42 私……生きてる……?
(え、何かいる……?)
日の光を浴びて青く輝く湖の、その中に。
何かの影が潜んでいるように見えたのだ。
(気のせい? いえ、違う……!)
明らかに、何かがいる。
「ルイーゼ皇女をお守りして!」
エルゼがそう声を張り上げた次の瞬間、大きな水しぶきを上げて「それ」は姿を現した。
「まさか、水魔!?」
ぬめぬめとした灰色の体から、何本もの触手が生えている。
昔姉や兄と一緒に図鑑で見た、「タコ」なる生き物によく似ていた。
人間を優に超える巨体は、まさに気持ち悪いとしか言いようがない。
「そんな、どうして水魔が!?」
ルイーゼ皇女の侍女たちにも水魔の出現は予想外だったのか、ほとんどパニック状態に陥っているようだ。
見れば、ヴィルマたち三人はしっかりルイーゼ皇女を守る体制に入っている。
だが、水魔の巨体が船ごと転覆させようとしたら不利なのはこちらだ。
(水に落ちたら、水魔の思う壺だわ……!)
エルゼは威嚇するように、こちらを見つめる水魔を睨みつける。
そのまま去ってくれればよかったのだが、なんと水魔は更にこちらへ近づいてきたのだ。
(やるしかない……!)
エルゼは近くのテーブルに視線を走らせ、目についたティーポットを手に取った。
そして、近づいてきた水魔へと思いっきり投げつける。
空中でティーポットの蓋が外れ、熱湯が水魔へと降り注いだ。
さすがに熱湯は効いたのだろう。
水魔はじたばたと暴れ、再び湖の中へと潜っていった。
(やった! でもまだ湖の中にいるから油断はできないわ。とりあえずルイーゼ皇女を皇族用の船に戻して――)
そう考え、一瞬意識が逸れていたのがいけなかったのかもしれない)
エルゼが気が付いた時には、最後の抵抗のように水魔の触手の一本が、間近に迫っていたのだ。
(しまっ――)
まずい、と思う暇もなかった。
エルゼの胴体に巻き付いた触手は、いとも簡単にエルゼの体を水中に引き込んだのだ。
「エルゼ王女!」
ヴィルマたちの悲鳴が、すぐに水に落ちた衝撃にかき消される。
(ダメ、私……泳げない……)
エルゼは必死にもがいたが、どんどんと水底へと引きずり込まれていく。
水面の光が遠くなり、落ちた拍子に水を飲んでしまい呼吸も続かない。
(私、こんなところで死ぬの? まだ、何も――)
無意識に、エルゼは遠くに見える光に手を伸ばした。
意識が遠のく最後の瞬間、必死にこちらへ向かってくる誰かの姿が見えたような気がした。
◇◇◇
長い間、どこかをたゆたっていたような気がする。
ぼんやりとした意識のまま、エルゼはゆっくりと目を開いた。
(暗い……)
あたりはぼんやりと薄暗い。
いったいここはどこなのだろう。
(というか私、何してたんだっけ……?)
まったく現状把握ができず、ぼぉっとしていると――。
「気が付いたか」
「えっ、ひゃあぁぁ!?」
急に声を掛けられ、とっさにそちらへ視線をやり……エルゼは仰天した。
なんとそこにいたのは、全身びしょ濡れのリヒャルトだったのだから!
「なっ、なんで……げほっ!」
素っ頓狂な声を上げた途端、エルゼはむせてしまう。
喉の奥から吐き出されたのは、無色の水だった。
「溺れた時に水を飲んだんだろう。さっさと吐き出せ」
「けほっ、溺れた……?」
そこまで言われて、エルゼはやっと意識を失う直前の出来事を思い出した。
(そうだ! ルイーゼ皇女の誕生祭!)
エルゼたちのグループのもてなしに、ルイーゼ皇女は文句なしに喜んでくれた。
だが何故か、船が水魔に襲われて――。
「あれ、私……生きてる……?」
今更ながらに自分の心臓が動いていることを確認すると、リヒャルトは呆れたようにため息をついた。
意識を失う直前の出来事と、今の状況がまったく結びつかず、エルゼはきょろきょろと周囲を見回した。
エルゼが寝ていたのは、小さな洞窟のような場所だった。
洞窟の外には木や草が生い茂っており、その先は水辺になっているようだ。
(どこかの島……?)
エルゼは再びリヒャルトへと視線を戻す。
リヒャルトは普段と変わらず仏頂面をしていたが、その視線は油断なくエルゼの様子を伺っているようだった。
「えっと、私が湖に落ちて……その後、どうなったのでしょうか?」
おそるおそる問いかけると、リヒャルトは先ほどエルゼが見ていた水辺の方へ視線を移した。
「……花嫁候補として招集した者が選考の最中に亡くなったりしたら、それはエルンスタールの責となる。そうならないために救命活動をしただけだ」
案外まっとうな答えが返って来て、エルゼは逆に驚いてしまった。
(リヒャルトもそういうことを気にしたりするのね……)
確かに選考の最中にエルゼが亡くなれば、エルンスタールとマグリエル二国間の間で大門だとなるだろう。
(そうなったとしても、エルンスタールみたいな大国は気にしないと思っていたわ……)
これは認識を改めねばならないと、エルゼは反省した。
(でも、救命活動ってことは……)
「……リヒャルト殿下が、私を助けてくださったのですか?」
そう問いかけると、リヒャルトは舌打ちした。
間違いなく、それは彼なりの「肯定」の返事だった。
「あ、ありがとうございます……! 私、お恥ずかしいことに泳げなくて、リヒャルト殿下が助けてくださらなかったら今頃……」
エルゼは慌てて立ち上がり更に礼を言おうとしたが、その途端にふらついてしまう。
「座っていろ」
リヒャルトは淡々とそう口にした。
彼の厚意に甘え、エルゼは再び地面に座り直す。
「あの、それで……ここはどこなのですか……?」
「エルンスタールの宮殿を取り巻く湖に位置する島の一つだ。波の関係でたどり着いたのがここだった」
リヒャルトは洞窟の外を指さす。
目を凝らすと、遥か彼方に灯りが見える。
「あそこが宮殿だ」
「……結構な距離を流されたんですね」
もうすでに、ほとんど日は沈みかけている。
いったいこれからどうするのかとリヒャルトを仰ぎ見ると、彼はエルゼの心中を見透かしたかのように告げた。
「夜は水魔の活動が活発になる。救助が来るのは明日になってからだと考えた方がいい」
「ということは、今夜はここで夜を明かすことに……?」
「そうするほかないだろう」
リヒャルトからはっきりと肯定の返事が返って来て、エルゼは存外動揺してしまった。