74 コンサート
時は誰にも平等に流れて、今日は日曜日、バイオリンのコンサートの日だ。
僕はなるべくフォーマルな格好をした。
母に、送り迎えを頼んで、昼に家を出ると、雨がザーザー降りだった。
「とんでもない日に重なっちゃったね」
「僕は大丈夫だけど……」
「そう? 行きましょうか」
「うん」
僕は車に乗り込んだ。
母が運転席に来るとエンジンがかかった。
打ち付けるような雨。ワイパーが規則正しく揺れている。
葉阿戸の家までは体感でもそんなにかからなかった。
「こんにちは、たい君のお母様、今日はよろしくお願いします」
スカートのスーツを着ている葉阿戸は礼儀正しく挨拶をすると後部座席に乗ってきた。
「よっ、葉阿戸」
「やあ」
葉阿戸は少し気まずそうだ。
「そんなにかしこまらなくてもいいよ」
「お母様、お土産になればと思い、どら焼きを持ってきました」
葉阿戸は助手席の僕にどら焼きの包みを渡してきた。
「あら、嬉しいじゃない、ありがとう」
「ありがと、葉阿戸」
「いえいえ」
公民館までドライブした。
「コンサートここでやるんだね」
会場外には何人かの人が集まっていて、傘の花を咲かせていた。
「15時に待ってるから」
「「はい」」
「行ってらっしゃい」
「「行ってきます」」
僕らは傘を出し、降りた。
まだ開演時間には早い。
「明日姉さんはなにか変わったことはあったか?」
「大学で派手に過ごしてるようだよ。茂丸ともワンナイトしたようだね」
「モテそうだもんな、黙ってれば可愛いのに。あ、葉阿戸の次に! 茂丸のことは直感で気づいた」
僕の白い息が霧散する。
「もうというか、またというか、帰ってこなくなったから、精神衛生上スッキリ毎日過ごしてる。あ、いないよな? 大丈夫だよな?」
「この辺にはいなそうだけど……、葉阿戸ってバイオリン、好きなの?」
「うん、ストラド、所有している」
「スト?」
「ストラディバリっていう有名な人が作った、ストラディバリウスっていう有名なバイオリンだよ」
「じゃあバイオリンが弾けるのか!」
僕は思いがけず葉阿戸の口元につばを飛ばしてしまった。
「ごめん」
僕がたじたじしていると、葉阿戸はリュックからアルコールティッシュを出して、口を拭く。
「別に、わざとじゃないんなら。……そりゃ弾けるさ」
「今度学校で弾いてみてよ!」
「えー、持っていくのが大変なんだけど」
「ワンチャン! 音楽室にあるんじゃない?」
「まあ、あったら弾くよ」
その後は世間話をした。
13時50分になると会場が開き、中に入れるようになった。
チケットを係の人に渡す。
少し歩くと壇上に人がいて会場についた。
スポットライトが照らす先、ピアノの前に座るドレスの美しい女性と、またもやバイオリンを持ったドレスのきらびやかな女性が楽器を構えていた。
僕らは高いところから彼女らを見ている。赤い綿の椅子に腰掛けた。
「この度は新年早々の冬のバイオリンコンサートにご来場いただきありがとうございます」
息を呑むほどの綺麗なウグイス嬢のような声。
「演奏者は後ほどご紹介します。リストの”ハンガリー狂詩曲2番”に続きまして、バッハの”G線上のアリア”そして、同じくバッハの”主よ、人の望みの喜びを”を演奏いたします、休憩を挟みまして、また、サティの”ジムノペディ第1番”、ヴィヴァルディの”四季より冬第1楽章、第2楽章、第3楽章”を演奏していきます。それではご堪能ください」
空気が震えた。
♪
演奏が始まった。
ピアニストもバイオリニストも一切のミスタッチもなく、曲が進んでいく。
きれいな音の連続に僕は目をそらすことができなかった。
のびのびと表情も楽しげに弾いている。
美しい音の粒が僕らを包んでいく。
曲は走っていた子鹿が急に止まったかのように終わった。
♪
次は”G線上のアリア”、とても有名な曲だ。
まるで歌っているかのような音がする。
僕は耳にこだました。
短いような、長いような演奏が終わった。
♪
前半、最終曲、”主よ、人の望みの喜びよ”が流れ始めた。
繊細な指使いで織りなす曲は僕の心を熱くした。
「葉阿戸?」
僕は隣の葉阿戸が涙を流しているのに気がつく。ポケットティッシュを渡した。
「ごめん、ありがとう」
葉阿戸は涙をティッシュで拭う。
曲が終わるまで、僕はどうしたものかとオロオロしていた。
葉阿戸はこの曲の終始泣いていたが、前半が終わることになって泣き止んだ。
「ちょっとトイレ」
「僕も行く」
僕らはトイレに向かった。
葉阿戸は鏡の前でポーチを取り出した。メイク道具のようだ。
僕は個室に入った。
「うんこか?」
「そうそう、うんこ」
僕は排出物を出した。
(葉阿戸はなんで泣いていたんだろう?)
