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レシェルのマリア

 世界中がデトルアントという生命体に汚染されて幾星霜、人類は極く限られた地域にその生存圏を狭められていた。東の深い渓谷、西の大きな内海、北の高原、南の砂漠に囲まれた東西八〇キロ、南北二〇〇キロ程の細長い地域を、残された人類はイズレル地区と呼んでいた。

 深い渓谷の北端、キネレル湖の畔の街レシェルにて、今一人の少女が養父母に別れを告げようとしていた。

「お父さん、お母さん。今迄育ててくれてありがとう」

 ここ数日泣き続けた痕が両の瞼に残る様が痛々しい。しかしその緑の瞳には迷いの色は見えなかった。少女の目の前には老齢の夫婦が悔しさと苦悩に顔を歪めて立っていた。

「なんでこんなことになったの。マリアが何をしたっていうのっ」

老婆の悲痛な嘆きに、老爺は老婆の肩を抱きながら諦めたような声で応える。

「詮無いことだ。徴が現れてしまったからには……言い伝えに従う他あるまい」


 数日前、マリアの十六回目の誕生日にその徴は現れた。左肩に現れた青い蝶の痣。それは残された人類に伝わる、”変える者”の徴だった。

 かつて、今と同じようにデトルアントが蔓延し人類の存続が危ぶまれた時に現れた存在、それが”変える者”だった。”変える者”は左肩に青い蝶の痣を持っていたという。そして奇跡のような御業を行使してデトルアントを退け天に還った、と伝えられていた。また、何時か徴を持つ者が現れた時、その者は一人マグダエルの丘で再び御業を行わなければならない、とも言い伝えられていたのだった。

 今となっては、どの様な御業が行われたのか詳細は誰も知らない。ただ、全てが光に包まれ彼らは退けられた、と言い伝えられているのみだった。 何を成すのかも知れず、何が起るのかも分からない死出の旅にたった一人で出さなければならない、そんな不安と苦悩にこの数日親子は苛まれ続けていた。


「お父さん、お母さん。何をしないといけないか分りません。何ができるのかも別りません。そこで死ぬのかもしれません。そもそもマグダエルに無事に辿り着けるのかも……。とても不安で心細いです。考えれば考える程、頭がおかしくなりそうです」

 マリアの言葉一つ一つに、老夫婦は自分達の腑甲斐無さに奥歯を噛み締めながら頷く。

「でもわたしが行かないことには何も始まらない、ということだけは分ります。このままでは人々が全ていなくなってしまうのでしょう」

 次第に嘆きの声から熱の籠ったそれへと変わっていくマリアの表情は、静かな、しかし固い決意を込めて締め括られた。

「だから、わたしは、行きます。それが使命だからでなく、わたしが後悔したくないから」

 娘の決意に老夫婦は悲嘆の涙を溢れさせる。今迄育ててきて楽しかったこと、苦労したことを思い起しながら。

「マリア、私達にたくさんの幸せな思い出を残してくれてありがとう」

 涙でくぐもっる声で感謝を伝える老婆。

「マリアがこの街に来てもう十六年もたったのだね。立派になったものだ」

 過去を懐しむような惜しむような老爺。


 マリアの旅立ちの日は雲一つない晴天となった。マリアと老夫婦との間にはもはや涙は必要なかった。

「お父さん、お母さん。行ってきます」

「達者でね」

「悔いの残らないようにな」

 老夫婦に別れを告げたマリアはとびっきりの笑顔を残して故郷を後にした。


 残された老夫婦は互いにマリアの思い出を語り合っていた。

「十六年前、あの子を初めて見た時は、本当に天上の笑みが愛らしかったわねぇ」

「本当にな。いつの間にか住み着いた仏頂面のあの夫婦の娘とは思えんかった」

「赤ん坊の頃から器量良しさんで」

「あの夫婦ももっと愛想良くすれば、マリアに相応わしくなってたものを」

 出会った頃のマリアのかわいらしさを賞める老婆に対し、両親を貶すことでマリアを賞める老爺。どちらも穏やかな笑みを浮べていた。

「あなたったら、本島にひねくれてるんだから」

「何を言う。本当のことじゃないか。あの両親のせいでマリアの可愛さ半減だったぞ」

「でも、あんな恐しいことが起きるなんて。今でも信じられません」

「ああ、今思い出してもぞっとする」

 十四年前のその日、隣家で起きた惨劇を重いだす二人は顔を顰める。その日隣家の夫婦が「誠に身勝手なお願いで申し訳ないのですが」と老夫婦を訊ねてきた。娘を一日預って欲しいという。

「どうして、あの二人のお願いをきいたのかしら。あんなにぶつぶつ文句を言ってたのに」

「うん、二人の切羽詰った様子が気になってな。あの時あの二人を構っていたのは儂等位だったろう。それに縋るさまに、どうしても放っておけなくなった」

 異常事態は翌日露見した。中々娘を迎えに来ない二人に業を煮やした老爺が、隣家に呼び出しに行って目にしたものは二人の惨殺死体だった。隣家の居間に足を踏み入れた老爺が発見したのは、耳や鼻など頭部の全ての開口部から、赤く粘っこい液体を垂れ流して仰向けに倒れている二人の死体だったのだ。

 以降、マリアを引き取り自身の娘として慈しみ育ててきた二人だったが、その事実を今日にいたるまで本人に話したことはない。

「あの子には話しておくべきだったかしらねぇ」

「必要ないだろう。余計な悲しみを味あわせることはない。マリアは儂等の娘なんだ。それで良い」

 それからも、二人はマリアの思い出を語り続けた。それは夜が更ける迄続いた。


----


 マリアがレシェルの街を旅立った日、同じ渓谷の南端にあるアラベル湖近くのクメル洞窟の地下にあるレナスキタ本部にベルの姿があった。

 医務室と工作室の複合体のような部屋の、清潔で無機質な寝台の上に仰向けに横たわるベルの後頭部は黒い枕状の装置に埋もれていた。黒い装置からは可聴範囲ぎりぎりの低周波の音が鳴り続けていた。

 低周波音が鳴り止んだ時、ベルの頭上から女性の声がかけられる。

「次の任務データの入力が完了したわ」

「ありがとう、テレサ」

身を起しながら頭部を一振りしたベルは声の持主に乾いた声を返す。そのうなじには未だ一本の管がつながれていた。

「確認ね。簡単な質問をするからそれに関する情報を引き出してちょうだい。

 次の任務地はどこ」

「イズレル平原、旧イズレル市街地」

「処理対象者は」

「ダン、マイク、レイフ、ゲイブの四名」

「作戦日時は」

「今日から五日後、一二○○。それまでに現況確認を完了させていること」

 テレサが問い、ベルが答える毎に、テレサの横に置かれた大型のモニタに関連映像やデータが表示されていく。それはたった今ベルに入力された任務データだった。一通りの確認を終えたテレサは満足気に大きく頷くとベルのうなじに接続された管を取り外す。

「大丈夫ね、問題無し。また貴女の働きに期待してるわね。死神ベル」

「やめてください。殲滅部隊、通称”死神部隊”のベルです」

死神はわたし一人じゃない、という抗議の意志を載せた固い声でベルはテレサに意義をとなえた。

「ただちに任務に取り掛かります」


 猫科の動物のような身のこなしで部屋を出て行くベルを見送ったテレサはひとり呟く。

「貴女のような工作員は他にはいないわ。貴女は特別なのよ」

この時テレサは知らなかった。本当の意味でベルがどれだけ特別なのかを。そして、それはデトルアント殲滅を目的としたこの組織の誰もが知るよしもなかった。

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