宰相 アルドベリク⑦
先ぶれも出さず公爵邸を訪れた私を、使用人達は怯えた表情で見つめた。
ジルハイムから1枚目のビラが撒かれてからの2ヶ月。ビラで名指しされた公爵家はその間、何もしなかった。
そうなれば民達から厳しい目を向けられて当然だ。
それに輪をかける様に、今回2度目のビラでもジルハイムはまた公爵家を名指しで批判したのだ。
然も最悪な事に、今回公爵一家は王都を逃げ出した。流石に公爵家の使用人達にもジルハイムの怒りが今、何処に向いているのか分かっていたはずだ。
「宰相様、今日はどう言ったご用件でしょうか?」
きちんとした身なりの男が恐る恐る声をかけてきた。恐らくこの屋敷の家令か執事だろう。
「最初に言っておく。昨日の会議でこの公爵家の廃爵が正式に決まった」
私は彼に報告した。
「廃爵……」
それを聞いた使用人達は、ただ呆然とその場に立ち尽くした。
公爵家が無くなれば、此処にいる全員が職を失うのだ。彼らが衝撃を受けるのは当然の事だった。
「まだ詳しくは話せないが、公爵とイヴァンナは罪を犯した重罪人だ。それを踏まえ、私は君たちから詳しい話を聞くために今日、此処に来た。もう彼らを庇う必要はない。奴らはただの罪人だ。いや寧ろ下手な庇い立てをすれば、今度は君たちにも害が及ぶ事になるやも知れん。私は君たちまで巻き込むつもりはない。私の問いに素直に答えてくれればそれで良い」
私のこの言葉に先程の男が覚悟を決めたように、一歩前に歩み出た。
「宰相様。私はこの屋敷の家政全般を任されておりました家政のリチャードと申します。私で分かる事でしたら何でもお答えいたします。ですからどうか他の使用人達に害が及ぶことのないよう、ご配慮頂きたくお願いいたします」
そう言ってリチャードは私を応接室へと案内した。
彼の言動から察するに一角の人物のようだ。
その後、彼から話を聞くうちに明らかになった事実に私は愕然とした。
彼の話ではシルベールとイヴァンナは男女の関係にあったと言うのだ。彼女は里帰りと称して屋敷に帰ってくるたびシルベールと関係を持っていた。
呆れた事に家族や使用人達は、2人の関係に気付いていながら、シルベールの恐ろしさに何も言えず、見て見ぬふりをしていたとの事だった。
どおりでイヴァンナは事ある事に公爵邸へ戻っていたわけだ。
彼女はジュリアスの寵愛を受けるものの中々子を授かる事が出来なかった。それに加え、父の遺言を忠実に守るジュリアスは、いくら彼女が頼んでもアルテーシア様との閨ごとを止めることは無かった。
焦ったイヴァンナはシルベールに相談した。シルベールは彼女にこう言って聞かせたそうだ。
「閨事には相性もあるからな。ならこうしてはどうだ? 私と試してはみぬか? もし先に王妃が陛下の子を孕んだとしたならば、其方、全てを失うぞ」
それはまるで悪魔の囁きだった。
当然イヴァンナとて最初は断った。彼女は本当にジュリアスを愛していたのだ。だが時と共にその心は揺らいでいく。結局イヴァンナは不安に耐えきれずシルベールと関係を持ってしまった。1度関係を持ってしまえば、あとは同じ事だった。彼女はまるで自らに芽生えた不安を払拭するように、シルベールと何度も関係を重ねていった。
だが、私がこの日最も衝撃を受けたのは、リチャードが紡いだ次の言葉だった。
「ですが本当はイヴァンナ様が陛下の子を授かるはずは無かったのです。何故なら旦那様は彼女と自分が関係を結ぶまでの間、ずっと彼女が公爵邸に戻るたび、避妊薬を盛っていたのですから……」
「は? 避妊薬だと? ……何故シルベールはそんな事を……?」
驚いた私にリチャードは徐に顔を歪ませながら答えた。
「簡単な事ですよ。イヴァンナ様は若くて美しい。そんな彼女を自分の自由に出来て、更に上手くいけば血の繋がった我が子を王の座に据える事が出来るかも知れない……」
何処まで下衆な男なんだ……。
リチャードの話を聞いた私は、吐き気すら催した。
シルベールは一体どれだけの罪を重ねれば気が済むのか……。
だが、こんなことが知れたらシルベールにとっては身の破滅だ。
だから彼はイヴァンナを連れて王都を出たのだ。
「彼女は罰せられるのでしょうか?」
リチャードが問いかけた。
