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第7話 観測者のソロバン

 翌日の放課後。

 高槻涼の足取りは、鉛のように重かった。

 教室の窓から差し込む西日が、昨日と何も変わらない、気怠いオレンジ色の光で床を染めている。友人たちの、昨日と何も変わらない、中身のない馬鹿話が鼓膜を揺らす。だが、そのありふれた日常の風景の全てが、今の涼にとっては、一枚の薄いガラスの向こう側にある、自分とは無関係な世界の出来事のようにしか感じられなかった。

 彼の、完璧だったはずの平穏な日常は、もうどこにもない。

 その代わりに彼が手に入れたのは、世界の裏側の真実と、そして自らの命を守るための、戦いという名の新しい「非日常」。

 彼は、昨日手に入れたあの百点の答案用紙を、鞄の奥深くにしまい込んでいた。クラスメイトたちからの、好奇と嫉妬と、そしてほんの少しの畏怖が入り混じった視線。それは、彼がこれまで最も巧みに避けてきた「面倒事」の、最たるものだった。だが、不思議と、以前ほどの不快感はなかった。

 彼の心は、もっと巨大な、そしてもっと根源的な不安に支配されていたからだ。


「――じゃあな、高槻」

「お、おう」

 彼は、クラスメイトたちの「また明日」という軽い挨拶に、曖昧に手を振って応えた。

 また明日。

 その、昨日までなら何の疑いもなく信じることができた言葉が、今の彼には、あまりにも不確かで、頼りない響きに聞こえた。

 彼は、一人、校門を出た。

 そして、いつもの駅とは逆方向へと、その一歩を踏み出す。

 向かう先は、東京の中心部、丸の内。

 あの、黒い墓石のようなビル。アトラス財団、日本支部。

 これから、彼の本当の「放課後」が始まるのだ。


 §


 電車を乗り継ぎ、丸の内のビジネス街に降り立った時、涼は自分が場違いな異物であるかのような、強烈な疎外感に襲われた。

 行き交う人々は皆、パリッとしたスーツに身を包み、鋭い眼光でスマートフォンを睨みつけながら、分刻みのスケジュールをこなしているであろう、エリートたち。その、鋼鉄とガラスでできた森の中を、制服姿の高校生が一人、所在なげに歩いている。

 彼は、ポケットの中の、あの黒いカードキーの冷たい感触を、確かめた。

 これがあの場所への、唯一の通行許可証。

 彼は、地図アプリを頼りに、記憶の中のあのビルへとたどり着いた。何の看板も掲げられていない、不気味なほど静まり返った黒い超高層ビル。

 彼は、正面玄関ではなく、冴子に指示された通りの、ビル裏手にある従業員用の通用口へと向かった。そこには、小さな、目立たないカードリーダーが設置されているだけだった。

 彼は、深呼吸を一つした。

 そして、意を決して、その黒いカードキーをリーダーにかざした。

 ピ、という無機質な電子音。

 重厚な金属製の扉が、滑るように、音もなく開いた。

 彼は、その先にある、真っ白で、人の気配が一切ない長い廊下へと、まるで罪人のように、おそるおそる足を踏み入れた。

 扉が、彼の背後で、再び音もなく閉ざされる。

 その瞬間、彼は、自分が日常の世界から、完全に切り離されたことを、肌で感じた。

 廊下の突き当たりにあったのは、一台のエレベーターだけ。

 彼は、それに乗り込み、昨日冴子が押したのと同じ、最上階を示すボタンを押した。

 エレベーターは、凄まじい速度で、しかし一切の揺れを感じさせることなく上昇していく。

 やがて、扉が開いた。

 そこに広がっていたのは、昨日と同じ、あの広大な、SF映画のようなオフィスだった。


「来たわね、高槻君」


 部屋の中央、巨大なデスクの向こう側で、霧島冴子が彼を出迎えた。彼女は、昨日と同じ黒いスーツ姿だったが、今日はその上に白い研究者のようなコートを羽織っていた。その姿は、冷徹な指揮官というよりも、未知の生物を観察する科学者のような雰囲気を醸し出していた。

