お仕事は百物語です
第一章:そのプロジェクトは、古文書(コピ-)から始まった。
「――というわけで、桜味くん。今年の夏の社内コンペ企画、君に任せることにしたから」
株式会社大日本イベント、第二企画営業部。
入社一年目の桜味真央は、仏頂面の塊みたいな部長にそう告げられ、元気よく返事をした。
「はいっ! がんばります!」
大手イベント会社に入社して半年。電話応対とコピー取りばかりだった日々に、ようやく光が差した。初めて任される、自分の企画。真央の胸は、希望で風船のように膨らんでいた。
「して、その企画なんだが」
部長は、机の引き出しから、古びた和綴じの本……の、明らかにコピーを取ったであろう、ヨレヨレの紙束を取り出した。
「これを、やりたまえ」
「は、はあ……。これは……?」
「厳格に、古式に則った、『百物語』だ」
百物語。怪談話のアレだ。真央の頭に、修学旅行の夜、布団をかぶって友達と騒いだ、楽しい思い出が蘇る。
(なーんだ、社内の親睦会みたいなものか! それなら、あたしにもできるかも!)
「承知いたしました! 会議室の予約と、お菓子とジュースの買い出しですね!」
「違う」
部長の、地を這うような低い声が、真央の楽観論を叩き割った。
「これは、遊びではない。仕事だ。そこに書かれている手順通り、寸分違わず、執り行うように」
「……は、はい」
「場所は、寺。蝋燭は、百本。話も、百話。全て、本物を用意したまえ。いいね?」
本物?
真央は、手渡された古文書コピーに目を落とした。達筆すぎる崩し字で、何が書いてあるのか、さっぱり分からない。ミミズが、墨汁の上で集団自殺でもしたかのような有様だ。
「あ、あの、部長……。これ、なんて書いてあるんでしょうか……?」
「……読めんのか。まあ、いい」
部長は、内線電話の受話器を取った。
「古賀。ちょっと、こっちに来てくれ。ああ、そうだ。お前の、新しい仕事だ」
数分後。第二企画営業部のデスクで、真央は、目の前に座る男を前に、背筋を伸ばしていた。
古賀耕助、59歳。この道30数年の、現場一筋ベテラン社員。コーヒーと煙草の匂いが染みついた作業着がトレードマークの、生きる昭和遺物。社内で、鬼の古賀さん、と密かに呼ばれている男だった。
「……で、なんだ。俺が、この嬢ちゃんのお守りをしろってか、部長は」
古賀は、心底面倒くさそうに、真央と、机の上の古文書コピーを、交互に睨んだ。
「そ、そんな! お守りだなんて! これは、私が責任者として進める、由緒正しきプロジェクトでして……!」
「プロジェクト、ねえ。で、その“ぷろじぇくと”の企画書は、どこにあるんだ」
「こ、これです!」
真央は、昨夜、一生懸命作った企画書(A4一枚)を、自信満々に差し出した。
そこには、可愛いオバケのイラストと共に、こう書かれていた。
【☆わくわく!真夏の百物語ナイト☆】
・目的:みんなで怖い話をして、仲良くなる!
