第4話 凪の思い出し方
高槻涼の、完璧だったはずの平穏な日常は、今、完全に、そして決定的に、終わりを告げた。
目の前に差し伸べられた、霧島冴子の、そのあまりにも美しい、しかしどこか人間離れした冷たさを感じさせる手。その背後に広がるのは、宝石を散りばめたかのように煌めく、しかしその一つ一つの光の下で、人知れぬ混沌が渦巻いている東京の夜景。
彼は、もう、後戻りができない場所にいる。
彼の信条であったはずの「事なかれ主義」。その、あまりにも脆い哲学は、この数日間で経験したあまりにも巨大な非日常の奔流の前に、為す術もなく粉々に打ち砕かれていた。
逃げるか?
どこへ? あの、「確率の魔術師」影山のような怪物が、世界の裏側で息を潜めている。警察に駆け込んだところで、誰がこの話を信じる? 精神病院に送られて、終わりだ。
では、このまま一人で生きていくのか?
いつ現れるとも知れない暗殺者の影に怯え、部屋中のありとあらゆるモノから伸びる、あの忌まわしい因果の糸に精神を蝕まれながら?
それは、生きながらの地獄だ。
彼の、卓越した危機回避能力が、今、人生で最も重大な結論を弾き出していた。
最も安全で、最も面倒が少ない選択肢。
それは、皮肉にも、目の前のこの最も面倒な世界の、そのど真ん中へと、自ら足を踏み入れること。
「…………分かりました」
涼の口から、掠れた、しかし確かな意志を宿した声が漏れた。
彼は、震える手を持ち上げた。そして、目の前に差し伸べられた冴子のその白い手を、まるで溺れる者が浮き木にすがるかのように、固く、固く握りしめた。
「……あなたたちの、話を、聞きます。……そして、協力します」
「……俺が、生き残るために」
その言葉を聞いた瞬間。
冴子の、そのアルカイックな微笑みを浮かべていた唇が、ほんの僅かに、しかし確かに、満足の色を浮かべて綻んだのを、涼は見逃さなかった。
「賢明な判断だわ、高槻涼君」
彼女の声は、どこまでも優しかった。だが、その声の奥底に、まるで優秀な駒を手に入れたチェスプレイヤーのような、冷徹な響きが潜んでいるのを、涼は確かに感じていた。
「ようこそ、アトラス財団へ。……ようこそ、本当の世界へ」
§
冴子に導かれるまま、涼はオフィスの奥にある、何の変哲もない書庫へと案内された。冴子が、その壁一面を埋め尽くす本棚の一冊、古代ギリシャ哲学の原書にそっと触れると、重々しい機械音と共に、本棚そのものが左右にスライドし、その奥に隠されたエレベーターホールが出現した。
まるで、スパイ映画だ。涼は、もはや驚く気力もなかった。
エレベーターは、階数表示のないまま、どこまでも、どこまでも深く、地球の核へと向かうかのように降下していく。やがて、長い下降の末に扉が開いた時、そこに広がっていたのは、先ほどの豪奢なオフィスとは全く対照的な、あまりにも無機質な空間だった。
壁も、床も、天井も、全てが継ぎ目のない真っ白な素材でできている。照明は、どこから照らされているのか分からない、影のできない柔らかな光で満たされていた。部屋の中央に、シンプルなテーブルと椅子が二脚置かれている以外、そこには何もなかった。
「ここは?」
「『ホワイトルーム』。アルターの初期訓練及び、精神カウンセリングを行うための施設よ」
冴子は、涼をその中央の椅子へと促した。涼が腰を下ろすと、まるで身体に合わせて形を変えるかのように、椅子が彼の体格に完璧にフィットした。
「さて、高槻君。あなたにはこれから、いくつかの訓練を受けてもらうことになるわ。戦闘技術、情報分析、そして何よりも、あなた自身のそのユニークなスキルを、完全に制御するための訓練をね」
冴子は、彼の対面に座り、その美しい指を組んだ。
「まずは、最初の訓練。そして、最も重要な訓練を始めましょう」
彼女の、そのあまりにも美しい瞳が、ふっと強い光を宿した。
「あなたのその能力の、『オン』と『オフ』を、完全にマスターすることよ」
「オンと、オフ……?」
「ええ。今のあなたは、いわば蛇口が壊れた水道のようなもの。常に、情報という名の水が、あなたの魂に垂れ流されている状態。……今の、あなたには、世界はどう見えている?」
その問いに、涼はごくりと喉を鳴らした。
彼は、この数日間、自らを苛み続けてきたその呪われた光景を、正直に語るしかなかった。
