黒衣の王太后 ミカエラ①
エラルドとわたくしの婚約は、エラルドが10歳、わたくしがまだ7歳の時に結ばれた。
この国の王家に生まれた男児は、10歳の誕生日になると茶会を開き、招待された令嬢の中から婚約者を自分で選ぶと言う仕来たりがあった。金色の髪と湖の様に深く澄んだ青い瞳の美しい王子様。
その日、そんな彼が沢山の令嬢達の中から、わたくしを選んでくれたのだ。わたくしは嬉しくてそれ以来、毎日必死に努力した。
マナー、ダンス、語学、そして知識。未来の王妃となるわたくしには、毎日終わる事のない程の勉強が課せられた。
確かに王家に生まれたエラルドは、わたくしより早くから学び始めた。でも求められるものは同じかそれ以上。エラルドだって大変だったはずだ。それなのに彼は毎日王宮に通い勉強を続けるわたくしを気遣い、毎日必ずわたくしが学ぶ部屋に顔を出し励ましてくれた。こんな事しかしてあげられないと歯に噛みながら、わたくしに庭で摘んできた花を毎日1本ずつプレゼントしてくれた。妃教育は大変だったけれど、そんなエラルドの存在がわたくしにとってどれ程の励みだったか……貴方は知らないでしょう?
思えばこの頃がわたくしの人生の中で、1番幸せな時期だったのかも知れない。
軈てわたくしは、当時まだ王太子だったエラルドの元へと嫁ぎ、わたくし達は晴れて夫婦となった。
結婚してからのわたくし達の関係は、決して燃え上がる様な激しい愛ではなかったけれど、お互いを思い合い慈しむ…そんな穏やかな夫婦としての愛情はあったのだと思う。わたくしは彼を間違いなく愛していたと今でも自信を持って言える。
でも、そんなわたくし達には大きな悩みがあった。なかなか子を授かる事が出来なかったのだ。
王家に嫁いだ者にとって、子を産む事は最大の責務と言っても過言ではない。わたくしはいつまで経っても、その責務が果たせずにいた。
子を産めぬ女にとって、王宮ほど辛く恐ろしい場所はない。
「まだ子は成せぬのか…」
宮廷医師から毎月知らせを受けているのだろう…。
わたくしの月のものが来る度に、陛下と王妃様がそう言ってあからさまに落胆の表情を浮かべる。
それだけではない。
子を授からず苦悩するわたくしに、城の者達は平然と "石女" だ "お飾り" だなどと、聞こえる様に陰口を言う。どんなに学び、執務に励んで国と民のために尽くしても、子を産む事が出来なければ王太子妃としては認めては貰えないのだ。
わたくしは、どんどん追い詰められていった。
そんな日々が1年2年と続くうち、ついに陛下や王妃様、果てはエラルドの側近に至るまでもが、彼に側妃を迎える様にと迫りはじめた。
「私は側妃を娶るつもりなどない。ミカエラが私のたった1人の妃だ。もし側妃など娶ってその者との間に子を授かれば、ミカエラの立場はどうなる? 彼女はこれまでの人生の大半を王家のために捧げてくれたと言うのに!」
だがエラルドは、ずっとそう言って側妃の話を拒み続けてくれていたらしい。
たった1人の妃…。
エラルドがそう言ってくれたと聞いた時、わたくしは彼のその気持ちが涙が出る程嬉しかった。彼は、わたくしの今迄の努力をきちんと分かってくれていたのだ。わたくしはこの時初めて、彼に対するはっきりとした愛を感じた。
でも、それは諸刃の剣。わたくしは彼から庇われれば庇われる程、彼に対して申し訳ないという思いに囚われていった。
そしてわたくしが嫁いで5年目の冬の事だった。もうそんな事は言っていられない事態が起こった。
国王陛下が病に倒れられたのだ。これにより王太子であるエラルドが急遽王位を継ぐ事になった。
その時、病床の陛下が見舞いに行ったわたくしの手を握り締め、縋る様に仰った。
「あの子に側妃を娶るよう、其方から言っては貰えまいか? あの子は私達がどれ程言っても其方を思って側妃を娶ろうとはしないのだ。頼む。この通りだ。其方からの言葉ならあの子も言う事を聞くであろう。其方が王家に嫁いで既に5年。其方ももう気は済んだであろう。そろそろあの子を解放してやっては貰えまいか?」
解放…。陛下が仰ったその言葉に愕然とした。
そんな風に思われていたなんて…。
わたくしがエラルドを縛りつけていたとでもいうの……?