・場所:会社の会議室
・用意するもの:お菓子、ジュース、ロウソク(10本くらい?)、怖い話
古賀は、その紙を、虫でも見るかのような目で一瞥すると、深々と、長いため息をついた。
「……桜味、だったか」
「はい! 桜味真央です!」
「お前、本気で、これをやるつもりか」
「はい! 部長のご命令ですので!」
「……そうか」
古賀は、ガシガシと頭をかきむしり、もう一度、深いため息をついた。
「いいか、嬢ちゃん。仕事ってのはな、まず、敵を知ることから始まるんだ。お前の敵は、この、ミミズののたくったみたいな紙だ」
彼は、古文書コピーを指さした。
「部長が『厳格にやれ』って言ったんだ。なら、そこに書いてあることが、このプロジェクトの全てだ。まず、これを解読しねえと、お菓子を買いに行くことすらできねえ。分かったか」
「は、はい……!」
こうして、新米社員・桜味真央と、ベテラン社員・古賀耕助の、前代未聞の「プロジェクト百物語」が、静かに、そして、とんでもなく面倒くさく、幕を開けたのだった。
第二章:そのプロジェクトは、稟議書から始まった。
「――で、解読できたのか。その古文書は」
翌日。古賀は、目の下にクマを作った真央に、呆れたように言った。真央のデスクの上には、古語辞典や、崩し字の解読本が、山のように積まれている。
「だ、ダメです……。『……然れば、百番目の灯火、消ゆる時、かのもの、姿を現さん……』くらいしか……」
「ちっ、使えねえな」
古賀は、真央から古文書コピーをひったくると、眉間に深いシワを寄せた。
「……貸してみろ。昔、じいさんが書道の先生やっててな。少しは、読める」
意外な特技だった。古賀は、スラスラと、古文書の内容を解読し始めた。その内容は、真央の想像を遥かに超える、およそ会社のイベントとは思えない、おどろおどろしいものだった。
「……『場所は、清浄なる寺院の一室』『青き畳を敷き、その中央に、百本の和蝋燭を円形に並べる』『語り手は、身を清め、白き衣を纏うべし』……おいおい、マジかよ」
「わ、和蝋燭……?」
「ああ。普通の洋蝋燭じゃねえ。一本数千円はする、アレだ」
「ひゃ、百本も!?」
経費で落ちるのだろうか、と真央は本気で心配になった。
「それだけじゃねえぞ。『話は、実際にあった怪異譚でなければならぬ』『百話目が終わるまで、何人たりとも、部屋から出ることを許さず』……おい、桜味。これ、部長は、本気でやるつもりらしいぞ」
「そ、そんな……」
真央は、ようやく、自分がとんでもないプロジェクトに足を突っ込んでしまったことに気づき、顔面蒼白になった。
数日後。
古賀が、分厚い企画書と、山のような稟議書を書き上げてきた。古文書の難解な言葉は、全て、現代のビジネス用語に翻訳され、ご丁寧にルビまで振ってある。
【企画名:伝統的怪談会『百物語』の再現と、それに伴う体験価値の提供プロジェクト】
【実施要項】
・会場候補:臨海宗大本山・海善寺(要交渉)
・必要リソース(抜粋):
和蝋燭:100本(老舗『中村蝋燭店』に見積もり依頼中)
語り手:20名(1人5話想定。怪談作家・民俗学者等にアポ取り開始)
消防設備:消火器20基、火災報知器の増設(消防署との協議必須)
「……古賀さん、すごいです……」
「当たり前だ。仕事だからな」
古賀は、ぶっきらぼうにそう言うと、一つの書類を真央の前に突き出した。
「で、最初の仕事だ。お前、海善寺の住職に、アポ取ってこい。会場がなきゃ、話にならん」
「わ、私がですか!?」
「ったりめえだろ。お前が、このプロジェクトの担当なんだからな」
真央は、震える手で、受話器を取った。
ここから、彼女の、そして古賀の、地獄のような根回しと、各所調整の日々が始まることになる。
最初の関門は、海善寺の、やたらと人の良い、九十歳のおっとり住職だった。
第三章:そのプロジェクトは、想定外の連続から始まった。
海善寺の住職、田所さん(92歳)は、真央が想像していた「お寺の偉い人」とは、だいぶ趣が異なっていた。縁側で日向ぼっこをしながら、煎餅をかじっている姿は、どちらかというと、真央の田舎の祖父にそっくりだった。
「――というわけでして、当社の新規事業の一環として、こちらの本堂をお借りしたく……」
真央が、練習してきた完璧な営業トークを繰り出す。隣では、鬼の形相の古賀が、A4サイズの企画書を見開きで広げている。
