44 ちゃんと、見ていてくれたんだ
「日中は水魔除けの結界を張ってあるのもあり、船で湖に出るのに支障はない。だが夜間は水魔の力が増すのもあり、湖に出ることは禁止されている」
「そ、そうなんですね! 勉強になりました! …………あれ?」
リヒャルトの答えに感心したのもつかの間、エルゼはおかしなことに気づいた。
「あの、じゃあ……私たちの船を襲ったあの水魔は……?」
幼いルイーゼ皇女の誕生祭を湖で祝うくらいなのだ。
昼間の湖に船で出るのが安全なのは間違いないだろう。
だがそうだというのなら、あのエルゼたちを襲ったタコのような水魔はいったいなんだったというのか。
そんな疑問をぶつけると、リヒャルトは心なしか機嫌の悪そうな声を出した。
「……あれは普段湖に生息している水魔とは別種だった。むしろあれは、ここにいるはずのない海魔だ」
「えっ、それって……」
「誰かが、意図的に強い力を持つ海魔をあの場に放ったのだろう」
「っ……!」
ぞくりと冷たいものが背筋に走り、エルゼは思わず身震いしてしまった。
(誰かが、意図的にあの危険な海魔をルイーゼ皇女の誕生祭の場に放ったってこと……?)
いったい何のために。
まさか、今までと同じようにエルゼを妨害するためなのだろうか。
(そんなまさか! だって、一歩間違えたらエルンスタールの皇女であるルイーゼ殿下にも危害が及びかねないのよ!?)
エルゼを妨害したい者――他の花嫁候補やその協力者が、ルイーゼ皇女を危険に晒すなんて思えない。いや、思いたくなかった。
黙り込んだエルゼをどう思ったのか、リヒャルトは怒りを秘めた低い声で淡々と告げた。
「誰が何のためにそんなことをしたのかはわからない。だが、これはエルンスタール皇国への立派な反逆行為だ。見つけ次第、切り刻んで湖に沈め、水魔の餌にしてやる」
(ひえぇぇぇ……!)
未来視で見た冷酷無慈悲なリヒャルトの片鱗を見せつけられ、エルゼは密かに震えあがった。
(こっ、ここは話を変えなきゃ!)
エルゼは頭を回転させ、慌てて別の話題を振った。
「そういえば今日初めてルイーゼ皇女にお会いしましたが、とても可愛らしい御方で驚きました!」
確かに「会った」のは初めてだ。
その前に「観察した」ことはあるのだが。
「リヒャルト殿下もあんなにお可愛らしい妹君がいらっしゃって鼻が高いのでは? 一緒に遊んだりすることも――」
言葉の途中で、エルゼはとっさに口をつぐんでしまった。
それほどまでに一瞬で、リヒャルトの纏う空気が張り詰めたからだ。
(え、もしかして私、聞いてはいけないこと聞いちゃった? 今の話題って、そんなにまずかった!?)
エルゼとしては当たり障りのない話を振ったつもりなのだが、何故だかリヒャルトのお気には召さなかったようだ。
エルゼはなんとか誤魔化そうと頭を働かせたが、それよりも先にリヒャルトが口を開く。
「……ルイーゼとはお前が想像するような交流はない」
つまりは、エルゼが考えていたような仲良し兄妹ではない……それどころか、家族としての交流もろくにないのかもしれない。
そういえば今日の誕生祭でも、リヒャルトはルイーゼ皇女からは離れた場所にいた。
(私はお兄様とお姉様といつも一緒だったから当然リヒャルト殿下も同じだと思っていたけど……誰もかれもがそうじゃないのね)
エルゼは自らの見識の浅さを恥じた。
そんなエルゼをどう思ったのか、リヒャルトはぽつりと補足する。
「別にルイーゼが悪いわけではない。俺自身の問題だ」
「リヒャルト殿下自身の問題……?」
リヒャルトはそれ以上何も言わなかった。
婉曲的に「聞いてほしくない」と言いたいのだと察したエルゼは、珍しく空気を呼んで口をつぐむ。
それでも沈黙が痛いのは変わらない。
エルゼは頭を悩ませながらも、再び話題を切り出した。
「あんなことになっちゃいましたけど、私たちのグループの企画……ルイーゼ皇女に喜んでいただけたようなんです。皇女様って本当に動物がお好きなようで、苦労して集めた甲斐がありました!」
「……そうだな」
リヒャルトが珍しく肯定的な相槌を打ってきたので、エルゼは逆に驚いてしまう。
更に驚くことに、リヒャルトはとんでもないことを口にしたので。
「俺も見ていた」
「…………!?」
数秒遅れてリヒャルトの言葉の意味を理解したエルゼは、驚きのあまり背後を振り返りそうになってしまった。
(見ていたって、私たちの船にルイーゼ皇女がいらっしゃって楽しんでいた場面を、リヒャルト皇子が見ていたってこと!?)
普通に考えれば何もおかしなことはないのだが、相手がリヒャルトだと思うと天変地異のようにも感じられた。
リヒャルトはいつも不機嫌そうで、各国から集まった選りすぐりの花嫁候補にもまったく興味を示さない。
最初の選考でもろくに花嫁候補たちのアピールなんて聞いていなかったし、それ以降の選考には顔を見せることすら稀だった。
だから、今回の選考でも彼は花嫁候補たちの奮闘など歯牙にもかけていないと思っていたのだが……。
(ちゃんと、見ていてくれたんだ……)
エルゼではなく、ルイーゼ皇女に注目していただけなのかもしれない。
だがそれでも、彼がエルゼの頑張りを見ていてくれたことが、純粋に嬉しかった。
「あのっ、ありがとうございました! リヒャルト殿下! ルイーゼ皇女に喜んでいただけたのも、リヒャルト殿下が動物の生息地を教えてくださったおかげです!」
リヒャルトの協力がなければ、あそこまでうまくいかなかった。
そんな思いを込めて、エルゼは何度も何度も礼を言う。
「あの廃教会も使わせていただいて、本当になんてお礼を言ってよいか……」
「廃教会、か」
リヒャルトが自嘲するようにそう呟く。
その意味深な言葉に、エルゼは息をのんだ。
……今なら、聞けるような気がした。逆に言えば、今を逃せばもうこんなチャンスはやってこない。
今夜の彼は、エルゼに気を遣っているのか単にそういう気分なのか、比較的話を聞いてくれる。
だからこそ、勇気を出してエルゼは口を開いた。