雑さを、徐々に、徐々に上げていく。
だが、涼は、その全てに対応してみせた。
彼の動きは、もはやただの回避ではなかった。
彼は、赤い糸を避け、銀色の糸の隙間を縫い、そして、そのひ弱な拳と蹴りを、デイビッドの体の、ほんの僅かな無防備な箇所へと、的確に、そして執拗に、叩き込み続けていた。
それは、もはや戦闘ではなかった。
それは、巨大な象の周りを飛び回り、その分厚い皮膚の、ほんの僅かな柔らかい部分だけを、チクチクと刺し続ける、一匹の蚊のようだった。
そして、ついに。
デイビッドの、その鉄仮面のような表情が、初めて、明確な感情によって歪んだ。
それは、怒りではなかった。
それは、困惑と、苛立ちと、そしてほんの少しの、賞賛が入り混じった、複雑な感情だった。
彼は、母国語であるヘブライ語で、絶叫した。
「מה זה הילד הזה?! אתה בטוח שהוא היה רק תלמיד תיכון? זה מטורף... טירוף של אלטר!」
(マ・ゼ・ハ・イェレッド・ハ・ゼ!? アタ・バトゥアハ・シェ・フ・ハヤ・ラク・タルミード・ティホン? ゼ・メトラフ… ティルーフ・シェル・アルター!)
その、魂の叫び。
涼は、その言葉の意味は分からなかったが、その響きに込められたデイビッドの純粋な驚愕を、因果の糸を通じて感じ取っていた。
彼は、デイビッドの次の攻撃――渾身の回し蹴りの赤い糸を、屈んでかわしながら、ほとんど反射的に、しかしどこか申し訳なさそうに言った。
「……すみません。……言葉、分からないです……」
その、あまりにもシュールな、そしてあまりにも間の抜けた一言。
それが、この異様な戦いの、終わりの合図だった。
部屋のスピーカーから、それまで沈黙を守っていた霧島冴子の、くすくすという、楽しげな笑い声が響き渡った。
『――「マジか、このガキ。本当に、ただの学生だったのか? アルターらしく、ぶっ飛んでるな」。……そう、おっしゃってるわよ』
その、完璧な同時通訳。
涼は、デイビッドの蹴り足をすり抜け、数メートル後方へと飛びのいた。
そして、自らが、この世界の理から完全に逸脱した、本物の「化物」なのだという事実を、今、改めて、そして決定的に、突きつけられた。
デイビッドもまた、動きを止めていた。
彼は、肩で息をしながら、目の前の少年を、もはや訓練生としてではなく、一人の恐るべき「アルター」として、その目に焼き付けていた。
静寂。
その静寂を破ったのは、冴子の、どこまでも楽しげな声だった。
『――はい、そこまで。今日の授業は、おしまいです』
その言葉と共に、涼の全身から、ふっと力が抜けた。
彼は、その場に、糸が切れた人形のように、崩れ落ちた。
彼の、長くて、過酷で、そしてあまりにも非凡な、最初の訓練の一日が、ようやく、その幕を下ろしたのだった。