表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/9

第5話 裏世界クロニクル

 火神猛が運転する、黒塗りの、そしてナンバープレートすら存在しない高級車は、まるで夜の闇に溶け込むかのように、音もなく高槻涼が住むアパートの前で停車した。

「――着いたぞ」

 バックミラー越しに、猛の低く、そして感情の乗らない声が響く。

 涼は、まるで夢から覚めたかのように、はっと我に返った。窓の外には、見慣れた、しかし今はどこか異世界の風景のように見える、自分のアパートの古びた外観があった。

「……あ、ありがとうございます」

 彼は、か細い声で礼を言うと、後部座席のドアを開けた。外の、生ぬるい夜の空気が、彼の肌を撫でる。そのあまりにも日常的な感触が、ほんの数時間前まで自分がいた、あの真っ白で非現実的な訓練室や、摩天楼の最上階にある豪奢なオフィスとのギャップを、より一層際立たせていた。

 彼は、車から降りた。そして、運転席の猛に向かって、深々と頭を下げた。

 猛は、それに頷きもせず、ただ無言でアクセルを踏んだ。高級車は、再び闇の中へと滑るように消えていった。まるで、最初からそこには何も存在しなかったかのように。


 後に残されたのは、絶対的な静寂と、そしてその静寂のど真ん中で、ただ一人立ち尽くす高槻涼だけだった。

 彼は、ポケットの中の、あの黒いカードキーの冷たい感触を、確かめた。

 夢では、なかった。

 彼の、退屈で、平凡で、しかし完璧だったはずの日常は、もうどこにもない。

 その事実が、ずしりと重い鉛の塊となって、彼の胃のあたりに沈み込んでいくようだった。


 アパートの、軋む階段を上る。鍵を開け、自室のドアを開ける。

 そこにあったのは、いつもと同じ、六畳一間の散らかった部屋だった。脱ぎっぱなしの靴下、読みかけで放置された漫画雑誌、そして机の上に積み上げられた、手つかずの宿題のプリント。

 だが、その光景もまた、もはや彼に安らぎを与えてはくれなかった。

 彼は、まるで不法侵入者のように、おそるおそる自室へと足を踏み入れた。そして、まず最初に彼が取った行動は、カーテンを全て閉め切り、部屋の隅々まで、盗聴器や隠しカメラが仕掛けられていないかを確認することだった。

 もちろん、そんなものがあるはずもない。

 だが、彼の精神は、完全に蝕まれていた。

 霧島冴子の、あの最後の警告。『このことは、内密に』。

 あの言葉は、単なる忠告ではない。それは、呪いだ。

 彼は、もはやこの世界の何もかもを、信じることができなくなっていた。


(……腹が、減ったな……)


 彼の身体が、ようやく生理的な欲求を思い出す。彼は、冷蔵庫を開けた。中には、賞味期限切れ間近の牛乳と、萎びたキャベツしかない。彼は、ため息をつくと、棚の奥から最後の備蓄であるカップ焼きそばを取り出した。

 やかんで湯を沸かし、容器に注ぐ。三分間。

 その、あまりにも長く、そしてあまりにも退屈な待ち時間。

 以前の彼ならば、スマートフォンを取り出し、意味のない動画でも見て時間を潰していただろう。だが、今の彼には、その気力すらなかった。

 彼はただ、テーブルの上で湯気を立てるカップ焼きそばの容器と、その隣に無造作に置かれた、あの黒いカードキーを、交互に眺めていた。

(……これから、どうなるんだろうな、俺……)