いえ、わたくしは確かに嫌だった。彼が自分以外の女性をその腕に抱くなんて……。
でも、彼はもうこの国の王。そしてわたくしはこの国の王妃なのだ。自分の気持ちよりも、国の事をまず一番に考えなければならない立場だ。
わたくしはその陛下からの訴えに、頷く他に道はなかった。
「わたくしは恐らくもう、貴方のお子を授かる事はないでしょう……。お願いです。どうか皆様の仰る様に側妃様をお迎えになって下さい……。貴方はもう王太子ではありません。このロマーナの王なのです」
「いやだ。私は君以外の女性と閨を共にするつもりはない。それに私には幸い優秀な弟がいる。私達の間に子が出来ぬと言うのなら、彼に後を譲るよ。だから、君は何も心配する事はないんだよ」
彼は優しくそうわたくしを諭したけれど、わたくしだって王家に嫁いで来た人間だ。そんな事が許されるはずがない事は既に分かっていた。何よりわたくし自身がもう限界だった。周りのエラルドを縛り付けているのだという目と、どれだけ経っても子を授かれぬ罪悪感に押し潰されそうだった。
だからわたくしは自分で自分に言い聞かせた。
正妃に子が出来ねば、側妃を娶る。それは何処の国であっても当たり前の事……。エラルドだけがわたくしに義理立てし、側妃を娶らないなど……自分の子を諦めるなど、あってはならない事なのだと。
それにエラルドの言うようにリカルド様に王位を譲る。そんな事を、彼を支える側近達が許すはずも無かった。エラルドに彼を支える側近達がいるように、リカルド様にもリカルド様を支える側近達がいる。もしリカルド様が王位に就く事になれば、彼らとてその立場を失うのだから…。
それに彼らの言い分を無視すれば、今度はエラルドが彼らからの信頼を失う。
どんなにエラルドが優秀でも、国を一人で治める事など出来ない。彼らの支えがなければ、彼は王としてその役割を果たす事など出来ないのだ。
最後に彼の背中を押したのはわたくしだった。
「わたくしは、自分の存在が貴方の足枷になっている事が苦しいのです」
そう言って涙を流すわたくしを見たエラルドは
「君がそんなに苦しんでいたなんて……。君を苦しめるつもりは無かったんだ。だが、私に子が出来ぬ事を君がそれ程に憂うのなら……」
彼は漸く頷いた。
その後、側妃を娶ったからと言ってエラルドが表立って変わる事は無かった。彼はどんな時もわたくしを正妃として尊重してくれた。
でも、夜になると彼は側妃の元へと赴く。夫が今、他の女性を抱いている。わたくしは一人の寝室で涙を流した。そんな日々が2年続いた。だが、側妃との間に子は授からなかった。
その後、次の側妃が選ばれた。また2年が経った。二番目の側妃も子を授かる事はなかった。
わたくしを含めて3人の女達が彼の子を授からなかった。子を授からぬ原因は誰だったのか。答えは決まったも同然だった。
「子が出来ぬのは私のせいだった様だな。君には本当に辛い思いをさせた。すまなかったね」
エラルドは今にも泣き出しそうな瞳をわたくしに向け、そう言って詫びた。
この時、彼の本当の気持ちに気付けなかった事を、私は今も悔やんでいる。考えれば分かった事だ。
自分もそうだったではないか…。
自分が石女だと揶揄され、自分にはもう子を授かる事が出来ないのかも知れないと悟った時、どれ程悔しく悲しく辛かったか……。
「王位は弟に譲ろう。最初からそうすれば良かったんだ。そうすれば誰も傷付かずに済んだ。これからは君と二人、国のために尽くそう…」
エラルドはこの時そう言った。
その後わたくし達は、共に公務をこなしながら、また穏やかな日常を過ごしていた。
だから、わたくしは思ってもみなかったのだ。
シルベールがこれが最後だと連れて来た親子程も歳の違う少女を、エラルドが3人目の側妃として娶るなんて…。
そして、夫エラルドが齢よわい40を超えて、彼の人生の中で最初で最後の恋をするなんて…。
イーニア・ロレット。
そう……この少女こそ、ジュリアスの母だった……。