「……糸が、見えます」
「糸?」
「はい。色とりどりの、無数の糸が。この部屋の中にも……。あなたと俺を繋ぐ糸も、あなたとそのテーブルを繋ぐ糸も、この部屋の壁と、外の世界を繋ぐ糸も……。ネットを開けば、匿名のコメントの一つ一つが、誰かの悪意と繋がっている糸が見える。現実でも、ネットでも、もう、どこにいても……」
彼の声は、次第に弱々しくなっていった。それは、魂の悲鳴だった。
「……うるさくて、仕方がないんです。情報が、多すぎて……。頭が、割れそうになる……」
その、あまりにも切実な告白。
冴子は、それを静かに、そして深く共感するような瞳で見つめていた。だが、その心の奥底では、冷徹な分析官としての彼女が、涼のその言葉を正確に分析していた。
(……因果の、可視化。それも、物理的な事象だけでなく、概念的な繋がりまでを網羅する、広域知覚能力……。間違いない。これは、歴史上でも数えるほどしか報告例のない、最高ランクの『観測者』タイプのスキル。……大当たり、ね)
だが、彼女はそんな内なる計算を、おくびにも出さなかった。
「そう。それこそが、あなたのスキルの本質。そして、最初の呪いよ」
彼女の声は、どこまでも優しかった。
「あなたのスキルは、おそらく『因果律の可視化』。世界の全ての物事が、どのように繋がり、影響を及ぼし合っているのか。その、神の視点とも言うべき光景を、あなたは見てしまっている。……人間の、そのあまりにも脆い脳と魂で、その情報量を受け止め続ければ、どうなるか。……いずれ、あなたは壊れてしまうわ」
「だから、まず覚えなさい。その蛇口の、締め方を。……能力を、『オフ』にする方法を」
「……そんなこと、できるんですか」
「できるわ。なぜなら、ほんの数日前までのあなたは、それができていたのだから」
冴子は、静かに言った。
「思い出しなさい、高槻君。あなたの、あの完璧だった『凪』の日常を。……能力に目覚める前の、あの退屈で、平和だった世界を。……あなたの目には、糸なんて、一本も見えていなかったはずよ。……そうでしょう?」
糸なんて、なかった。
その言葉が、涼の脳内で木霊した。
そうだ。
確かに、そうだった。
数日前までの俺の世界は、もっとシンプルで、もっと分かりやすかった。
彼は、目を閉じた。
そして、必死に、その「何もない世界」を思い出そうと、努力した。
(糸は、ない。糸は、ない。糸は、ない……)
だが、ダメだった。
意識すればするほど、逆に、瞼の裏で明滅する無数の糸の存在が、より一層強く、鮮明になっていく。まるで、「ピンクの象のことを考えるな」と言われれば言われるほど、その姿が頭から離れなくなるように。
「……っ……!」
頭痛が、してきた。こめかみが、内側から針で突き刺されるように、ズキズキと痛む。
「……だめです……。逆に、酷くなる……」
「焦らないで」
冴子の、静かな声が、彼の混乱した思考に浸透してくる。
「『考えない』と、思うのではなくて。『思い出す』のよ。無理やり、糸を消そうとするのではないわ。ただ、あなたがかつて見ていた世界を、その時の『感覚』を、魂の底から呼び覚ますの」
感覚。
涼は、必死に記憶の糸を手繰り寄せた。
あの、退屈だった教室の風景。
西日に照らされた、埃の舞う空気。
友人たちの、意味のない笑い声。
窓の外を流れていく、白い雲。
そうだ。
あの時、俺は。
俺の魂は、確かに、凪いでいた。
彼は、その時の、あのどうしようもなく退屈で、しかし今は失われてしまったかけがえのない平穏な心の状態を、必死に、必死に、思い出そうとした。
(……糸なんて、なかった)
(……世界は、ただ、そこにあるだけだった)
(……俺は、ただの観客で、それで良かったんだ……)
彼の、そのあまりにも切実な願い。
それが、引き金だった。
彼の脳内で、何かが「カチリ」と音を立てて切り替わるような感覚。
そして。
すぅっと、彼の視界を汚染していた全てのノイズが、まるで朝霧が晴れるかのように、綺麗に、完全に、消え去った。
彼は、ゆっくりと瞼を開いた。
そこに広がっていたのは、ただの、真っ白な部屋だった。
糸は、一本も、見えない。
目の前に座っている霧島冴子も、ただの美しい女性にしか見えない。彼女と自分を繋ぐ、あの複雑に絡み合った因果の糸は、どこにもない。
