死神と呼ばれる少女
星明かりしかない闇に覆いつくされた古びた市街地の中を、その少女は音も立てず走り抜けていた。全身黒ずくめの、動き易さを追求した衣装を纏ったその少女は、闇を苦にすることなく走る速度を落さない。複雑に交差する街路の角を幾つも曲りながら、目的地を目指し少女はひたすら走り続けた。
星空を侵食するようなドーム状の屋根を持つ建物が見えた時、少女はその足を止め建物を囲む塀に身を寄せる。気配を窺うよう周囲を見回した後、塀を見上げる。塀の高さは少女の背丈の三倍ほどはあった。軽く身を屈めた次の瞬間、少女は一気に塀の上まで飛び上がる。塀の上に両手両足を着き猫のような姿勢で下の様子を窺っていた少女の姿は、すうっと音も無く塀の向こう側へと消えていった。
塀を越えた少女とドーム屋根の建物の間には芝生が敷き詰められた庭が広がっていた。何かを待つように建物の方を見ている少女の視野の両端を三頭の大型の猟犬が掠めた。右端に一頭、左端に二頭の姿が消える。威嚇のための唸り声すら上げず死角へ回り込もうとするその動きは、侵入者の捕獲や撃退では済まさず、息の根を止めようとする害意そのものだった。
少女の左足が地面を蹴る。少女の姿はその場から掻き消える。右側の死角へ回り込んだ猟犬の眼前へと突如現れた少女は、右掌で猟犬の両眼を覆った。両眼を覆われた猟犬は吠え声をあげようとしてか口吻を大きく開けた。しかし少女の掌を起点とする振動が猟犬の頭部を瞬間的に走り抜けるやいなや、猟犬は声を上げることなくその全身を大きく痙攣させ絶命した。
左側の死角へと回り込んだ二頭の猟犬は、狙いを定めていた少女の姿が突然消え失せたことに戸惑っている様子を見せていた。しかし戸惑いは長くは続かなかった。なぜなら彼らの目の前に幽鬼のように少女の姿が現れたからだ。一頭の猟犬の死体を引き摺りながら。残り二頭のうち一頭が少女の喉を狙って大口を開け飛びかかろうとする。その大口に少女は掴んでいた死体を頭から押し込んだ。放り込まれた仲間の死体を振り解こうともがいている隙に、少女はもう一頭の両眼を右掌で覆う。振動が頭部を貫きその一頭は地に伏した。もがいていた残りの一頭も少女の右掌によって同じ運命を辿った。
瞬く間に三頭を始末した少女は、音もなく庭を走り抜け、あっけなく建物に侵入を果す。侵入した少女は地下室への入口へと慎重に足を進める。その足どりに迷いは見えない。彼女の脳内には建物内の見取り図や監視装置の場所などが全て入力されていたからだ。監視員の巡回経路・時間についても完璧だ。それらの情報を駆使して彼らを遣り過ごす。まだ処分はしない。人は先程の猟犬達とは違い所構わず喚き散らすからだ。
監視員・監視装置を遣り過し地下室への入口に辿り着いた少女は躊躇うことなく地下へと続く階段を降りていく。階段を降りた先には一本の通路が横たわっていた。階段を降り切る手前で少女は足を止めその先の気配を窺う。様子がおかしい。少女は違和感の原因を探る。複数人の気配、その呼吸音や心音を注意深く聞く。汗のにおいにも注意を向けるが、恐怖や怯えといったものが感じとれない。監視されている者の気配ではなかった。見張りがいないのか。疑念を覚えた少女は全周を確認できる小さな道具を使って通路の状況を探る。左右には人々が閉じ込められた鉄格子が並ぶ。その先、通路の奥にいるそれに少女は目を瞠る。
金瞳の金狼。
自然に生まれたのではない生き物がそこに居た。それはデトルアント化した狼だった。金狼の前には見張りだったと思しい者がうつぶせで転がっていた。床に広がる赤い液体が彼の虫の息であることを物語っていた。
——おや、レナスキタの死神ベルさんじゃないか
少女の脳内に、どこかからかうような渋い声が響く。それは金狼の思念だった。
——死神とは随分ないい草ね、デトルアントの使者ラウさん
