68 宿命
「あの事件の後、アルブレヒトが俺に負けず劣らず憔悴していたのは知っている。……非公式に、母と妹のために手を尽くしていることも。理不尽に巻き込まれたのはあいつも同じだ」
その言葉からは、第一皇子のことも自身と同じように「事件の被害者」だと捉えているのが伺えた。
(リヒャルトがこういうのなら、第一皇子は本当にいい人なのね……)
だが、だからこそ彼は行き場のない憤りを抱え続けているのかもしれない。
ずっと一人で、心を閉ざしたまま……。
「……どうして前皇后は、そこまで追い詰められてしまったのでしょう」
ぽつりと、エルゼはそう零す。
その途端、傍らのリヒャルトが纏う空気が一瞬にして変わったのを感じた。
(なに、これ……)
感じるのは、ぞくりと背筋が震えあがるような殺気だ。
(これ、あの時の……)
思い出されるのは、先詠みの力で視たあの悪夢。
マグリエルの城中で殺戮を繰り返し、エルゼの命を奪ったあの死神――そんなリヒャルトと対峙したあの瞬間のことを、エルゼははっきりと思い出した。
(どう、して……)
がくがくと震えが止まらない。
だがそんなエルゼの変化を気に留めることもなく、リヒャルトは地を這うような声を絞り出した。
「あの女――前皇后が愚かなのは言うまでもない。だが、あの女を操り凶行へ導いた黒幕がいる」
「ぇ…………?」
知らなかった。そんなのは初耳だ。
動揺するエルゼの視線の先、リヒャルトは凶悪な目で一点を見据えている。
まるで、怨敵の姿をそこに思い描くかのように。
「……先詠み」
リヒャルトの口から出てきたその言葉に、一瞬、エルゼの心臓が止まったような気がした。
(どうして、その名を……)
リヒャルトはエルゼが、マグリエルの王族が「先詠みの一族」だということは知らないはずだ。
そうでなければ、花嫁選考に招かれることもないはずなのだから。
なのに今、彼はどうしてその名を……。
「未来なんて不確かなものが視えると豪語し、人をそそのかす悪魔のような連中だ。遥か昔に根絶やしにされたかと思っていたが、奴らには生き残りがいる」
リヒャルトは血管が浮き出るほど強く拳を握り締めた。
それだけで彼の怒りが、憤りが、殺意が伝わってくるようだった。
もはやエルゼは自分が呼吸をしているのかどうかもわからなかった。
すっと全身が冷たくなり、声を出すことも身動きすらもままならない。
「……前皇后を動かしたのは、一人の『先詠み』だった。奴は俺がアルブレヒトから皇位を奪い取る未来が視えるなどと嘯き、前皇后をそそのかしたらしい。しかもそいつは事件が発覚した途端雲隠れし、いまだに見つかっていない」
エルゼは悟った。悟ってしまった。
どうして心の奥底に愛情や優しさが残っている彼が、先詠みの力で視た未来であんな凶行に及んだのか。
彼は、恨んでいるのだ。
「先詠み」という力を、それを持つ者を。
家族を奪われた報いに、原因となった「先詠み」を根絶やしにしようと刃を振るったのがエルゼが視た、あの悪夢だったのだ。
「……俺は『先詠み』を許さない」
ぞっとするほど冷たい声で、リヒャルトはそう口にする。
……隣にいるエルゼが、まさにその「先詠み」の一族だとは知らずに。
「先詠みさえ存在しなければ、あんな事件は起こらなかった。遥か昔の王が奴らを迫害したのも当然だ。……機会があれば、俺も同じことをしてやる」
エルゼは何も言えなかった。
心が、感情がぐちゃぐちゃになって足の痛みすらも感じないほどだった。
(リヒャルトがあんな目に遭ったのは、私たち「先詠み」のせいだったの……?)
欠けていたパズルのピースがはまったような気がした。
エルゼはリヒャルトに温かな心を取り戻してほしいと願っていた。
だがまさか、彼が心を閉ざした事件のきっかけになったのがエルゼたち「先詠み」だったなんて……。
(そんな、そんなのって……)
まるで足元ががらがらと崩れて、奈落へ落ちていくような気分だった。
先ほどまでの楽しく、切なく、甘い気分は消え失せ、エルゼはただひたすら絶望にさいなまれていた。