 彼の、そのあまりにも人間的な問いに、答えてくれる者は、誰もいなかった。

 湯切りをし、ソースを混ぜ、青のりを振りかける。いつもの、慣れ親しんだB級グルメの匂い。

 彼は、その麺を、味も分からないまま、ただ機械的に口の中へと運び続けた。

 食事が、終わる。

 空になった容器を、ゴミ箱へと放り投げる。

 そして、彼はついに覚悟を決めた。

 彼は、自室の隅で埃をかぶっていたノートパソコンを開くと、電源を入れた。

 ファンが、唸りを上げる。見慣れたデスクトップ画面が、青白い光を放つ。

 彼が、これからやろうとしていること。

 それは、もしかしたら、霧島冴子が最も禁じた行為なのかもしれない。

 だが、彼はもう耐えられなかった。

 知らなければならない。

 自分に起きた、このあまりにも理不尽な出来事の、その正体を。

 そして、この世界が、本当にあの女の言った通り、狂ってしまっているのかどうかを。

 彼は、検索エンジンを開いた。

 そして、震える指で、最初のキーワードを打ち込んだ。


『アトラス財団』


 Enterキーを押す。

 表示された検索結果は、あまりにも「普通」だった。

『一般財団法人アトラス - 国際文化交流と発展途上国支援』

 その公式サイトは、どこにでもあるNPO法人のように、クリーンで、洗練されていて、そしてどこまでも当たり障りのない活動報告で埋め尽くされていた。アフリカの子供たちにワクチンを届ける、笑顔のボランティアの写真。ヨーロッパの古城で開催された、クラシックコンサートの告知。

 どこにも、超能力も、秘密の戦いも、神々の存在を示唆するような記述は、一欠片もなかった。

(……やっぱり、手の込んだ詐欺か……? いや、でも、あの力は……)

 涼は、次に霧島冴子の名前を打ち込んだ。

 結果は、ゼロ。

 完全に、存在しない人間。

 彼は、次に、自らが経験した現象を、キーワードとして打ち込み始めた。


『超能力 現実』

『確率 操作』

『人が消える 組織』


 だが、表示されるのは、ありふれたSF映画のレビューサイトや、オカルト好きのブログ、あるいは精神疾患に関する医療情報サイトばかり。彼が求める「真実」には、到底たどり着けそうになかった。

(……ダメか……)

 彼が、諦めかけた、その時だった。

 検索結果の、5ページ目。その、一番下。

 ほとんどの人間が決してクリックすることのない、その場所に、一つの奇妙なタイトルのサイトが、まるで隠れるように、ひっそりと存在していた。


『――裏世界クロニクル - あなたの日常は、誰かの非日常かもしれない』


 裏世界。

 その、あまりにも厨二病心をくすぐる、しかし今の涼にとっては、抗いがたい引力を持つ言葉。

 彼は、まるで禁断の果実に手を伸ばすかのように、そのリンクを、クリックした。


 §


 サイトのデザインは、ひどく古臭かった。黒い背景に、白い明朝体のテキスト。90年代の個人サイトを彷訪とさせる、時代遅れのレイアウト。

 だが、そこに書かれている内容は、涼の心臓を鷲掴みにするには、十分すぎるほどの熱量と、そして異様なまでの信憑性を帯びていた。

 サイトのトップページには、管理人と思わしき人物による、こんな書き出しの文章が掲載されていた。


『――このサイトは、真実を探求する者のための最後の聖域である。

 我々が生きるこの世界は、一枚の薄いヴェールによって覆われている。そのヴェールの一枚向こう側には、我々の常識が一切通用しない、もう一つの世界――『裏世界』が存在する。