「彼女? イヴァンナのことか?」
そうか……。使用人達はまだ、イヴァンナがアルテーシア様の死に関わっているとは知らないのだ。
すると突然、彼は縋るように私に言い募った。
「イヴァンナ様は可哀想な人なのです。この屋敷に引き取られる前、彼女は生家で実の母親や祖母によって虐げられていたそうです。だから陛下との婚約が解消されたあと、生家に返される事を恐れ、何時も泣いておられました。旦那様はそんな彼女の弱みに漬け込んだのです。彼女は本当は優しい人です。罰せられるべきなのは旦那様であって彼女ではない!」
彼はイヴァンナの罪がシルベールとの不貞行為だと勘違いしているのか、そう言って彼女を庇った。
「あのイヴァンナが優しいだと?」
リチャードの言葉は私にとって正に青天の霹靂だった。
「はい。この屋敷の使用人で彼女を悪く言う者などおりません!」
彼はきっぱりとそう言い切った。
「お疑いならば屋敷の者に尋ねてみて下さい。ですからせめて彼女の命だけは助けてやって頂けませんか?」
俄に信じられない私は、公爵邸の使用人達にイヴァンナについて尋ねてみた。するとこの屋敷の者達はリチャードと同様に、皆、イヴァンナの事を優しい人だと称した。
「イヴァンナ様は何時も私たち使用人に労いの言葉をかけてあ下さいました」
「私が失敗しても、何時も笑顔で許して下さいました」
彼らのその言葉は、王宮での彼女を知る私にとって信じられないものだった。
彼女には私の知らない別の顔があったのだ。
だが、だからと言ってイヴァンナのしてきた事が許されるはずも無い。彼女の命を助けるなんてとても出来ない相談だ。
私にとってイヴァンナは、アルテーシア様と、エリスを殺めた憎むべき相手である事に変わりはないのだ。
その後、伯母の住む別邸に戻った私は、次にアイシスにあった。そこで彼女の話を聞いた私は、漸く全ての糸が繋がったのだと感じた。
彼女は涙ながらに信じられない様な話を告げたのだ。
「私はずっと長い間、心に抱えきれない秘密を抱いて生きて来ました。でも、シルベールが失脚した今、やっと本当の事が言えます。イシスなんて姉は私にはいません。そんな人、存在しないのです。イーニアを産んだのは私。彼女の母親は私なんです。私はイーニアを出産した後、ロレット伯爵からシルベールへと売られたのです」
「……売られた……?」
私と伯母は息を飲んだ。彼女の話が余りにも私たちにとって衝撃的なものだったからだ。
アイシスは話を続けた。
「はい。陛下はご自分が子を成せる体かどうか本気で悩んでおられたそうです。だからシルベールはそんな陛下に提案した。子供を産んだ経験のある女を娶れば本当の事が分かるでは無いか……と」
成る程。出産経験のある女ならば、少なくとも女側に原因はない。ならば、もし2人の間に子を授かる事が出来なければそれは即ち、男側に原因があると言うことだ。
「陛下はシルベールのその提案に乗ってしまわれた。その結果、白羽の矢が立ったのが私だったのです」
シルヴィア様の調べではイーニアがシルベールに王宮へと連れて来られる前、彼女には恋人がいた。そしてセオドリク様の話では、その恋人は彼女が亡くなるまでずっと森に監禁されていたらしい。
その話を聞いてから、私はずっと不思議だった。
そうまでして何故、イーニアでなければならなかったのかと。
その答えをアイシスが教えてくれた。
「ロレットは金に汚い男でした。彼は私を売って多額の金を手にしておきながら、後妻と共にずっとイーニアを虐げ続けたのです。イーニアを助けたかった……。でも母としての私は既に記録を操作され、イシスとして死んだ事になっていました。ですからおそらく陛下がイーニアを娶ったのは、彼女から母を奪った罪悪感からだったのだのでしょう…。そうする事で自分が不幸にしてしまった彼女を、ロレット家から救い出したかったのです」
だが、エラルド陛下が抱いたその罪悪感をシルベールが利用した。彼はイーニアの恋人を監禁し、彼女を自分の意のままに操った。
「エラルドは最初、自分が彼女を守ろうと決めたのでしょうね。でもその気持ちが彼女と共に過ごすうち、軈て愛へと変わったのでしょう……」
アイシスが帰った後、寂しそうにそう呟いた伯母の瞳には、涙が潤んでいた。