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72 心の整理はつかないままに

(何故あいつがここに……)


 リヒャルトとアルブレヒトの仲は決して険悪なわけではない。

 だが間違っても、友好的だとはいえないのだ。

 リヒャルトの母と妹が亡くなった件において、悪いのはアルブレヒトの生母である全皇后と彼女をそそのかした「先詠み」だ。


 アルブレヒトは、悪くない。

 彼は自分と同じくただ巻き込まれただけだ。


 ……頭ではそうわかっていても、彼を前にしたら何を言ってしまうかわからない。

 憎悪に駆られ、暴言をぶつけてしまうかもしれない。

 そうわかっていたからこそ、リヒャルトはできる限りアルブレヒトとの接触を断っていた。

 それは相手も同じだ。

 互いに、腫れ物に触るように接してきたのだ。

 なのにどうして……アルブレヒトがわざわざ変装までしてエルゼのところにいる?

 ……リヒャルトを出し抜くような真似をして、いったい何の目的で、何の話をしている?

 怒りとも悲しみともつかない不思議な感情で頭がぐちゃぐちゃになり、リヒャルトはまるで地面に縫い留められたようにその場から動けなかった。

 二人は親密な様子で何か話している。

 アルブレヒトが何か言い、エルゼの口元が微笑みの形を描いたのがはっきりと目に入った。

 その光景を見た途端、リヒャルトの胸の奥底から何かどす黒い感情が湧き上がってきた。

 ……二人の間にどんな事情があるのかはわからない。

 だがエルゼはリヒャルトには会いに来ず、アルブレヒトはこっそりリヒャルトの花嫁候補であるエルゼに近づいていた。

 その事実が、リヒャルトの心を黒く染め上げていく。

 湧き上がる感情のままに、足を踏み出そうとした時だった。


『あ、リヒャルトだ』


 急に足元から声が聞こえ、リヒャルトは反射的に視線を落とす。

 見れば、エルゼがよく連れているウサギがつぶらな瞳でこちらを見つめているではないか。

 ……ほかに人の気配はない。

 ということは、今の声は――。


「お前か」

『え、何が?』


 やはりそうだ。

 ウサギは不思議そうに首をかしげてみせたのだから。

 ……おそらくは、精霊か何かなのだろう。

 そういえばエルゼがこのウサギに話しかけている光景を何度か目にしたことがある。

 てっきり一方的に話しているだけなのかと思いきや、ちゃんと意思疎通はできていたようだ。


『エルゼに会いに来たの?』

「……今は取り込み中のようだな」

『エルゼ頑張っているからね。どうしても皇妃になりたいって言ってたし』


 何気なくウサギが零した言葉に、リヒャルトはぴくりと反応した。


「あいつは……皇妃になりたいと言っていたのか?」

『うん。国のためにどうしても皇妃になりたいんだって』


 ……ガツンと頭を殴られたような気がした。


 ――「……私がなりたいのは『エルンスタールの皇妃』ではなく、あなたの花嫁です」


 かつて、エルゼはそう言った。

 だが、その言葉は嘘だったのだ。

 常にエルゼの傍にいるウサギが言うのだ。そちらこそが真実なのだろう。


「っ……!」


 腹の奥から激情が溢れそうになり、リヒャルトは強く唇を噛んだ。

 まるで胸の中で凍れる炎が暴れまわっているようだった。

 刺々しく黒い感情が、後から後から湧き上がってくる。


 ……エルゼはリヒャルトに嘘をついた。


 あの時の言葉も、少し照れたような表情も……もしかしたら、普段のはつらつとした笑顔も、すべて演技だったのかもしれない。


 ……ひどい思い違いだった。


 彼女は他の花嫁候補とは違い、皇妃という地位にはさほど興味がないのだと、そう思わされていた。

 だが、それは間違いだったのだ。

 エルゼが重視しているのは「リヒャルトの花嫁」ではなく、あくまで「エルンスタールの皇妃」の地位の方だ。

 エルゼ自身がそう口にしたと、目の前のウサギが言うのだから。

 ……きっとエルゼにとっては、リヒャルトでなくともよかったのだ。

 相手がエルンスタールの皇子なら、誰でもよかった。

 例えば、今まさに親しげに話しているアルブレヒトでも――。


「くっ……!」


 ぎりり……と爪が肌に食い込むほど、リヒャルトは拳を強く握りしめる。

 そうしなければ、自分でも何をするかわからなかったのだ。

 あの二人がどういう関係なのかはわからない。

 おそらく今のアルブレヒトは「試験官」に扮し、エルゼの傍にいるのだ。

 エルゼが彼の正体に気づいていない可能性も十分にある。


 ……だがもし、気づいていたとしたら?


 アルブレヒトと結託し、リヒャルトを陥れようとしていたら? 

 そんなわけがない、と頭では否定できても、心はついていかない。

 嫌な想像が、後から後から次々と湧いて出てくるのだ。

 エルゼはリヒャルトを騙していたのだろうか。


 いったい、いつから?


 あの純真な笑顔の裏で、何かを企んでいたのだろうか。

 リヒャルトですら足を踏み入れられなかった廃教会に入ったのも、何か隠された意図があったのだろうか。


 無人島で二人きりで過ごした夜は?


 リヒャルトの母と妹のために鎮魂歌を歌ってくれたのは?


 足を血だらけにしてまで、リヒャルトと踊りたかったと言ったのは?


 これまでのエルゼの姿が、脳裏に次々と蘇る。

 あのすべてが演技だったなどとは思えない。……いや、思いたくないのかもしれない。

 わからない。いったい何を信じればいいのか。

 リヒャルトの知っているエルゼは驚くほど純真で、とても他者を騙す演技が得意なようには見えない。

 今まで見てきたエルゼと、あのウサギが言っていた言葉。

 矛盾する二つに、思考がごちゃごちゃになってしまう。


 ……こんな風に心がめちゃくちゃに搔き乱されるのは久しぶりだ。


 リヒャルトはゆっくりと拳を解き、深く息を吸う。

 もう一度、親密そうに話すエルゼとアルブレヒトに視線を向ける。


 ……ここで大きな行動を起こすのは得策ではない。


 もう少し、思考を整理するべきだ。

 リヒャルトの中のかろうじて冷静な部分がそう囁き、今一歩のところで踏みとどまることができた。


『えっ、帰っちゃうの? エルゼに会わないの?』


 踵を返そうとしたリヒャルトに、ウサギが慌てたように問いかける。


「……あぁ」

『そっかぁ……。また来てね』


 まったくリヒャルトの心中を理解していない能天気な言葉が、今は救いのように感じられた。

 リヒャルトは返事をしないまま、その場を後にする。


 ……心の整理はつかないままに。


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