 政府は、その存在を隠蔽している。メディアは、沈黙している。

 だが、それは確かに存在する。

 このサイトは、その裏世界の断片を、名もなき目撃者たちの証言を元に記録し、後世へと伝えるための、ささやかな抵抗の記録クロニクルである――』


 涼は、唾を飲み込んだ。

 そして、サイト内のカテゴリーを、一つ、また一つとクリックしていった。

『未確認生命体(UMA)目撃情報』、『オーパーツと古代文明の謎』、『フリーメイソンとイルミナティ』。

 最初は、ありふれた都市伝説サイトのように見えた。

 だが、彼は一つのカテゴリーの前で、指を止めた。


『――現代の魔法使いたち(アルターズ・ファイル)』


 彼は、震える指で、そのリンクをクリックした。

 そこに広がっていたのは、彼がここ数日間で経験した悪夢を、そのまま文字に起こしたかのような、信じがたい記事の数々だった。


 記事タイトル:『新宿に出現した、鉄腕の男。彼は、英雄か、怪物か』

 記事本文:『数年前、新宿の繁華街で、一台の暴走したタンクローリーが歩道に突っ込むという大事故が発生した。だが、死傷者はゼロ。なぜなら、そのタンクローリーは、突如として現れた一人のホームレス風の男によって、そのたった一本の腕で、正面から受け止められたからだという。男は、警察が到着する前に、雑踏の中へと姿を消した。これは、単なる噂話ではない。複数の目撃者が、同じ証言をしている。彼は、一体何者だったのか……』


 記事タイトル:『消える女 - 監視カメラの死角を歩く者たち』

 記事本文:『ロンドンの大英博物館で、厳重な警備をかいくぐり、国宝級の宝石が盗まれるという事件が発生した。だが、不可解なことに、監視カメラには一切、犯人の姿は映っていなかった。赤外線センサーにも、重量センサーにも、反応はない。まるで、幽霊が盗み出したとでも言うかのように。……だが、一部の専門家は言う。これは、幽霊ではない。自らの姿を、風景に完全に同化させるスキルを持つ、『カメレオン』と呼ばれるアルターの仕業ではないかと……』


 記事の一つ一つが、霧島冴子の言葉を、裏付けていた。

 涼の、その疑心暗鬼に満ちていた心が、少しずつ、少しずつ、恐怖の確信へと変わっていく。

 そして、彼はついに、その決定的な記事を見つけてしまった。


 記事タイトル:『『監視者ウォッチャー』の影 - あなたの記憶は、本当にあなたのものか?』

 記事本文:『世界には、超常的な事件や存在を隠蔽するための、巨大な秘密組織が存在するという噂が、まことしやかに囁かれている。彼らの通称は、『監視者』。あるいは、『沈黙の羊飼い』。黒いスーツに身を包み、常に二人一組で行動する彼らは、アルターが関与したと思われる事件現場に、必ず現れるという。そして、彼らは目撃者に対し、一切の暴力を用いることなく、ただ巧みな話術と、時には不可解な力を用いて、その記憶を『修正』していくのだ』


 そして、その記事の下には、何件もの、匿名による体験談が、掲示板のように書き込まれていた。

 涼は、その一つ一つの書き込みを、まるで憑かれたかのように、貪るように読んだ。


【体験談 #148:ハンドルネーム『通りすがりのサラリーマン』】

『信じてもらえないかもしれないが、聞いてくれ。

 先月、会社の帰りに、裏路地でとんでもないものを見てしまった。二人のチンピラ風の男が、一人の小柄な男に絡んでいたんだ。よくある光景だと思って通り過ぎようとしたら、その小柄な男が、ただ手をかざしただけで、チンピラ二人がまるで糸の切れた人形のように、同時にその場に崩れ落ちたんだ。念動力か何かだったのかもしれない。

 俺は、恐怖でその場に固まってしまった。

 数日後、俺の会社に、二人の男女が訪ねてきた。黒いスーツを着た、モデルのような美女と、岩のような大男。彼らは、アトラス財団の者だと名乗った。そして、俺を応接室に呼ぶと、こう言ったんだ。

「先日の夜、あなたは何も見ていません。あなたは、ただ仕事に疲れて、まっすぐ家に帰っただけです。そうですよね?」と。

 その女の瞳。あれは、人間のものじゃない。見つめられているだけで、魂が吸い取られるようだった。俺は、なぜかそれに逆らうことができず、ただ「はい」と頷くことしかできなかった。