「……どうも」

 涼は、緊張で乾いた唇を舐めながら、ぎこちなく頭を下げた。

「まあ、そこに座って」

 冴子は、デスクの前の椅子を顎で示した。

 涼が腰を下ろすと、冴子は引き出しから一枚のカードを取り出し、それをテーブルの上に滑らせた。

「はい、これ」

 それは、彼が持っている黒いカードキーとは違う、プラチナ色に輝く、見慣れたクレジットカードだった。

「……これは?」

「クレジットカードよ。あなたの活動に必要な経費は、これで落としてもらうわ。当面の交通費とか、あるいは任務に必要な備品とかね」

 彼女は、こともなげに言った。

「暗証番号は、『0000』。シンプルで、覚えやすいでしょう?」

「……え、あ……。ありがとうございます……」

 涼は、そのプラチナカードを、恐る恐る手に取った。信じられない。自分が、こんなものを持つ日が来るなんて。

「言っておくけれど」

 冴子は、その涼の心中を見透かしたかのように、釘を刺すように言った。その瞳には、悪戯っぽい光が宿っていた。

「これは、あなたのお小遣いじゃないわよ。あくまで、必要経費。そのためのカードだからね」

「……は、はい。分かってます」

「……子ども扱い、ですね」

 涼は、思わずといった風に、ぽつりと本音を漏らした。

 その、あまりにも人間的な、そして少しだけ拗ねたような呟き。

 それを聞いた冴子は、初めて、声を上げて、実に楽しそうに笑った。

「ふふっ。ごめんなさい。でも、仕方ないでしょう?」

 彼女は、涙を拭うような仕草をしながら言った。

「以前、あなたと同じくらいの歳の男の子にこれを渡したら、初日に嬉々としてソーシャルゲームのガチャに何十万円も課金した、救いようのない馬鹿がいたものだから」

 その、あまりにも具体的なエピソード。

 涼の脳裏に、あの岩のような体躯を持つ、しかしどこか子供っぽい雰囲気も感じさせる大男、火神猛の顔が浮かんだ。

(……多分、あの人だな……)

 その、あまりにも容易な推測に、涼の緊張もほんの少しだけ解けた。


「さて、と」

 冴子は、すぐに真剣な表情に戻った。

「雑談は、このくらいにして。……昨日の今日で悪いのだけれど、少しは能力に慣れたかしら?」

 その問いに、涼はごくりと喉を鳴らした。

 彼は、この瞬間のために、昨夜からずっと、報告すべき内容を頭の中で整理していた。

「……はい。少しだけ、ですけど」

 彼は、意を決して語り始めた。

「学校で、試してみました。能力を、オンにしてみたんです。……そしたら、色々、見えました」

 彼は、教室で見た、あの色とりどりの感情の糸について、正直に説明した。恋人同士を繋ぐ、温かいピンク色の糸。片思いの、頼りなげな赤い糸。友情の、穏やかな青い糸。そして、ライバル同士の、ピリピリとした灰色の糸。

 冴子は、その報告を、興味深そうに、しかし一切の驚きを見せることなく、ただ静かに聞いていた。

 そして、涼が、最も報告すべきか迷った、あの「小テスト」の一件を、おずおずと口にした時。

 初めて、冴子のその美しい眉が、ピクリと動いた。


「……テストで……。問題と、正解を繋ぐ、金色の糸が見えた、ですって?」

「……はい。それに、意識を集中させたら、答えそのものが、空中に文字として浮かび上がって……。その、それで、満点を……」

 涼は、まるで罪を告白する犯罪者のように、俯いた。怒られるかもしれない。あるいは、そのあまりにも便利な力を危険視され、ここで処分されてしまうかもしれない。

 だが、冴子の反応は、彼の予測を完全に裏切るものだった。


「……ふーん……」


 彼女の口から漏れたのは、怒りでも、驚きでもなく、ただ純粋な、そして底知れない知的好奇心に満ちた、感嘆の声だった。

「……そこまで見える能力なのね、あなたのは……」

 彼女は、椅子から立ち上がると、まるで珍しい美術品でも鑑賞するかのように、涼の周りをゆっくりと歩き始めた。

「感情の可視化だけじゃない。危険予知だけでもない。……『正解』という、極めて概念的な情報と、物理的な『問題』との因果を、あなたは直接『観測』した。……なるほどね。あなたのスキルの本質は、ただの知覚拡張ではない。……世界の『ことわり』そのものを、読み解く力……」