「……ほう」
田所住職は、煎餅をかじる手を止め、ゆっくりとこちらを見た。耳が遠いのか、反応が薄い。
「つきましては、会場利用料として、当社規定のフィーをお支払いし……」
「……要するに、だ」
真央の言葉を遮り、古賀が、住職にも聞こえる大きな声で言った。
「じいさん、この本堂で、一晩中、火を焚かせろ。そういうこった」
「古賀さん! なんて言い方を!」
「こっちの方が、早えだろ」
すると、田所住職は、にこりと、穏やかに笑った。
「ああ、そういうことかね。いいですよ」
「えっ!?」
あまりにあっさりとした承諾に、真央は拍子抜けした。
「ほ、本当によろしいのですか!? 百本の和蝋燭を、畳の上で……」
「うん。畳は、まあ、張り替えりゃええし」
「一晩中、人の出入りを禁じて、百の怪談を語り続けるのですよ!?」
「うん。夜は、まあ、ヒマじゃし」
「お、お化けとか、出たら……」
「うん。出たら、まあ、その時は、その時じゃな」
真央は、この住職の「想定」の範囲が、宇宙のように広大であることに、畏敬の念を抱いた。
ただ、一つだけ、住職は、譲れない条件を出した。
「……蝋が垂れて、床が汚れるのは、かなわんのう」
「はあ」
「イベントが終わったら、本堂の床、三百畳。全部、米ぬかで、手で、磨いていってくだされ。そうすりゃ、貸してあげます」
かくして、最初の関門は、「イベント後の、全員参加の、地獄の床磨き」という、企画書にはないタスクを追加することで、なんとか突破された。
第四章:そのプロジェクトは、消防法との戦いから始まった。
次の関門は、役所だった。具体的には、消防署である。
「ですから、ダメなものは、ダメなんです」
窓口の、定規で測ったような七三分けの消防士は、真央が差し出した「火気使用許可申請書」を、鼻で笑った。
「まず、会場が木造建築物。この時点で、通常業務用の許可は下りません」
「そ、そこをなんとか……!」
「次に、蝋燭百本。正気ですか? 熱源の数が多すぎる。熱気球でも打ち上げるおつもりで?」
「ち、違います!」
「極めつけは、この添付資料。なんですか、これは。『古式に則り、百話目が終わるまで、扉は固く閉ざす』? 消防法、ご存知? 避難経路の確保は、義務ですよ。これでは、許可など、天地がひっくり返っても出せません」
真央は、三日間、消防署に通い詰めた。毎日、違う理由で、申請書を突き返された。
「蝋燭一本一本の、正確な燃焼時間を分単位で記述してください」
「万が一、本物の怪異が出現した場合の、避難誘導マニュアルがありませんね」
「そもそも、あなたのその服装、燃えやすい素材でしょう。申請者として、自覚が足りない」
四日目の朝。デスクで突っ伏して泣いている真央を見かねて、古賀が、重い腰を上げた。
「……貸せ。俺が行ってくる」
古賀は、真央が作った申請書をビリビリに破くと、PCに向かい、猛烈な勢いで、新しい書類を作り始めた。そこには、もはや、ロマンも、伝統も、かけらもなかった。
【『伝統文化再現イベント』における、複数熱源設置に関する、防火安全計画報告書】
熱源(和蝋燭)は、不燃性のガラス筐体に格納し、周囲に防炎シートを設置。
各熱源間に、消防法で定められた、1.5m以上の間隔を確保。
会場の扉は、電磁ロックで施錠。火災報知器と連動し、有事の際は、0.2秒以内に全ロックが自動解除される。
会場内には、赤外線サーモグラフィを設置し、室温をリアルタイムで監視。
非公式リスク(超常現象)の発生時は、本イベントを『特殊効果を利用した、心理的イリュージョンショー』と定義し、観客の混乱を最小限に抑える。
「……古賀さん。これ、もう、百物語じゃないです。ただの、IT管理された、何かです」
「うるせえ。通れば、官軍だ」
一時間後。古賀は、消防署の「許可」の印が押された書類を手に、何事もなかったかのように、帰ってきた。あの七三分けの消防士は、古賀の完璧な報告書を前に、ぐうの音も出なかったという。
第五章:そのプロジェクトは、見積書との睨み合いから始まった。
会場と、許可が下りた。だが、本当の地獄は、ここからだった。
「……古賀さん。これ、なんですか。この、ゼロの数は」