 彼らが帰った後、不思議なことに、あの路地裏での記憶は、まるで古い夢のように、曖昧になっていた。

 だが、俺は覚えている。

 彼らは、確かに存在した。そして、彼らは、今もこの世界のどこかで、真実を闇に葬り続けている。

 忠告だ。もし、君が『見てはいけないもの』を見てしまったら、すぐに逃げろ。そして、全てを忘れろ。……彼らは、いつでも、どこでも、見ているぞ』


「…………ひ…………」


 涼の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。

 黒いスーツの美女と、岩のような大男。

 アトラス財団。

 間違いない。


 涼は、もはやパソコンの画面を見ていられなかった。

 彼は、背後の壁に叩きつけられるように、椅子ごとひっくり返った。

 アトラス財団。ウロボロス結社。

 霧島冴子が語った、あの荒唐無稽な物語は、全て、全て真実だったのだ。

 彼の、その最後の希望的観測は、無数の匿名の証言によって、完膚なきまでに粉砕された。


「……う……。あ……ああ……」


 パニック。

 過呼吸。

 彼の、その限界に達した精神状態。

 それが、引き金だった。

 彼の脳内で、無理やりオフにしていたはずの、あの忌まわしい能力のスイッチが、再び「オン」になった。

 視界が、再びあの無数の因果の糸で、汚染されていく。

 パソコンのモニターと、彼の脳を繋ぐ、おびただしい数の情報伝達の糸。

 その糸を辿っていくと、そのサイトのサーバーが海外のタックスヘイブンに置かれていること、そしてそのサーバーがさらに何重ものダミーを経由して、世界中の無数の匿名ユーザーへと繋がっている、その巨大なネットワークの全貌が見えてしまう。

 そして、そのネットワークの中に、ひときわ禍々しい、黒く、そして粘つくような悪意の糸を放っているノードが、いくつか存在していることにも、彼は気づいてしまった。

 ウロボロスの、エージェントたち。

 彼らもまた、このサイトを「観測」している。

 そして、その中の一本の黒い糸が、今、この日本の、この東京の、そしてこのアパートの、自分の部屋へと、確かに繋がっているのを、彼は見てしまった。

 監視されている。

「――ひっ!」

 涼は、悲鳴を上げて、ノートパソコンを閉じた。そして、電源コードを壁から引っこ抜いた。

 だが、もう遅い。

 彼は、知ってしまった。

 彼は、見てしまった。

 この、世界の、本当の姿を。


 彼は、震える手で、ポケットの中を探った。

 そして、あの黒い、何の変哲もないカードキーを、握りしめた。

 彼の脳裏に、霧島冴子の、あの美しい、しかし蛇のように冷たい瞳が蘇る。

『あなたはもう、以前の日常には戻れない』。

 そうだ。

 その通りだ。

 俺の、あの退屈で、平和だったはずの日常は、もうどこにもない。

 戻れる場所など、もうどこにもないのだ。

 そして、彼がこれから生きていく世界は、こんなにも理不-尽で、こんなにも悪意に満ちていて、そしてこんなにも、面倒なことばかりなのだ。

 ならば。

 ならば、俺がやるべきことは、もう一つしかない。

 彼は、ゆっくりと立ち上がった。

 その目には、もはや恐怖や混乱の色はなかった。

 代わりに宿っていたのは、全てを諦め、そして全てを受け入れた者の、静かな、しかし鋼鉄のような覚悟の光だった。

(……分かったよ)

 彼は、心の中で、まだ見ぬ敵と、そして自らの運命に向かって、呟いた。

(……やってやるよ。……望むところだ)


(俺の、その完璧だったはずの平穏な日常を、取り戻すためにな!)


 それは、英雄の誕生の瞬間ではなかった。

 それは、ただの臆病な少年が、自らの最も大切な「退屈」を取り戻すためだけに、仕方なく、本当に、本当に仕方なく、戦うことを決意した、あまりにも人間的な、決意表明の瞬間だった。

 彼の、非凡で、そしてどこまでも面倒な非日常が、今、確かに始まった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