ぶりぶり、ボチャン!
僕が個室から出ると、葉阿戸はメイクで完全武装していた。
「さっきはなんか……ありがとう」
「なんで泣いていたんだ?」
「わかんない、あの曲聴くと涙がでてくる。……お婆ちゃんのよく弾いてた曲だからかな」
僕は葉阿戸にバックハグした。
「もう泣くなよ、よしよし」
「おい、俺にその手で触れるな!」
「あ、ごめん」
僕はパッと離れると手を洗った。
「もう戻るか」
「おう」
僕らはメイン会場に戻った。
約5分後、例の声が会場内で響く。
「お越しいただきました皆さん、後半の部を演奏させていただく前に、演奏者の紹介をしていきたいと思います。音大卒のピアニストの桜島みゆきさん、そして同じく、音大卒のバイオリニストの青井恵那さんです」
2人は会釈した。
パチパチパチパチ
「それでは後半の部の演奏を楽しんでいってください」
そして、世界が暗くなった。
スポットライトが壇上できらめく。
♪
”ジムノペディ”は懐かしいような気がする、そんな曲であった。
僕はとても上手い演奏にド肝を抜かれた。
♪
そしてフィナーレの、”四季より冬”が始まった。
バイオリンとピアノがお互いにぶつかりあって、昇華している。
僕はセロトニンが出るのを感じた。
曲は激しくなったり穏やかになったり、極端だった。
そして、ついに終わりを迎えた。
周りが明かりで眩しくなる。
「ご清聴いただきありがとうございました。いかがでしたか? お帰りの際は忘れ物に注意してください。また春にお会いできることを心より楽しみにしています。雨が降っているので足元にお気をつけてお帰りください」
「ほんじゃ、帰ろう」
「うん」
僕は葉阿戸の顔を覗き込んだ。
「良かった、泣いてない」
「見苦しい真似して、悪かったな」
「見苦しくなんかないよ」
僕は頭を振った。
葉阿戸は僕から視線をそらして、立ち上がった。
葉阿戸の顔が赤い。
僕も立ち上がり、出入り口へと向かった。
多くの人が殺到していた。
「少し待つか?」
「あー別にいいけど」
「葉阿戸の婆ちゃんって」
「聞くな! 機密事項に差し障る」
「分かったよ」
「いろんな所に人外がいるんだ、俺には分かる」
葉阿戸は僕の耳の近くにて、とても小さな声で話した。
「え? じゃあ僕の学校にも?」
「ああ、でも、そのことは機密情報だ」
「葉阿戸は?」
「どこにでもいる普通の男だよ」
「その格好で言われても、説得力ない」
「可愛いは世界を色々と救うんだよ」
出入り口は空いた。
僕らは会場を後にした。
「ありがとうございました」
「いいえー、たいを宜しくね」
母の運転する車で葉阿戸を家まで送り届けた。
「はい、たい君、またね。今日はありがとう」
「うん、葉阿戸、じゃあ」
僕は葉阿戸に手を降った。
(人外って何だったんだろう。母に聞けば分かるかな?)
「あのさ、人外って」
「その話題には触れないで!」
母が怒るのを初めて聞いた。
「え、ああ、ごめん」
「誰にも話しちゃだめだよ? いい?」
「分かった」
「こっちこそ怒鳴ってごめんね」
「いやいいんだけど」
僕は(”好奇心は猫をも殺す”)という言葉を思い出した。
「着いたよ、降りな」
母の声が聞こえてきた。
「うん」
僕はそれに従う。そして家の中に入った。2階まではそう遠くない。
(今日も勉強しよう)
「茂丸からメールだ」
僕はケータイを開く。
『明日姉さんと付き合うことになったぞ、来月が楽しみだよ!』
『あんた、さては僕の言ったこと忘れてるな』
『まあ、細けえことはいいじゃねえか』
『僕に迷惑がかからなければ好きにしていいよ。もう自立していい年齢なんだから』
僕は返ってくるメールに、目もくれず今日のところは勉強に勤しんだ。