真央は、中村蝋燭店の四代目と名乗る、頑固そうな職人から送られてきた見積書を見て、震えていた。手作りの高級和蝋燭百本。その値段は、真央の年収の、約半分だった。
「だから言ったろ。本物は、高いんだよ」
「で、でも、こんなの、経理が、絶対に通してくれません!」
「だろうな。だから、これから、この爺さんを口説き落としに行くんだよ」
彼らは、新幹線に乗り、人里離れた山奥にある、蝋燭工房へと向かった。四代目は、彼らの顔を見るなり、こう言った。
「あんたらみたいな、イベント屋に、うちの蝋燭は売れん」
「なっ……!」
「うちの蝋燭にはな、魂がこもってんだ。百の物語の、最後の灯火を、お遊びで灯してもらっちゃ、困るんでい」
そこから、古賀の、意外なプレゼンが始まった。彼は、この百物語が、単なるイベントではないこと。失われゆく日本の伝統文化を、現代に蘇らせる、意義深いプロジェクトであることを、無骨な言葉で、しかし、熱っぽく語った。その姿は、いつもの鬼の古賀さんではなく、仕事を愛する、一人のベテラン職人のようだった。
四代目の職人は、黙って、その話を最後まで聞くと、ふっと、笑った。
「……気に入った。半値で、いい。その代わり、最高の蝋燭を作ってやる。一本の蝋燭が消える時間が、きっかり、五分になるように、調整してやらあ」
こうして、最大の懸案だった蝋燭問題は、古賀の意外な人情味によって、解決された。
残るは、百の怪談と、その語り手だ。
これもまた、困難を極めた。怪談作家や、民俗学の教授、果ては、話術を学ぶために、落語家にまで、頭を下げて回った。
全ての準備が、終わった。
イベント開催、前夜。
真央は、ホワイトボードに、完璧なタイムテーブルを書き出していた。
「……古賀さん! 見てください! これで、完璧です!」
【百物語プロジェクト・進行タイムテーブル】
20:00 開会
20:05 1話目開始
20:08 2話目開始
……(中略)……
03:50 99話目終了
3:53 100話目開始
03:56 100話目終了
04:00 閉会
そこには、1話3分、話の入れ替え2分として計算された、緻密なスケジュールが、びっしりと書き込まれていた。
古賀は、その完璧なタイムテーブルを、腕組みをしながら、じっと見ていた。そして、一言、真顔で、こう呟いた。
「……なあ、桜味」
「はい!」
「トイレ休憩は、どこだ?」
真央は、ホワイトボードと、古賀の顔を、交互に見た。
そして、血の気が引いていくのを感じた。
八時間、ノンストップ。出入り禁止。
トイレ休憩が、ない。
「……あ」
プロジェクト最大の危機は、怪異でも、炎上でもなく、極めて、人間的な問題だった。
第六章:そのプロジェクトは、仕様変更(トイレ問題)から始まった。
「……古賀さん、どうしましょう……」
「どうするもこうするもねえだろ。今からでも、タイムテーブルに『厠休憩』をねじ込むんだよ」
イベント前夜、第二企画営業部のオフィスは、野戦病院のような様相を呈していた。
真央と古賀、そして数名の応援スタッフが、血走った目で、完璧だったはずのタイムテーブルを、泣きながら修正している。
「でも、部長が、『厳格に、古式に則って』と……。途中で休憩なんて入れたら……」
「アホか。昔の人間は、その辺の草むらでしてたんだよ。三百人の観客に、それをやらせる気か、お前は」
「そ、それは、コンプライアンス的に……!」
「だろ? なら、俺たちのコンプライアンスは、部長の無茶ぶりより、観客の膀胱を優先する。以上だ」
古賀の鶴の一声で、プロジェクトの最重要課題は、「怪異の発生」から「観客の尊厳維持」へと、正式に変更された。
結局、「厠休憩」は、前半50話と後半50話の間に、きっかり15分ずつ、設けられることになった。その間、本堂の扉は開け放たれ、外の空気に触れることが許可される。
「……いいんですかね。これで、儀式の効果が、薄れたりしないんでしょうか」
「知るか。俺たちは、イベント屋だ。坊主でも、神主でもねえ」
古賀は、そう吐き捨てると、修正された真っ赤な進行表を、忌々しげに睨んだ。
「それより、桜味。一番大事なことを、言っておく」
「はい!」
「何があっても、絶対に、百話目を終わらせるな」
「え?」
「古文書にも、書いてあっただろ。『百番目の灯火、消ゆる時、かのもの、姿を現さん』ってな。つまり、99話で止めときゃ、何も起きねえってことだ」