 彼女の呟きは、もはや涼に向けられたものではなかった。それは、一人の研究者が、世紀の発見を前にして、その興奮を自らに言い聞かせるかのような、独り言だった。

「まだまだ、ポテンシャルはありそうね……。ええ、間違いなく」

 彼女は、再び涼の前に立つと、その瞳を爛々と輝かせながら言った。その瞳は、もはや指導者のそれではなく、最高の実験材料を見つけたマッドサイエンティストのそれに、近かった。


「素晴らしいわ、高槻君。あなたのその力は、我々アトラス財団にとって、いえ、この世界の秩序にとって、何物にも代えがたい宝となるでしょう」

「ですが」と、彼女は続けた。その声は、再び冷静な指揮官のそれへと戻っていた。

「今のあなたは、あまりにも無防備すぎる」

「……え?」

「あなたのその目は、確かに神の視点に近い。ですが、あなたのその身体は、ただの非力な高校生のもの。……どんなに素晴らしい頭脳を持っていても、その頭脳を収める器が壊されてしまえば、何の意味もないわ」

「あなたには、戦闘経験が、絶対的に不足している」


 戦闘。

 その、あまりにも物騒な単語。

 涼の心臓が、再び嫌な音を立てて高鳴った。


「……せ、戦闘って……。俺、戦うんですか? あの、猛さんみたいに?」

「いいえ、違うわ」

 冴子は、きっぱりと首を横に振った。

「あなたのスキルが、猛君のように直接的な戦闘に向いているのなら、今すぐにでも模擬戦闘訓練シミュレーションに放り込むところよ。でも、あなたの場合は違う。あなたのスキルは、今の段階では、まだ『見る』だけ。……あなたは、戦場の指揮官であり、観測手スポッター。あなたの役割は、前線で戦うことではなく、その一歩後ろから、戦場の全ての因果を読み解き、我々を勝利へと導くこと」

「ですが、敵は、そんなあなたの重要性を、誰よりも理解しているわ。彼らは、まず最初に、あなたのような『目』を潰しにかかるでしょう。……昨日、あなたが経験したようにね」

「だから、あなたに今、必要なもの。それは、敵を倒すための力ではない。……敵から、逃げ延びるための力。……すなわち、『護身術』よ」


 護身術。

 その、あまりにも地味で、あまりにも泥臭い響き。

 涼は、少しだけ拍子抜けした。

 だが、冴子の次の言葉は、その甘い考えを完全に打ち砕いた。


「これから、あなたにはIAROが誇る、世界最高の専門家スペシャリストたちによる、特別訓練プログラムを受けてもらうわ」

 彼女は、タブレットを操作し、その訓練のスケジュールをモニターに映し出した。

 そこには、およそ高校生の放課後とは思えない、地獄のようなカリキュラムがびっしりと書き込まれていた。

 月曜日:元イスラエル国防軍、クラヴ・マガ教官による近接格闘術。

 火曜日:元イギリス陸軍特殊空挺部隊(SAS)、サバイバル術及び潜伏術。

 水曜日:元CIA、心理戦及び尋問対抗術。

 木曜日:元フランス外人部隊、市街地パルクール及び逃走術。

 金曜日:……。

「……嘘だろ……」

 涼の口から、乾いた声が漏れた。

「これは……。これじゃ、まるで……」

「ええ、そうよ」

 冴子は、悪戯っぽく微笑んだ。

「まるで、スパイの養成所ね」

「安心なさい。ちゃんと、宿題をやる時間は確保してあげるわ。あなたは、まだ学生なのだから」

 その、悪魔のような優しさ。

 涼は、もはや何も言い返すことができなかった。


「訓練、訓練、訓練しかないわ」

 冴子は、立ち上がると、部屋の出口へと涼を促した。

「あなたのその類稀なる才能を、そしてあなたのその命を、みすみす失うわけにはいかない。……これは、あなたのためであり、そして、この世界のためでもあるのよ」

 その、あまりにも壮大で、あまりにも理不尽な大義名分。

 涼は、ただ、力なく頷くことしかできなかった。

 彼の、その完璧だったはずの平穏な日常は、今、完全に、そして決定的に、地獄の訓練という名の、新しい「非日常」へと、その姿を変えようとしていた。

 そして、彼がこれから足を踏み入れる世界の、そのあまりにも巨大で、そしてあまりにも面倒な物語の、本当の、本当の幕が、今、静かに上がったのだ。

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