少女、ベルもまた思念を金狼・ラウに送りつける。
——ここ、あなたたちデトルアントの施設だと思ったのだけど違うのかしら
隠れている必要もなくなったベルは、ゆっくりと階段を降り切り、その黒ずくめの姿をラウの前に晒す。
——そうとも言えるしそうでないとも言える
韜晦するようなラウの返答にベルは顔をしかめる。
——デトルアント化させる素体の収容施設だって聞いてきたのだけど。説明してもらえると嬉しいわね
——デトルアントに送られる者もいればそうでない者もいる。人狩りはただ集めてくるだけだ
そんなことは些事だ、とでも言うように金狼は思念を続ける。
——お前が一番知りたいのはこっちだろう。“変える者”は居なかったよ、”継ぐ者”さん
からかうように開かれた口吻の隙間から舌を出すラウにベルは舌打ちをする。
——わたしの追っかけでもしてるのかしら。気持ち悪いんですけど
——散歩のついでに立ち寄っただけだ。気に病むな。後は上の連中の始末だけだろう。死神の面目躍如だな。手伝いは要るかい
——要らないわよっ。あなたはあなたで勝手になさいっ
腹を立てたような思念を返しながらベルは階段を駈け登る。
建物の中に居る者は皆、人狩りと呼ばれる組織の実行部隊の者達だ。人狩りに攫われた人は全員デトルアントへ送られていると思っていたベルにとって、先程のラウの返事は不可解なものだった。しかし今回の救出任務にとって、そんなことは些事だった。ベルにとっては攫われた人の中に”変える者”が居るかどうかだけが大事だったのだ。そして、それは居ないとラウが断言した。彼は気に食わない物言いをするが、言うことに嘘は無い。ラウに対してその程度の信用はベルは持っていた。憂いが無くなったため、後は建物内の人狩り達を殲滅するだけだ。
地下室への入口から一階に戻ったベルは、わざと監視の目につくような行動をした。警報を受けた監視員達がすぐさまやって来る。迎え撃つベルの動きは監視員達の目には追いきれない。ふわりとその姿が消えるやいなや監視員の一人の側にふわりと現れる。その監視員の頭に手を翳した瞬間またふわりと消える。その繰り返しだ。ベルは急加速と急停止を不規則に組み合わせることでその動きを実現していた。次にどこに現れるのか全く予測がつかない。しかも彼女に手を翳された監視員は大きな痙攣をした後糸の切れた操り人形のように倒れ込んでしまう。顔面に開いた穴という穴から粘液が溢れ出すのを見れば彼らの命が狩り取られたのは一目瞭然だ。人狩りの彼らは今目の前にいる存在がまさに死神と呼ばれるものであり、彼らの命は今日を最後についえるのだと恐怖とともに理解した。
建物内の地上部分に人の気配が絶えた時、ベルの姿は屋外にあった。何の興奮も息の乱れも見せない彼女は星空を見上げながら呟く。
「こちらベル。人狩り組織のオフェル拠点殲滅完了。攫われた人達は予想通り地下にいます。救出部隊および洗浄部隊の出動を要請します。以上」
——了解、周辺にて待機中の部隊を出動させる。貴君は速やかに帰還せよ。交信終了
脳内で命令を受けたベルは帰還の前にラウへと思念を送る。
——わたし帰るけど。追いかけてこないでくださいね。追っかけさん
——そんなことはしないさ。そろそろ散歩も切り上げようと思ってたところだ
ふん、と鼻を鳴らしたベルは瞬間的に加速し、誰の目にも留らぬ速さで塀を飛び越える。追いかけるようにラウの思念が彼女へ届く。
——大丈夫だとは思うが、”継ぐ者”の徴、バレないように注意しろよ
無言で応えるベルは加速状態で星明かりの下を走り続けながら、心の内で独り言ちる。
——そう誰にも知られてはいけない。知られてしまったら私の命は無いのだから
ベルはレナスキタ本部への道をひたすら駆け抜ける。その姿は例え暗闇でなかったとしても誰の目にも映らなかっただろう。