「で、でも、それじゃ、プロジェクトが未達に……!」
「いいか。仕事ってのはな、時に、完璧にやり遂げない方が、丸く収まることもあるんだ。覚えとけ、嬢ちゃん」
その時の古賀の目が、やけに真剣だったことを、真央は、まだ、深く理解できていなかった。
第七章:そのプロジェクトは、闇の深度から始まった。
百物語、当日。
海善寺の本堂は、異様な熱気に包まれていた。三百人の観客が、固唾を飲んで、中央に円形に並べられた、百本の和蝋燭を見つめている。午後八時、きっかり。古賀の合図で、全ての蝋燭に、火が灯された。
ゆらり、と。百の炎が、巨大な生き物のように、本堂の闇を揺らした。
最初の語り手は、有名な怪談作家だった。彼の巧みな話術に、会場は引き込まれる。一話目が終わり、彼自身の手で、一本の蝋燭が、ふっと、吹き消された。闇が、百分の一、その深度を増す。
二人目、三人目。民俗学の教授、怪談好きの落語家、曰く付きの事故物件に住む主婦。用意された語り手たちが、次々と、珠玉の怪談を披露していく。
真央は、進行管理席で、ストップウォッチを片手に、必死にタイムキーパーを務めていた。古賀は、会場の隅で、消火器を抱え、鬼のような形相で、蝋燭の火と、観客の顔を、交互に睨んでいる。
全ては、計画通りだった。完璧な、プロジェクト進行。
異変が起き始めたのは、休憩を挟み、後半の部。残りの蝋燭が、三十本を切ったあたりからだった。
「……なんか、寒くないか?」
インカムから、音響スタッフの、震える声が聞こえた。
本堂の中は、蝋燭の熱で、むしろ暑いくらいのはずだった。だが、肌を刺すような、冷たい空気が、床下から這い上がってくる。空調は、とっくに切ってある。
二十本。影が、おかしい。
蝋燭の炎が揺れるたびに、壁や柱に映る影が、炎の動きとは、明らかに違う、独自の意思を持ったかのように、蠢く。
十本。声が、混ざる。
語り手の、朗々とした声に、混じって、マイクが拾うはずのない、微かな、女の囁き声のようなものが、聞こえ始める。
「……ノイズか?」「……いや、違う……なんだ、これ……」
音響スタッフが、パニックに陥り始める。真央は、背筋を、冷たい汗が伝うのを感じた。これは、演出じゃない。古賀の言っていた、「本物」だ。
そして、残りの蝋燭が、二本になった。九十九話目。
語り手は、白髪の、老民俗学者だった。彼は、この地方に古くから伝わる、「朧様」と呼ばれる、怪異の話を始めた。
「……朧様は、人の形をしておるが、人ではない。それは、百の物語を喰らい、人の想念を糧として、この世に、姿を現す……」
老学者の声が、震えている。彼は、目の前の闇の中に、「何か」を見ていた。
「その姿を見たものは……決して……」
その瞬間。老学者は、言葉を詰まらせ、「ひっ」と、短い悲鳴を上げた。
彼の口から、ふわり、と。黒い、蝶のようなものが、飛び出した。それは、音もなく、最後の二本の蝋燭のうち、一本の炎を、かすめて消した。
老学者は、白目を剥き、その場に、崩れ落ちた。
残る蝋燭は、一本。
残る物語は、一つ。会場が、パニックで、爆発した。悲鳴と、怒号。真央は、真っ白になった頭で、進行表を握りしめていた。そこには、こう書かれている。
『20. 100話目語り手、スタンバイ』
プロジェクトを、完遂させなければ。
会社員として、担当者として、最後のキューを、出さなければ。
真央が、インカムのマイクに、手をかけた、その時だった。
「――遂に、時が来た」
静まり返った本堂に、凛とした、声が響いた。
いつの間にか、最後の蝋燭の隣に、一人の男が、立っていた。
このプロジェクトの、企画者。
部長、その人だった。
彼は、恍惚とした表情で、最後の蝋燭が揺らめく闇を、見つめていた。
「我が一族の悲願、江戸の残光、ここに蘇らん。来たれ、朧様。今こそ、この穢れた世を、あなたの御力で……」
部長の言葉は、狂気に満ちていた。
この百物語は、イベントではなかった。江戸時代から続く、秘密結社「朧会」が、怪異を呼び覚ますための、壮大な「儀式」だったのだ。
「さあ、桜味くん。最後の物語を、始めるのだ。君が、この儀式の、最後の巫女となれ」
部長が、真央に向かって、手を差し伸べる。
もう、駄目だ。終わった。
そう、真央が、全てを諦めかけた、その時。
「――させっかよ、バーカ」