「…………あっ…………」
涼の口から、安堵のため息が漏れた。
「……消えた……。糸が、消えました……!」
彼は、子供のように、その純粋な喜びを口にした。頭痛も、吐き気も、嘘のように消えている。世界が、こんなにもシンプルで、こんなにも静かだったなんて。
「ええ。上手くいったようね」
冴子は、満足げに微笑んだ。
「おめでとう、高槻君。これで、第一段階はクリアよ」
彼女は、立ち上がった。
「今日は、このくらいにしておきましょうか。あなたの魂は、まだこの急激な変化に慣れていない。あまり、根を詰めすぎるのは良くないわ」
「……はい」
涼もまた、ふらつきながら立ち上がった。
「あの……」
彼は、おずおずと尋ねた。
「俺は、これから、どうすれば……」
「そうね」
冴子は、少しだけ考える素振りを見せた。
「あなたは、高校生だったわよね? ご両親は?」
その問いに、涼は正直に答えた。
「両親は、仕事の都合で、去年から海外に住んでいます。……今は、このアパートで一人暮らしです」
その答えを聞いた瞬間。
冴子の、その穏やかだった瞳の奥に、ほんの僅か、しかし確かに、冷徹な計算の光が宿ったのを、涼は見逃さなかった。
(……一人暮らしか。……親の介入もない。……実に、都合が良いわね)
だが、その思考は、決して彼女の口から漏れることはなかった。
「そう。それは、大変だったわね」
彼女は、ただ、同情的な声でそう言った。
「じゃあ、とりあえず、今日のところは自宅に帰りなさい。学校には、普通に通ってくれて構わないわ。ただし」
彼女は、人差し指を一本立てた。
「学校が終わったら、またここに来てくれるかしら? あなたの訓練は、まだ始まったばかりよ」
彼女は、ポケットから一枚の、黒いカードを取り出した。そこには、何の文字も、模様も刻印されていない。ただ、漆黒のプラスチックの板。
「カードキーよ。あのビルの、隠しエレベーターでこれをかざせば、ここまで直接来られるわ」
「……ありがとうございます」
涼は、その重い、そして冷たいカードキーを受け取った。それは、彼がもう二度と日常には戻れないという事実を突きつける、契約書のようだった。
「じゃあ、家まで車で送らせるわ。……ああ、それと」
冴子は、エレベーターの前で立ち止まり、最後に、釘を刺すように言った。その声には、もはや先ほどまでの優しさはなかった。それは、組織の指揮官としての、絶対的な命令の響きを持っていた。
「分かっているとは思うけれど。今日、あなたが見たこと、聞いたこと、その全てが、国家最高レベルの機密事項よ。友人にも、もちろんネットの匿名掲示板にも、決して書き込んだりしないこと。……もし、この契約を破れば、どうなるか。……聡明なあなたなら、分かるわよね?」
その、あまりにも美しい瞳が、蛇のように、冷たく光った。
涼は、ただ、こくこくと頷くことしかできなかった。
「……はい」
「よろしい」
冴子は、満足げに微笑んだ。
そして、エレベーターの扉が、再び彼らの後ろで静かに閉ざされていった。
§
帰り道。
再び、あの高級車の後部座席に揺られながら。
涼は、窓の外を流れる、見慣れたはずの自分の街の風景を、ただ呆然と眺めていた。
コンビニの、けばけばしい光。
ファミレスの窓越しに見える、楽しそうな家族の団欒。
駅へと向かう、無数の人々の群れ。
その全てが、まるで分厚いガラスの向こう側にある、自分とは全く無関係な世界の出来事のように見えた。
彼は、ポケットの中の、あの黒いカードキーの冷たい感触を、確かめた。
彼の、退屈で、平凡で、しかし完璧だったはずの日常は、もうどこにもない。
その代わりに彼が手に入れたのは、世界の裏側の真実と、そして自らの命を守るための、戦いという名の新しい「非日常」。
(……これから、どうなるんだろうな、俺……)
彼の、そのあまりにも人間的な問いに、答えてくれる者は、誰もいなかった。
ただ、彼の魂の奥底で、先ほどまで完全に消え去っていたはずの、あの無数の因果の糸が、再び、まるで出番を待ちわびる役者たちのように、静かに、そして確かな存在感を放ちながら、蠢き始めているのを、彼は確かに感じていた。
彼の、本当の物語は、まだ始まったばかりだった。