部長の前に、古賀が、立ちはだかった。その手には、消火器が、固く、握りしめられていた。
最終章:そのプロジェクトの完了報告書は、提出されなかった。
「――させっかよ、バーカ」
古賀の、ドスの利いた声が、静まり返った本堂に響いた。
部長は、ゆっくりと、その声の主を振り返る。その目は、自らの神聖な儀式を邪魔されたことへの、冷たい怒りに燃えていた。
「……古賀くん。君も、我が『朧会』の、大いなる悲願の、邪魔をするかね」
「おぼろ……? ああ、あの古文書にあったやつか。知るか、そんなもん。俺は、大日本イベント第二企画営業部の、古賀耕助だ。俺の仕事はな、イベントを、無事に、終わらせることだ。客にも、スタッフにも、怪我人一人、出さずにな」
古賀は、消火器の安全ピンに、指をかけた。
「桜味! プロジェクトの責任者は、お前だ。どうする。決めろ。話者じゃない俺が消せば、それでおさまる。それがこの百物語のルールだ」
「わ、私……?」
真央は、震えながら、部長と、古賀を、交互に見た。
部長は、恍惚と、世界の変革を語る。
古賀は、面倒くさそうに、イベントの安全を語る。
会社員として、プロジェクト担当者として、完遂を命じられたこの「儀式」を、終わらせるべきか。
それとも、一人の人間として、この狂った状況を、終わらせるべきか。
彼女は、ボロボロになった進行表を、ぎゅっと握りしめた。そこには、彼女が、そして古賀が、奔走した日々の、汗と涙の跡が、染み付いている。寺の住職の、穏やかな顔。消防署の、七三分けの顔。蝋燭職人の、頑固な顔。
(――そうだ。これは、あたしの、プロジェクトだ)
真央は、顔を上げた。その目には、もう、怯えはなかった。
「部長。申し訳ありませんが、本日のイベントは、これにて中断とさせていただきます」
「……何?」
「危険が、発生しました。担当者として、お客様と、スタッフの、安全を、最優先します!」
「愚かな……!」
部長が、最後の蝋燭に向かって、駆け出した。自らが、百話目の語り部となり、儀式を完成させるつもりだ。
本堂が、激しく、揺れる。天井から、黒い煤のようなものが、ぱらぱらと、降り注ぐ。最後の蝋燭の炎が、人の背丈ほどに、燃え上がった。闇の奥で、名状しがたい「何か」が、産声を上げようとしている。
だが、古賀の方が、一瞬、早かった。
彼は、部長にタックルするでもなく、殴りかかるでもなく、ただ、極めて冷静に、業務を遂行するように、消火器のレバーを引いた。
ブシュウウウウウウッ!
白い消火剤の泡が、一直線に、最後の蝋燭へと、叩きつけられた。
最後の炎は、あっけないほど、簡単に、闇に飲まれた。
途端に、本堂の揺れが、ピタリと、止んだ。
天井からの煤も、止まっている。闇の奥で、何かが、心底残念そうに、ため息をついたような気がした。
後に残されたのは、完全な闇と、泡まみれの部長と、呆然とする観客、そして、消火器を構えたまま、仁王立ちする古賀の姿だけだった。
エピローグ
翌朝。
イベントは、「最新の特殊効果と、予期せぬ電源トラブルが重なった、ハプニング演出」として、一部のオカルトマニアの間で、伝説となった。会社の広報部は、火消しに追われ、てんてこ舞いだ。
部長は、建造物損壊と、威力業務妨害の容疑で、警察に連行されていった。彼は、パトカーに乗る直前、真央に向かって、にこりと笑い、「生きている限り、何度でも、やり直せますよ。朧会のメンバーは、会社上層部どころか、行政、司法の現場にもいるのだ」と言い残した。
真央と古賀は、朝日が昇る中、海善寺の縁側で、二人並んで、座っていた。三百畳の床磨きは、まだ、半分も終わっていない。
「……古賀さん」
「……なんだ」
「あたしたち……来年も、これ、やるんでしょうか……」
真央は、心底、怯えた声で、尋ねた。
古賀は、煙草に火をつけ、紫煙を、朝の空に、細く、吐き出した。
「……さあな。だが、俺は、来年で定年だ」
「えっ!?」
「だから、まあ、なんだ。次の“火消し役”は、お前だな、桜味」
古賀は、そう言って、ニヤリと笑った。
真央は、想像した。来年、自分が、鬼の形相で、消火器を抱えて、走り回る姿を。
そして、思わず、ぷっと、吹き出してしまった。
空は、どこまでも、青かった。
九十九の物語が解き放たれ、たった一つの物語が、後に残された、夏の日だった。
(完)